テクノロジーが誘発するもの
シリーズ「映画のなかのマンション」では、世界の映画でさまざまに描かれてきたマンションを追ってみる。
シリーズ第三回は、『ハイ・ライズ』(ベン・ウィートリー監督 2015年)。ハイ・ライズ High-rise とは高層あるいは高層の、という意味。一般に高層マンションは High-rise apartment と表現される。
原作はイギリスのSF作家J・G・バラードの同名の作品。バラードはSFが目指すのは外宇宙(アウター・スぺース)ではなく内宇宙(インナー・スペース)であると主張し、60年代のニューウェーブSFを主導した。
バラードは70年代の<テクノロジー三部作>と呼ばれる作品で、テクノロジーが誘発するひとの無意識の欲望を描いた。本作の原作も<テクノロジー三部作>のなかの1975年の作品である。
本作でのテクノロジーとはタワーマンションのことだ。
地下基礎杭、耐震・制震・免振構造、工業化プレキャストコンクリート、大容量高速エレベーター、ユニットバスをはじめとする工場生産部材、24時間管理システム、遠隔監視防犯カメラ、タッチレスキー、非常用電源など、タワーマンションは現代のテクノロジーの粋を集めて作り上げられている。
映画『ハイ・ライズ』は、物が散乱したバルコニーで、主人公の医師ロバート・ラング(トム・ヒドルストン)が、ジャーマン・シェパードの腿を火で炙っているシーンから始まる。3ヶ月前までは、そこは理想の住まいのはずだった。
ロンドン郊外に建てられた40階建てのタワーマンション。総戸数1,000戸、小学校、スーパーマーケット、プール、ジムなどが設けられ、通勤以外はほとんど建物のなかで完結する理想の住まい。
そこに住むのは医師、弁護士、広告代理店の役員などの現代の知的エリートたち。最上階のペントハウスには、この建物の設計者であるアンソニー・ロイヤル(ジェレミー・アイアンズ)自らが住んでいる。彼らは毎晩にようにパーティーに明け暮れる日々を過ごしている。
停電に対する下層階の住民からの抗議をきっかけに、階層ごとの対立が激化、理想の住まいは、いつしか憎悪と暴力が剥き出しになった世界へと変貌する。EVが止まり、ライフラインがストップし、清掃が行われなくなり、塵芥にまみれるタワー。人びとは外出を止め、タワーに引きこもり、無秩序と廃墟の甘美さという倒錯の世界に沈んでゆく。
映画『ハイ・ライズ』が描く、現代テクノロジーの粋を極めたタワーマンションが誘発するものを断章風に挙げてみる。
高さが惹起する階層格差
遥か川向うにロンドン市街を見渡し、地上を睥睨するような上からの眼差し。高さはタワーマンションの存在理由であり、すべてを価値づける。
高さという価値の象徴として描かれるのが、アンソニー・ロイヤルが住む最上階のペントハウスだ。そこには広大な屋上庭園があり、羊が遊び、馬が走り回る。そこは天上の楽園のようであり、タワーの設計者であるロイヤルは、まるで世界を作った神のように最上階に君臨する。
40階、100mというタワーマンションの高さは、階層意識を誘発する。神に近い上層階、神に最も遠い下層階、その中間の中層階。階層が異なる住民の間では、格差意識が芽生え、疑心暗鬼、相互不信が蔓延する。
通常の高さを超えた高さだからこそ、より高く、より上にとの欲望を誘発するのがタワーマンションだ。
生命体としてのタワー
人工池を囲む5本のタワーマンションからなる壮大なマスタープランのなかで最初に完成した建物として、本作のタワーマンションは登場する。その建物は上層階で内側に徐々に張り出すような不思議なフォルムをしている。
設計者で最上階のペントハウスに住むアンソニー・ロイヤルはいう。5本のタワーは人間の手のイメージであり、池は手の平、最初のタワーは人差し指にあたり、上層階で内側に張り出すようなそのフォルムは、開いた手の末節骨(手足の指の先端の骨)の様子をデザインしたものだと。
「心的な事象を表す無意識の図表みたいだ」と設計図を見せられドクター・ラングの感想に、ロイヤルは我が意を得たりという表情で笑みを浮かべる。
「灯りや光は偉大な脳のニューロンのようだ。エレベーターはまるで心房だ。僕は廊下を細胞のように動く。動脈の網のなかで」と生理学の医師ラングは、タワーマンションを人体になぞらえる。J・G・バラード自身も解剖学、生理学の学徒だった。
ここではタワーマンションがひとつの生命体として提示されている。テクノロジーを生命になぞらえるのは、生命を機械やテクノロジーとしてとらえるという発想と表裏一体だ。
「人間は自身が作ったものの中に自身の姿を見ることで人間になるか、作ったものの中に自身の可能性を見出すことで人間になる。したがって、人間はただ道具を発明するわけではない。道具が人間を発明するのだ。もっと正確に言えば、道具と人間はお互いを生み出しあっている」( ビアトリス・コロミーナ、マーク・ウィグリー 『我々は人間なのか?』 ビー・エヌ・エヌ新社)。
近代における人間のための機械、あるいはヒューマンなデザインという考え方こそが、人間を超える機械、ポストヒューマンを志向するものだと、ビアトリス・コロミーナらは喝破した。
タワーマンションは、人間を目指し、人間はタワーマンションになることを欲望する。
自閉する世界
総戸数1,000戸、2,000人を超える人々が住むタワーマンション。
買い物、教育、フィットネス、ビューティ、医療、レストラン、コンシェルジュなど、至れり尽くせりの施設が完備され、このタワーマンションは、単なる建物というよりは、ひとつの街であり、ひとつの都市であり、ひとつの世界だ。
なんでも揃う便利さと快適さに依存した暮らしは、住民をストレスフルな外界から遠ざけ、人びとは自らすすんでタワーの世界に自閉するようになってゆく。
アンソニー・ロイヤルのパーティに呼ばれた翌朝、ドクター・ラングは理由もなく勤務を休む。
「翌朝、ラングははやくから起き出して張り切った。頭もすっきりして気分爽快なのだが、何故医学部を休むことにしたのか自分でもわからなかった」(小説『ハイ・ライズ』 創元SF文庫)
まるでタワーマンションに魅入られるように、引きこもり始める人々。ドクター・ラングはそれ以降、通勤を試みるも果たせなくなり、タワーに自閉する生活に至る。まるでタワーマンションと一体化することを望むように。
コンクリートの箱という抑圧
「二千人の入居者は、生活にゆとりのある専門職のほとんど均質集合体といったものを形成していた。(略)彼らは通常の収入と教育の水準からすれば、おそらく考えられるどんな階級混成よりも、たがいの差がすくなく、趣味と考えかた、流行と生活様式をおなじくし、それはマンションのまわりの駐車場にならぶ車の選択にも、エレガントでそのくせどこか画一的な室内装飾にも、スーパーマーケットのデリカテッセンでえらぶ高級食材にも、その自信に満ちた話しかたにも、はっきりあらわれていた」(同上)
コンクリートの箱という閉鎖環境に自閉する同質集団は、些細なすれ違いや取るに足らない差異でストレスを蓄積してゆく。そうしたストレスを忘れるように、人びとはパーティに明け暮れ、噂話にのめり込み、セックスに耽溺する毎日を送っているが、外界から隔絶されたタワーマンションのなかで抑圧されたストレスは、じわじわと無関心、無秩序、暴力というはけ口を見出してゆく。
テクノロジーによる完璧さの果てに
壮大なマスタープラン、豪華な建物、知的エリートの入居者。理想の世界だったタワーマンションが、何故、さしたる理由もなく、憎悪と暴力に満ちた、ゴミだらけで汚らしい無秩序な世界へと変わっていったのか。
アンソニー・ロイヤル=神によって、最先端のテクノロジーを駆使し、完璧な秩序、完璧な清潔さ、完璧な美として作られたタワーマンション。その完璧な生命体としてのタワーマンションに、唯一、馴染まなかったのは、そこに住む、細胞としての不完全な人間たちだった。
神の完璧さに反抗するように、人びとは生命体の内部に引きこもり、自らの自己破滅と引き換えに、神の手になる秩序と美を葬った。理想の秩序と清潔と美は、無秩序と汚れと醜さに支配された廃墟へと転落する。
頭脳と美貌と肉体美を誇るロバート・ラング(イギリスきっての二枚目俳優トム・ヒドルストンが、はまり役で演じる。その完璧な美を誇るようにヒドルトンは冒頭、早速、全裸で登場する)が、物語の進行とともに、徐々に薄汚く変貌していくことは象徴的だ。
何故、そうなったのか、ドクラー・ラングをはじめ、誰もその原因も理由もわからない。そのことは、彼らの行為が存在論的なもの由来していることを物語っている。
テクノロジーは人間によって作られる。人間もまたテクノロジーによって作られる。テクノロジーは人間に憧れ、人間はテクノロジーに嫉妬する。
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バブルの前は戦前から続く昭和の東京がかろうじて残っていた
向田邦子は「中目黒っ子」だった(「イメージの街・中目黒<前編>」)。
実はわたしも「中目黒っ子」だった。住所も向田邦子が住んだ同じ中目黒三丁目。中目黒四丁目にもほど近いところ。
とはいえ向田邦子のように多感な年齢の時に暮らしたわけでないので、わたしの場合は、さしずめ「非正規」の「中目黒っ子」というわけであるが。
わたしが「中目黒っ子」だったのは、70年代後半から80年代前半のバブルの前の数年間。
バブルは昭和60年代(1980年代後半)の出来事であり、向田邦子がさまざまに描いた「卓袱台のある暮らし」が失われ始めた昭和30年代(1960年前後)からすでに20年以上が過ぎており、戦前から続く昭和の東京は、その頃にはあらかた消えてなくなっていたものの、その残り香は、まだかすかに感じられた。
向田邦子が描いたのは東京の「あんこ」の暮らし
槇文彦は、バリー・シェルトン『日本の都市から学ぶこと ―― 西洋から見た日本の都市デザイン』(鹿島出版会、2014年)に掲載された日本の都市の典型を描いた図を引用しながら、「日本の大都市は都市形態学的に見ると「皮」と「あんこ」でできている」と述べている(『アナザーユートピア』)。
「皮」とは大通りの沿道に高層建物が貼りついた様子を、「あんこ」とは「皮」に囲まれてその内側に広がる低層建物が密集する様子を、それぞれ表現したものだ。
そして「東京にはいたるところに、良いあんこに相当する場所が残っている。それが東京を世界に例の少ないヒューマンな都市にしてくれているのだ。皮だけの街は退屈なものだ」と言っている。
■中目黒四丁目の住宅地
向田邦子が住んでいたのは山手通りの南側に広がる中目黒の「あんこ」の木造一戸建てだった。
向田邦子が描いた「卓袱台のある暮らし」とは言い換えれば「あんこ」の暮らしだといえる。関東大震災後に「あんこ」を舞台に生まれ、戦前、戦後と継続されてきた昭和の東京の暮らしだ。
バブルで激変したのは、主に「皮」の部分だ。「皮」の部分が残らず高層化した。それに比べ「あのこ」の部分は、道路が狭く複雑に入り交じり、容積率も低いことから、派手な開発や大規模なビルの建設などが難しく、宅地は細分化され、住宅は軒並み建て替わりはしたものの、「あんこ」が育んできた、静かで、落ち着いて、ヒューマンな環境は、さほど変わらずに今日に至っているところが多い。槇文彦の言う「良いあんこ」だ。
わたしが住んでいたのは、そうした「あんこ」ではなく「皮」にあたる山手通り沿いに建つ8階建ての賃貸マンションだった。
■山手通り 中目黒三丁目付近
今でこそ山手通りの沿道は、両側にびっしりと高層の建物が建ち並んでいるが、バブルの前は高層の建物は今よりもずっとまばらで、建物による壁よりも隙間の方が目立つ街並みだった。隙間には木造の一戸建てや商店や飲食店や小工場などが建っていた。
「ブラジル食堂」。あるいは食堂のかたちをした「昭和」
そんな山手通りの隙間に、戦後の「昭和」がそのままに、その店はあった。
白地に手縫いの大きな紺の文字で「ブラジル食堂」と縫い付けられた、年季の入った暖簾がかけられていた。暖簾はあまりに横長だったので、真ん中あたりで撓んでいたような気がする。
ブラジルと言いながら、店はごく普通の定食屋だった。より正確に言うと、実質と価格がウリの大衆食堂だ。そこにはブラジルを感じさせるものは微塵もなかった。
四間間口いっぱいの木枠の硝子戸、コンクリートの土間、デコラ貼りのテーブル、アルマイトの灰皿。おかずは作り置かれたものを、入って右のガラスケースに並べられたものから選ぶ方式で、一皿100円に満たないものが多かった。電子レンジで温めるようなサービスはないが、焼き魚などは焼き網で再度あぶってくれた。温かいどんぶり飯と味噌汁がついた。
作り置かれたおかずをガラスケースから選ぶという、昔風情の食堂は、当時ですら珍しかった。
「卓袱台のある暮らし」の時代、つまり、台所が別室にあり、調理器具は限られ、大人数の家族が茶の間の卓袱台を囲んで食事をするのが当たり前だった時代には、おかずはすでに調理されたものが皿に盛りつけられて卓袱台に並べられており、ご飯はおひつに移されて運ばれ、おみおつけ(向田邦子の言い方の真似だ)は鍋ごと鍋敷きの上に置かれ、母親が家族を呼んで、みんなが揃って、さあ、いただきますというのが、普通の家族の食事風景だった。
家族めいめいに出来立てのものを供したり、食べる直前にチンして温めたりなどは、ガスコンロや魚焼き器がビルトインされたシステムキッチンと電子レンジが普及する昭和40年代(1960年代)以降の話だ。
あらかじめ調理済のおかずをガラスケースのなかから選ぶという方式は、人手が限られるなど現実的な問題以上に、こうした戦前から続く「卓袱台のある暮らし」のスタイルが、当たり前に踏襲された結果なのではなかったか。
わたしの定番は鯖塩焼きや赤ウインナーやマルシンハンバーグだった。今でもこの3点に強い執着を感じるのは、そして、これらに関しては、出来立てよりは断然、冷めたものの方が旨いと思うのは、きっと「ブラジル食堂」のこの昭和方式に由来しているのだ。
足の悪い60がらみの父親と思しき店主と30歳台の女性が切り盛りしており、大人はこの2人以外は見かけたことはない。食堂の土間の奥は一段高くなった座敷となっており、時折、小学生の男の子が出入りしていた。店が玄関を兼ね、座敷は自宅で、男の子は女性の子供だったのだろう。
店主は戦前のブラジル移民で、現地での不幸な事故で足を失いブラジルを後にし、再び日本の地を踏んだ。そこには日本では知られてこなかった戦争の悲劇が横たわっていた・・・。
といった具合に、ドラマや小説であれば展開するわけだが、これらはすべて妄想に過ぎず、わたしの「ブラジル食堂」をめぐる話は、木枠の硝子戸や作り置きのおかずが並ぶガラスケースや鯖塩や赤ウインナーの記憶に終始するだけで、残念ながら、これ以上発展しない。
「ブラジル食堂」は80年代まではあったが、バブル崩壊後に付近を訪れた時には建物ごと跡形もなかった。
なぜブラジルなのか。店の名前の由来はついぞわからないままだった。聞いておくんだった、と今になって大いに悔やまれる。
おしゃれスポットとして注目される中目黒。その理由は?
小さな古着屋やここだけのショップなど個性的なお店が集まり、目黒川は沿いは春ともなれば、日本酒よりスパークリングワインが似合うスタイリッシュなお花見スポットとして満員電車並みの人出でにぎわい、ブルーボトル・コーヒーやスターバックス・リザーブ・ロースタリーなど人気のスペシャルティコーヒーショップが出店し、近年の中目黒はすっかり、おしゃれな街、住んでみたい街として注目を集めるようになった。
中目黒がおしゃれな街として広く注目され始めたのは2000年頃からだ。
■スターバックス リザーブ ロースタリー東京
それ以前の中目黒はといえば、都心寄りの渋谷・代官山と横浜寄りの自由が丘という2大高感度エリアの狭間にあり、駅前には山手通りの騒音しかなく、計算センターや保険会社などの巨大ビルが唐突に建ち、木密店舗や古い商店街、目黒川沿いに建つ大小の工場や事務所、坂や路地が多い住宅街などが入り混じった、はっきり言って、あまりぱっとしない日常の場所だった。
駅前の木密飲食街にあった立ち食い蕎麦屋では、かき揚げそばにちくわ天を乗せた豪華かけそばが280円で食べられ、中目黒四丁目の山手通りには、近所の事務所・工場勤務者を相手にした屋台のラーメン屋やおでん屋が夜になると店を張り、東急ストアの裏手の狭い河畔で花見で盛り上がろうとする人など皆無だった。
界隈でスタイリッシュやおしゃれを求める時は、新道坂を槍ヶ崎の交差点まで息を切らして登って代官山まで出向くか、電車で4駅目の自由が丘に遠征する必要があった。
■中目黒駅前 東横線高架下
時代はめぐり、中目黒のそんな、ぱっとしない日常性、ある種の辺境性が、逆に希少な価値として浮上してゆく。
高層ビルが立ち並ぶ、非日常の、気張ったスタイルの既存のおしゃれスポットに飽き飽きした高感度層にとって、ぱっとしない日常性は、大いなる魅力に映る。普通であることの大切さ、当たり前をていねいに生きる楽しさ、毎日の暮らしのクオリティに感じる幸せにふさわしい場所として、お店を構えたい街、行ってみたい街、住んでみたい街として、中目黒が評価されてゆく。
■目黒銀座商店街 和泉屋本店
なんのことはない、そうしたものは向田邦子が愛した戦前からの「卓袱台のある暮らし」がひそかに息づく東京の「良いあんこ」としての中目黒や「ブラジル食堂」の実質の旨さや満足感と同じものだ、と思う。
イメージの街とは地層のようなものだ。都市や街やそこでの営みが、文字や映像や記憶となって堆積した地層のようなものだ。
変貌と喪失を繰り返しながら、イメージの街という地層において、現在は過去と併存し、未来さえも同時に存在しているのだ。
(★)top画像は目黒川の桜
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わたしたちはイメージの都市、イメージの街に生きている
都市や街を物理的な空間としてだけとらえるのは大きな間違いだ。わたしたちは都市や街をイメージとしてとらえ、そのイメージとともに生きている。
都市や街は、目の前の物理的な空間やモノであると同時に、過去の記憶のなかの都市や街であり、さらには、言葉によって獲得された都市や街である。
今はかつてと重なり、ここはどこかとオーバーラップする。慣れ親しんだ今やここは、まったく異なる時空へとつながっている。
昭和30年代。「昭和」の喪失の始まり
昭和の終わりに起こったバブルにより、かろうじて残っていた「昭和」は一掃されたが、「昭和」の喪失は、すでに昭和30年代に始まっていた。
「昭和三十年代は、日本の生活史上、重要な意味を持っているように思える。江戸時代から明治、大正、昭和へと受けつがれてきた生活具や習慣が、この時期にかなり消え去った」という吉村昭の言葉を引用(『昭和歳時記』から)しながら、川本三郎は、消え去ったものの例として、蚊帳、物干台、汲み取り式の便所、おひつ、割烹着、卓袱台などを挙げている(『向田邦子と昭和の東京』)。
記憶をたどり、昭和30年代に消え去ったものをこれに付け加えるとすると、住宅まわりでは、トタン葺きの壁や屋根、下見板張りの木造平屋、木枠の硝子戸、格子戸、捻子締まり錠(ねじしまりじょう)、縁側、敷居、三和土、茶の間、薪で焚く風呂、板塀、数寄屋門、庭木戸、竹垣など、生活用具では氷式冷蔵庫、火鉢、湯たんぽ、練炭コンロ、茶箪笥、大八車などだろうか。
■祐天寺一丁目の住宅地
昭和30年(1955年)に発足した住宅公団は、板張りの独立した食事室を設け、そこをダイニングキッチンと命名した、いわゆる2DKの間取りを供給し始める。この2DKが、核家族、洋風の暮らし、家族間のプライバシーなど、その後の日本の住まい方の原形となって今日に至った。
昭和32年(1957年)に供給された公団・蓮根団地では、ダイニングキッチンにはあらかじめダイニングテーブルが備え付けられていた。その理由はというと、当時は、この板張りの空間に卓袱台を置いて食事をする人が多く、その使い方を啓蒙するためという理由だ(記事「マンションのルーツを体験する<2>ダイニング・キッチンという発明@集合住宅歴史館」参照)。
昭和30年代が、戦前から続いてきた「卓袱台のある暮らし」の転換点だったことを物語るエピソードである。
「卓袱台のある暮らし」を書いた作家
「卓袱台のある暮らし」を卓越した観察眼で書いたのが向田邦子だ。
女正月(一月十五日のこと)や初冬の白菜の漬込みなど家族による季節の行事、嫁ぎ先に合わせておむすび(向田邦子はおにぎりとは書かない)の形が変わることで気がつく慣れ親しんだ家の習慣、カレーライス(外で食べるカレー)とライスカレー(家で食べる母のカレー)の違い、「持ち重り」や「時分どき」や「分限者(ぶげんしゃ)」などの使われなくなった言葉、「疳性」や「たち」(例えば、せっかちなたち)や「くせに」(例えば、女のくせに)などの聞かれなくなった言い方、外では帽子をかぶり、夏には白麻スーツを着、家では和服に着替えるなど昭和の男のいでたち、廊下の突き当りのご不浄、硝子戸の外の庭先に吊り下げられた手洗い器など、暗くて寒そうな日本家屋etc.
ドラマ、エッセイ、小説など、さまざまな作品において、失われた「卓袱台のある暮らし」の具体を、時に突き放した抑制された調子で、しかしながら限りない懐かしさと愛惜を込めて、向田邦子は書いた。
向田邦子が住んだ中目黒
向田邦子が戦争を挟んだ子供時代に住んだのが中目黒だった。小学校一年からの3年間を中目黒三丁目(隣で殺人事件(!)が起こり、後に下目黒四丁目に転居)、女学校一年からの6年間を中目黒四丁目に。いずれも祐天寺にほど近いあたりだった。
■祐天寺の板塀
中目黒三丁目の家はこう記されている。
「小学校一年の時に住んだ中目黒の家は文化住宅のはしりであった。玄関の横に西洋館のついた、見てくれはいいが安普請の、同じつくりの借家が三軒並んでいた」(「隣の匂い」『父の詫び状』収録)。
おそらく中目黒三丁目での日常のひとコマでもあったろう、母が毎晩、茶の間で子供たちの鉛筆をけずってくれた思い出。
「子供にとって、夜の廊下は暗くて気味が悪い。ご不浄はもっとこわいのだが、母が鉛筆をけずる音を聞くと、何故かほっとするような気持になった。安心してご不浄へゆき、また帰りにちょっと母の姿をのぞいて布団にもぐり込み夢のつづきを見られたのである」(「子供たちの夜」『父の詫び状』収録)。
たぶんこれも中目黒時代のワンシーン。
「茶の間からは母が膳立てをする音が聞こえている。祖母は網の上でそっくりかえる味醂干しを白地に藍の印判手(いんばんで)の皿にのせ、五、六匹まとまると、私を茶の間へとせき立てた。受け取る母は、白い割烹着で、赤くふくらんであかぎれの切れた手をしていた。腕のところに輪ゴムをはめていることもあった。輪ゴムは当時は貴重品だったのだろうか。ニ度三度と台所と茶の間の間を往復して、祖母と私はいつも食卓につくのはビリだったが、その代わり、口に入れると、ジュウと音のするアツアツの味醂干しを食べることが出来た」(「味醂干し」『眠る盃』所蔵)。
■中目黒三丁目の住宅地
多感な女学校時代に住んだ中目黒四丁目の家は、おそらくは向田邦子が最も思い出深く思っている家だ。
同居していた祖母が亡くなり通夜の夜、普段の暴君振りとはうって変わって、弔問に訪れた会社の社長に、式台に手をついてひれ伏しながら、卑屈とも思えるようなお辞儀をする父の姿を見た家。
「私達に見せないところで、父はこの姿で戦ってきたのだ。父だけ夜のおかずが一品多いことも、保険契約の成績が思うにまかせない締切の時期に、八つ当たりの感じで飛んできた拳骨をも許そうと思った。私は今でもこの夜の父の姿を思うと、胸の中でうずくものがある」(「お辞儀」『父の詫び状』収録)。
■中目黒三丁目の住宅地
昭和二十年三月十日の東京大空襲の夜、周りが火の海になるなかで、家があった隣組の一画だけが奇跡的に焼け残る。翌朝、死ぬ前にうまいものを食べようじゃあないかとの父の発案で、しまってあった最後の白米とさつまいもの天ぷらを、泥だらけの家でおやこ五人が車座になって食べた家。
「父は泣いているように見えた。自分の家を土足で汚し、年端もゆかぬ子供達を飢えたまま死なすのが、家長として父として無念だったに違いない。(中略)戦争。家族。ふたつの言葉を結びつけると、私にはこの日の、みじめで滑稽な最後の昼餐が、さつまいもの天ぷらが浮かんでくるのである」(「ごはん」『父の詫び状』収録)。
向田邦子は「中目黒っ子」である
昭和四年(1929年)に世田谷の若林に生まれた向田邦子は、保険会社に勤めていた父の転勤の関係で、宇都宮、高松、鹿児島など地方への転居を繰り返すが、少女時代に最も長く住んだのは中目黒だった。
「阿修羅のごとく」に登場する国立の両親の家も阿佐ヶ谷の長女の家も、「あ・うん」の舞台となった白金三光町あたりも、城南や山の手を舞台にした向田邦子のドラマの舞台の原形になったのは中目黒だった。
そして「寺内貫太郎一家」が住む、山の手とは言えない谷中の木造家屋さえも、そのルーツは中目黒にあったとし、「向田邦子は『東京っ子』であると同時により細分化していえば『中目黒っ子』である」と川本三郎は見抜いている(前掲書)。
実はわたしも「中目黒っ子」だった。住所も向田邦子と同じ同じ中目黒三丁目。中目黒四丁目にもほど近いところだった。
多感な少年時代に住んだわけではないので、わたしの場合は、いわば「非正規」の「中目黒っ子」というわけだが。
もちろん戦前ではない。わたしが「中目黒っ子」だったのは、70年代終わりから80年代前半の数年間。
それはバブルが勃興する前の時代。中目黒にもまだ「昭和」がかろうじて残っていた時代だ。
(★)top画像は祐天寺駅に続く商店街。向田邦子は、雨が降り始めた夕方などに、傘を持ってよく祐天寺駅まで父を迎えに行った思い出を書いている。向田親子もこの商店街を歩いたのだろうか。
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シリーズ「映画のなかのマンション」では、世界の映画でさまざまに描かれてきたマンションを追ってみる。
第二回では、『ほえる犬は噛まない』(ポン・ジュノ監督 2003年)を取り上げる。
改めて説明するまでもないが、ポン・ジュノ監督は、映画『パラサイト 半地下の家族』で、本年(2020年)の第92回アカデミー作品賞・監督賞・脚本賞・国際長編映画賞の4冠を獲得し、非英語作品の作品賞受賞は史上初という快挙を成し遂げた。
舞台となるのは板状の高層マンションが立ち並ぶ団地。管理事務所で経理の仕事をしている商業高校卒のヒョンナム(ペ・ドゥナ)は、どこか夢見がちな女の子。マンションの一画にあるしょぼい雑貨屋の店番の女友達とつるんで詰まらそうな日々を送っている。マンションの居住者で、大学教授のポストを目指している冴えない青年ユンジュ(イ・ソンジェ)は、妻の収入で暮らし、絶えず妻から虐げられならが主夫をしている鬱屈した毎日。そんななか、居住者の飼い犬が次々と失踪する事件が起こる。ひょんなことから犯人を目撃し、犯人捜しという非日常の到来に張り切るヒョンナム。いつも犬の泣き声にイラついている自らがペットを飼う羽目になるユンジュ。事件の陰にあるマンションの日常に潜む驚きの事実が明らかになってゆく。
笑いとシリアスと残酷さが共存し、コメディとサスペンスとホラーが一緒くたになった予想がつかない展開という、ジャンルの枠に収まらないポン・ジュノの個性は、長編映画デビュー作である本作品において、既に開花している。
明るい平穏の陰には暗い闇が潜んでおり、日常と非日常は隣りあわせだ。そんな社会の縮図としてマンションが描かれる。この映画の本当の主役はマンションだいっても過言ではない。
隠された闇の世界を象徴するのが、住民が入れないマンションの地下空間だ。そこでは、人が良さそうな警備員のおっさんが失踪した飼い犬を鍋料理にして孤独な宴を開く場であり、マンションの手抜き工事とそれをめぐる伝説のボイラー職人ボイラー・キムさんの悲劇の舞台であり、地上のマンションとは別の世界の住人を象徴するホームレスの人物が幽霊のように暮らす場所である。
地下空間とあわせて、日常の中の非日常の場所として描かれるのがマンションの屋上だ。
屋上は、飼い犬を盗まれた孤独な老女が切干大根を干す場所であり、ヒョンナムと女友達が仕事をサボってたばこを吸うためにたむろする場所であり、犯人が飼い犬を地上に向けて投げ落とすところである。あやうくユンジュの犬がバーベキューにされそうになったりするのも、この屋上である。
登場する板状の開放片廊下型の高層マンションは、韓国でも、日本でも、どこにでもある、ありふれた形式のマンションだ。
この見慣れたマンションが、非日常の風景となって、目の前に現れるという、映画ならではの必見のシーンがある。飼い犬を屋上から投げ落とした犯人をヒョンナムが追いかけるマンション内でのチェイスシーンだ。
開放片廊下を疾走する犯人とヒョンナム。階段でほかの階に移動し、追っ手を巻こうとする犯人。必死で食らいつくヒョンナム。追いつかんばかりに、犯人の背中にカメラが迫る。
マンションの開放廊下側のファサードを捉えたロングショットが、引きながら距離を変えたカットに分割され、畳み込むように連続し、必死の追跡劇という非日常が、紛れもなくマンションの廊下で起こっているのだということを観ている者に印象づける。
長い長い開放片廊下が積み重なった見慣れた風景は、いつの間にか犯人が追っ手をすり抜けながら身を隠すに適した、水平・垂直に伸びた迷宮空間に見えてくる。どこにでもあるマンションが、コンクリートの縦の迷宮という摩訶不思議な存在に見えてくる。
日常のなかに非日常を感得するのが、芸術のひとつの意味だとすると、まさに本作品は芸術作品だ。
犯人に追いつきそうになったその瞬間、ヒョンナムは、偶然開けられた鉄扉に激突、転倒。間一髪で犯人を取り逃がす。犯人はコンクリートの迷宮に消えた。
地下の闇、屋上や廊下の非日常性を描くことに加え、この映画はマンションの中で営まれる暮らし自体が、一皮むけば黒く濁ったどろどろしたものを抱えているという、今の社会の現実を描き出す。
なにごともなさそうに見えるマンションライフの蓋を開けてみると、そこに詰まっているのは、学歴社会、競争社会、格差社会の果てのリアルである。
不正、わいろの横行、理不尽なリストラ、不機嫌、イライラ、倦怠に苛まれる日々、はけ口としての虐待、身寄りのない独居老人やホームレスという終着駅etc.。ポン・ジュノは、それらに抗するように輝く、小さな正義や思いやりを、そこに加えることを忘れない。
マンションというコンクリートの箱は、こうしたものが絡まり合って渦巻いている一筋縄でいかない世界を、その内部に抱えながら、微動だにせず建ち続ける。
映画は、ユンジュが緑の山を眺めているシーンから始まる。画面の中央が曇る。それはユンジュの息で窓のガラスが曇ったもので、ユンジュはマンションの室内におり、目の前の緑の山は、ガラス越しに見ているものであることがわかる。ユンジュは窓を開ける。犬の鳴き声が聞こえてきて、ユンジュは神経を尖らせ、鳴き声の主を探すようにバルコニーへと身を乗り出す。
映画のラストは逆だ。ユンジュが教鞭を取る階段教室で、窓の暗幕が引かれ、今まで見えていた外の緑が視界から消える。
ユンジュのいる場所は、窓の内側、外の自然の生態系から隔絶された場所だ。
人間の社会は「第二の自然」と比喩されるが、本作品で描かれるマンションは、独自の生態系で営まれる「第二の自然」そのものである。
初出:東京カンテイ「マンションライブラリー」
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道具によるひとの奴隷化
悩めるひとりの働く女性。
自分のキャリアのためにはどのタイミングで子どもを産むのがいいかと、上司に相談したところ「出産に『いいタイミング』なんかあるわけないじゃない」と言われて、とても気が楽になったと言う。
こんなエピソードを若林恵が紹介している(『NEXT GENERATION GOVERNMENT 次世代ガバメント 小さくて大きい政府のつくり方』(黒鳥社 2019年)。
ひとは知らず知らずに制度やシステムや組織に支配されている。支配という言葉がきつければ大きな影響を受けていると言い換えてもよい。今の社会を象徴するエピソードだ。
こうした事態をイヴァン・イリイチは、道具によるひとの奴隷化と呼んだ。イヴァン・イリイチは、文字通りの道具に加え、制度、システム、組織、科学技術、商品など、ひとと世界を媒介するものを道具と呼んだ(『コンヴィヴィアリティのための道具』 渡辺京ニ・渡辺梨佐訳 ちくま学芸文庫 2015年 原書は1973刊)。
企業、行政、医療、教育、市場、輸送、通信、法など、わたしたちを取り巻くすべてが、イリイチのいう道具だ。
本来は道具はひとのために作られる。当たり前だ。ところが産業主義的生産様式が席捲する社会では、ひとのために作られた道具が、いつの間にか独り歩きし、ひとを支配し奴隷化する、イリイチはそう言った。
イリイチは道具を否定したわけではない。逆に「道具は社会関係にとって本質的である」と言っている。
「移動したり住みついたりするには、個人は道具を必要とする。病気にかかれば治療が必要だし、おたがいに意志や気持ちを通じ合わす手段も必要だ。人々はこういったもののすべてを、他人の手を借りずに作り出せるわけではない」とすると同時に、「人々は生まれながらにして、治療したり、移動したり、学んだり、自分の家を建てたり、死者を葬ったりする能力をもっている」とも言っている。
根元的独占とは
「産業的でない活動を競争から締め出すとき、私はそれを根元的独占と呼ぶ」として、産業的道具がそれ以外の選択肢を排除した状態を「根元的独占」と呼んだ。
その仕組みはこうだ。
拡大の慣性が働く産業主義のもとでは、いったん作られた制度や組織や技術は、拡大の一途をたどる。それがある規模や限界(分水嶺)を超えると、知識や情報が専門家に独占されるようになり、その結果、ますます拡大が加速し、それ以外の選択枝が駆逐され、それら(道具)を自主的に選択していたはずが、いつのまにかそれら(道具)がないとならないようになり、道具への依存が始まり、ひとは単なる道具の消費者に陥り、道具に支配される構図が出来上がる。
医者という専門家と病院いう専門組織に独占される医療、教師と学校が支配する教育、車と高速道路に依存した交通システム、公私の官僚的制度のなかで営まれる日々の仕事と暮らし。
選択の自由がなく、人間の自主性が奪われ、想像性が失われた世界、ひとが単なる道具の消費者の地位に降格された社会をイリイチは、「専門家帝国主義」、「社会の『校舎化・病棟化・獄舎化』」と呼んでいる。
イリイチは、人間の自立と自由が阻害されたこうした状況を、動詞が名詞に変わった社会と言っている。働くことは仕事をすることに変わり、学ぶことは教育を受けることに変わり、家を建てることは住宅(ハウジング)を買うことに変わる。
動詞が名詞化した社会とは、生きることがすなわち商品を所有することと同義になってしまった、すべてが商品化した今の社会の本質を言い表している。
(*photo by Adrift Animal - Ivan Illich/CC BY–SA 4.0)
冒頭の事例は深刻だ。
いつの間にか会社や仕事によって、子供を産むという人間の営みが制限・管理されている社会、ひとの誕生が商品と化している社会だ。もっと言えば、現代では、恋愛や結婚ですら、商品として市場での最適解が求められ、ゆくゆくは、病気や死すらも会社によって適切にマネージメントされた、人生のあらゆる局面が商品化された世の中になるのかもしれない。
上司から「今は忙しいから死んでもらっては困る」と言われる社会の到来だ。
道具の制限、コンヴィヴィアリティのための道具
こうした社会を転倒させるためには、道具の制限、道具の規模の制限が必要だと、イリイチは説く。
道具を人間の暮らしの制限の下に置くこと。人間のための道具という、道具本来のあり方をイリイチはコンヴィヴィアリティ(自立共生)のための道具と命名した。
Convivialとは、辞書にはcheerful and friendly in atomosphere or characterとある(『オックスフォード現代英英辞典』)。
「現代の科学技術が管理する人々にではなく、政治的に相互に結びついた個人に仕えるような社会、それを私は”自立共生的(コンヴィヴィアル)”と呼びたい」と定義している。
医療や教育や労働などを対象にしたこれまでの論考を集大成するようなかたちで本書が出版されたのが1973年。
折しもローマクラブが「成長の限界」を唱え(1972年)、日本はオイルショックにより、戦後初め経済成長がマイナスに転じた年(1973年)。経済成長の果ての、人口爆発、環境破壊、資源枯渇、そして成長拡大の限界がいわれ始めた時代だ。
三田宗介は1970年前後は世界の人口増加の変化率(変曲点)がマイナスに転じた、近代の転換点にあたり、過去300年に渡る世界の大成長時代の終焉を指摘した。
自立共生的(コンヴィヴィアル)な道具の例として、イリイチはアルファベットと印刷機と図書館を挙げているが、同時代に誕生したコンヴイヴィアルな道具のイメージに最も近いのは、パソコンやインターネットから始まったデジタル革命だろう。
「ホール・アース・カタログ」の発行人スチュアート・ブランドは、「すべてはヒッピーのおかげ」というエッセイで「カウンターカルチャーが中央の権威に対して持つ軽蔑が、リーダーのいないインターネットばかりか、すべてのパーソナル・コンピューター革命の哲学的基礎となった」と、デジタル革命初期のまさに自立共生的(コンヴィヴィアル)な様子を語った(”We Owe It All to The Hippies,” Times, special issue, spring 1995)。
デジタル社会は、コンヴィヴィアルな社会か?
では、その後すっかりデジタル・テクノロジーが普及した今の社会は、コンヴィヴィアルな社会といえるのだろうか。
「あなたはFacebookの顧客ではない。製品なのだ」
GAFAに代表される、デジタル武装した巨大企業が市場や社会を専横する今の状況を、テックシンカーのダグラス・ラシュコフはこう喝破した(”You are Facebook's product, not customer” ,Wired, 2012/12/27)。
ラシュコフは、今の社会は「デジタル技術で増幅された昔ながらのグローバル産業主義のひとつのバーションにすぎない a digitally amplified version of the same old global industrialism」として、そうした経済を「デジタル産業主義 Degital Indstrialism」と定義した
反権威、ガレージ起業、リーダー不要から始まったデジタル革命とそれに続くさまざまなデジタル・テクノロジーは、その後、いつの間にか、当初の哲学と文化から遠く離れ、それまでの産業主義的生産様式を増幅しただけだった、そしてコンヴィヴィアルどころか、すっかりデジタルという道具ののしもべと化したわれわれがいるだけだ、と。
デジタル・テクノロジーという道具をめぐる攻防
そして、ラシュコフは、これからの目指すべきデジタル社会のあり方として「デジタル分散主義 Digital Distributism」を提案する。
「指数関数的成長 exponential growth」から「持続的繁栄 sustainable prosperity」へ、「独占のためのプラットフォーム platform monopoly」から「共働のためのプラットホーム platform cooperative」へ。
P2Pやビットコインなど非中央、分散型のデジタル技術の可能性が語られる。
巨大企業が市場や人びとから価値を一方的に「抜き取るextract」経済ではなく、人びとの間で貨幣が回る経済に。そのキーワードは、これまでのグローバルglobalでなく、領域(boundary)や規模(scale)だとラシュコフは語る。
冒頭のエピソードを紹介した若林恵は前掲書で、現在、曲がり角にあるUberやWeWorkに触れ、「シェアライドサービスは、ローカルのプレイヤーによるローカル最適なものが最も円滑であろうし、コワーキングスペースも、それが1社によるグローバルプラットフォームである必然性は必ずしもない」として、ラシュコフの「デジタル分散主義」のポイントは、「スケールを戦略的に策定すること」だと指摘している。
領域(boundary)や規模(scale)とは、イリイチのいう、「根元的独占」に至らないために道具の規模を制限するということにほかならない。
Amazonとまちの書店や映画館が共存する世界、チェーンオペレーションの店舗と店主の顔が見える個人店が両立する世界、規模の競争の経済ではなく、ひとのための最適模規の経済を。
ヒッピー的ユートピアを夢見た第一幕。産業主義的生産様式をアンプリファイアした第二幕。そして第三幕は?デジタル・テクノロジーという道具をめぐる攻防は続く。
*初出:zeitgeist site
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住まいの主要な形態としてすっかり日本に定着したマンション。世帯数に占める分譲マンションの割合(マンション化率)は、東京で27.6%と約3割を占めている(東京カンテイ プレスリリース2010年1月30日)。
シリーズ「映画のなかのマンション」では、世界の映画でさまざまに描かれてきたマンションを追ってみる。
第一回目は、『憎いあンちくしょう』(蔵原惟義監督 山田信夫脚本 日活 1962年)を取り上げる。本作は日活アクションの「記念碑的作品」(渡辺武信)として知られた作品だ。
『憎いあンちくしょう』はこんな物語だ。
石原裕次郎演じるタレント北大作は若きマスコミの寵児。その敏腕マネージャー兼恋人の榊典子(浅丘ルリ子)。二人は自身たちの愛を新鮮なままに継続するため、キスをしない、肉体関係を持たないなどのルール決め、仕事のパートナーと恋人という立場を際どく使い分けながら、ふとした時に忍び寄る倦怠や虚しさを忘れるかのように、TV出演などで超多忙を極めながらマスコミ業界を泳いでいる。その奇妙なルールによる二人の関係は既に730日になっていた。
熊本の無医村にジープを無報酬で届けてくれるヒューマニズムを理解するドライバーを求む、という風変わりな新聞広告をきかっけに、裕次郎は東京の下町で中古ジープの購入のために働き、熊本の医師(小池朝雄)と2年間の遠距離恋愛を続けている女性(芦川いずみ)と出会う。なにものかに突き動かされるように、裕次郎はそのジープを自らが運転して熊本まで運ぶことをTVの本番で公言する。すべてのスケジュールを放り投げて、オンボロジープを運転して熊本に向かう裕次郎。芦川たちの「純粋愛」に悪態をつき、ジャガーXK120を駆って裕次郎の後を追いながら、あの手この手の説得と妨害工作を企てるルリ子。マスコミ業界の怒り、売名行為と非難する人、その心意気を賞賛する人、有名タレントの突然のご乱心をヒューマニズムというテーマでちゃっかり番組に仕立て上げるやり手のプロデューサー(長門裕之)。ストーリーは、東京から熊本にいたるロードムービーを縦糸に、裕次郎とルリ子の愛をめぐる駆け引きという抽象的なテーマを横糸に展開してゆく。
映画は、ゴダールの『勝手にしやがれ』ばりの手持ちカメラを駆使し、対象に迫る、荒々しいカメラワークで、衝動的で感覚的な主人公たちの姿をとらえる。
主人公の裕次郎の住まいとして登場するのが「グリーンマンション」。総武線がそばを走っていることから、立地するのは代々木や千駄ヶ谷あたりであることが判る。
裕次郎の部屋710号室はこんな間取りだ。玄関ドアを開けるとすぐそこはリビングルームで、右手にガラスのパーティションを挟んでキッチンがある。正面は横長の大きな窓になっており、その先はベランダだ。リビングの右手にはベッドルーム、左手には水廻りが配されている。
いわゆる1LDKの間取りだが、今どきのマンションの田の字プランとは異なり、玄関三和土や廊下などがなく靴履きのまま玄関ドアを開けると広々とした空間と大きな窓が現れる。バーカウンターのようなハッチが設けられたオープンキッチン、収納で間仕切りながら設えられたインテリア、電動ブラインド、デスクとクローゼットが備わったベッドルームなど、シンプルでオープンで、日常性や生活感などとはおよそ無縁な空間にたちまち魅了された。これがマンションというものかと目を奪われた。
当時は、いわゆる第一次マンションブーム(1963~1964年・昭和38~39年)といわれたあたりでも、マンションといえば、都心に建つ、会社役員、経営者、芸能人、文化人など限られたクラスが住む高級レジデンスのことを指す言葉だった。
マスコミの寵児である北大作の住む「グリーンマンション」には、そうした日本のマンション黎明期の姿が投影されている。
ちなみに、いわゆるファミリー向けのマンションが普及していくのは、区分所有法が施行され(1963年・昭和38年)、民間金融機関の住宅ローンがマンションにも適用され、住宅金融公庫のマンション融資(1970年・昭和45年)が始まるなどする1970年前後からだ。
ジープとジャガーはひたすら一般道を走る。それもそのはず、1962年には東名高速も名神高速もまだ完成していない。東京オリンピックはその2年後のことだ。
日本は政治と産業の時代の真っただ中。1970年というピークに登り詰めてゆく最中の時期だ。国家と個人のアイデンティティ回復と経済成長のドライブがぴったりと一致していた幸福な時代だ。
本作が「記念碑的傑作」といわれるのは、そうした「大きな物語」(ジャン=フランソワ・リオタール)がまだ機能していた1962年という時期に、その後に訪れる消費社会というテーマを見据えているからでもある。
主人公二人の奇妙なルールとは、愛の形骸化、愛の倦怠、愛の日常化という現実的な愛の脆さを知っているがゆえに、そうした現実を否定し、虚構化(形式化)した愛を演じることだといえる。
それはアレクサンドル・コジェーブが『ヘーゲル読解入門』の注書きで語った「スノビズム(★1)」という態度に通底する。コジェーブの言う「スノビズム」とは、現実を「否定する実質的理由がないにもかかわらず、『形式的価値に基づいて』それを否定する行動様式」だ(東浩紀 『動物化するポストモダン』)。
「大きな物語」を無効にしたものは消費社会の豊かさだ。歴史も、政治も、重厚長大も、追いつけ追い越せも、消費社会の豊かさのなかで溶解した。こうした豊かさの弛緩のなかで「大きな物語」の代わりに必要とされたのが虚構であり形式だ。
裕次郎はひとり深夜のベッドでこうつぶやく。「つまんねぇなぁ・・・。しょうがねぇやな」。
「スノビズム」とは、消費社会の倦怠、焦燥、虚しさを忘れて生きるために要請される行動様式だ。
虚業としてのTVタレントの男と一人暮らしのキャリア女性という本作での設定は、1960年代において、その先の消費社会を先取りするために、意識的に選択された仮構であり、その象徴的道具がジャガーXK120であり、「グリーンマンション」である。
裕次郎のジープを追いながら、さまざまな妨害工作を仕掛け、マスコミ業界の華やかな日々と同志的愛というかつての「幸福」に戻ろうとし、以前の二人の虚構の物語へ帰ろうと説得を試みるルリ子が、裕次郎のそうした虚構への嫌悪と否定、そしてそこからの脱出という賭けに徐々に同期し、ある種の覚醒に至るまでが、ジープとジャガーの疾走とともに描かれる。それを演じ切る浅丘ルリ子の演技は裕次郎を完全に凌駕している。
ジャガーXK120が、九州到着の直前の山道で、後輪が脱輪し崖下で大破するには、その覚醒を象徴している。
ジープを運び終えた主人公二人が、「純粋愛」にふさわしい絵柄を求めるマスコミのカメラの前で、戸惑いを隠せないでいる小池朝雄と芦川いずみの手を結び合わせた後、緑の丘に向かい、輝く夏の太陽のもと抱擁するシーンで映画は幕を閉じる。
虚構とそこからの脱出という悪戦苦闘の果てに、自らの愛を確信する主人公二人を象徴するシーンであり、ひいては日活アクションのテーマである虚構性による真実の照射を象徴するシーンだ。
でも僕たちは知っている。その先に彼らを待っているのは、「スノビズム」ですらその有効性を失った日常であり、消費を強いられながら、絡まりつく倦怠と虚しさを生きる世界であることを。
大作と典子はまた新たなルールを考え出し、新たな虚構を演じるだろう。しかしながら、それが繰り返されるなか、能動的だった「スノビズム」はいつの間にか受動的な「シニシズム」へと変わり、虚構による緊張は、日常化した消費の安寧のなかに融解してゆく。
主人公たちは、もはや「グリーンマンション」には住むことはないだろう。二人が生きるのはありふれた幸福であり、二人が住むのは、きっと田の字プランのありふれたマンションである。
(★1)スノビズムとは通常「俗物根性」と訳されることが多く、コジェーブのいうスノビズムと「俗物根性」とは一見まったく無関係のようにみえるが、スノビズムのもともとの語源は、ケンブリッジ大学の大学人に対して市井の人を区別する意味で靴屋(snob)が隠語的に使われていたことに端を発しており、その後、上流階級的価値観にあこがれ、それを気取る中・下流階級の人の態度を指すようになった言葉であり、日本語訳としては「紳士気取り」というような方がそのニュアンスを伝えている感じだ。「紳士気取り」とは、いってみれば、本来は上流階級の出自ではないにも関わらず、服装や趣味や立ち振る舞いなどにおいて形式的に上流階級を気取ることによって、自らの中・下流階級の生活や価値観を否定する態度であるといえ、そう解釈すると、コジェーブのいうスノビズムにぴったり合致してくる。
(参考文献)
渡辺武信 『日活アクションの華麗な世界・上』 未来社 1981年
アレクサンドル・コジェーブ 『ヘーゲル読解入門』 国文社1987年
東浩紀 『動物化するポストモダン』 講談社現代新書 2001年
(★)top画像 : Photo by HSV_ Jaguar XK120V / CC BY-SA 3.0
*初出:東京カンテイ「マンションライブラリー」
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わたしたちは都市や街のイメージと生きている
都市や街を物理的な空間としてだけとらえるのは大きな間違いだ。わたしたちは都市や街をイメージとしてとらえ、そのイメージとともに生きている。
したがって都市や街は、目の前の物理的な空間やモノであると同時に、過去の記憶のなかの都市や街であり、さらには、言葉によって獲得された都市や街である。
今はかつてと重なり、ここはどこかとオーバーラップする。慣れ親しんだ今やここは、まったく異なる時空へとつながっているのだ。
飯倉 ―― いいぐら、あるいはいいくら ――はどこからも遠く、人通りもまばらな街はずれの場所。静寂さと陰影をたたえた深い谷や切り立った崖や急な坂にまわりを囲まれ、そしてその先にはかつて海が広がっていた。
飯倉。岬というイメージの街。
そこは70年代から80年代初めにかけて、ファッションの最先端という岬でもあった。
くろすとしゆきの「クロス・アンド・サイモン」
「クロス・アンド・サイモン」は、日本におけるアイビーの伝道師くろすとしゆきが、VANを退社して作ったオーダー中心のメンズ・ショップだ。
飯倉片町の交差点をひっきりなしに行き交う車の騒音。それとは正反対に息苦しいような地下道の静けさと人工照明。その地下道を出たすぐのところに「クロス・アンド・サイモン」はあった。
■「クロス・アンド・サイモン」の跡地
道路から少し高くなったガラス張りのファサードは、全面ショーウインドウを思わせた。階段を少し上ってドアを開けると、こじんまりした空間には親密は雰囲気が漂っていた。大学に入ったばかりの身分ではスーツのオーダーなどはできるはずもなく、並べられた数少ない既製品のなかから、ボタンダウンのシャツなどを買った。
「クロス・アンド・サイモン」は、アメリカントラッドをベースにしながらVANなどの量産品にはない、こだわった素材、ていねいなディテール、縫製の良さが魅力だった。例えば、生地を手で折って作られた故のものだと説明された、きれいな鋭角をなしたシャツの襟先などに見惚れた。
「ザ・ハウス・オブ・アルファ・キュービック」
70年代の飯倉をファッションゾーンとしていた中心はといえば、間違いなく「ザ・ハウス・オブ・アルファキュービック」だ。レノマで一世を風靡したアルファ・キュービックが1974年にロシア大使館の前にオープンさせたブティックだ。
■「ザ・ハウス・オブ・アルファ・キュービック」があった建物
アルファ・キュービックの創業者・柴田良三は、1970年にサンローラン・リヴ・ゴーシュを日本で開店させるなど、日本におけるヨーロッパファッション黎明期の立役者だ。アルマーニのコレクションを最初に紹介したのも「ザ・ハウス・オブ・アルファ・キュービック」だった。
マジストレッティがデザインした全面黒のガラス張りの偕成ビルの地下1階と1階を占めていた。外苑東通りに面した1階にはガラス張りの温室が張り出しカフェが設けられていた。その奥に広がるフロアは、上品なベージュの絨毯が敷かれ、照明が落とされ、外苑東通りの喧騒が嘘のように静かだった。混んでいることなど決してなかったカフェで過ごすひと時は、優雅で贅沢な感じがした。
くろすとしゆきも柴田良三もVAN(ヴァンジャケット)の出身だ。VANの創業者・石津謙介は、柴田がサンローランを手がける際も支援している。石津謙介はアイビーを日本に紹介しただけではなく、日本のファンション・ネットワークの起点にあたるような存在だった。
彼らが、その店の立地として飯倉を選んだ理由は想像に難くない。不便な、街はずれの、人通りが少ない、急ながけや坂道で周りから隔絶されたような、そんな孤高の岬のような場所が、むしろ知る人ぞ知るというショップのイメージやコンセプトにふさわしかったのだ。
そういばビエラの生地屋から出発し、ジョルジオ・アルマーニの才能を見出したニノ・セルッティのコレクション「CERRUTI 1881」の日本でのショップも、ここ飯倉からスタートしたはずだ。
「キャンティ飯倉片町本店」
そんな孤高の飯倉を選び、ほかのどの場所とも似ていない独自のイメージを創ったのは、間違いなく1960年に開店した「キャンティ飯倉片町本店」だ。
■「キャンティ飯倉片町本店」(「アル・キャフェ・キャンティ」の入り口)
「キャンティ」は60年代から70年代にかけて、日本唯一のサロン空間として存在したレストランだった。オーナー川添浩史・梶子夫妻を慕って、この小さなイタリアン・レストランに内外の作家、音楽家、芸術家、芸能界などの綺羅星のような人々が集った。
イヴ・サンローラン、フランク・シナトラ、マーロン・ブランドが訪れ、三島由紀夫、黛敏郎、勅使河原宏が常連で、福澤幸雄、村井邦彦、ミッキー・カーティス、かまやつひろし、田辺昭知、加賀まりこ、安井かずみらが夜な夜な集まった。石津謙介も常連だった。
かねてから知己だったサンローランを柴田良三に紹介して、アルファ・キュービックの立ち上げに手を貸したのもタンタンこと川添梶子だった。
そんな「キャンティ」伝説のことなどつゆしらず、中学生の頃、僕は「キャンティ」名物のスパゲッティ・バジリコを食べていた。1973年のことだ。
僕が生まれた山形市にあった「丸久(まるきゅう)」という地元のデパートは、1971年に松坂屋と提携し、1973年には名前も「丸久松坂屋」となり、新たな店舗に移った。そこに「カフェ・ド・パリ」という名のカフェレストランがあった。そこを運営していたのが「キャンティ」であり、そこは実質「キャンティ」の支店のような存在だった。
「キャンティ」を気に入っていた当時の松坂屋の社長が、川添浩史の死後(1970年)、店を継いだ次男の光男を応援し「キャンティ」は全国の松坂屋に支店展開したのだった。安い家賃での全国展開はその後の「キャンティ」の安定した収益源になったそうだ。
仔牛のカツレツミラノ風だったか、オーソブッコだったかのブラウンのソースとそこに添えられた緑の葉っぱのスパゲッティ。白い皿の上に広がった鮮やかなオレンジと薄いグリーンのオイルの対比が美しかった。今まで食べたものとは全く似ていない味、油までが美味しい、その料理に驚き、それがイタリア料理というものであることを初めて知った。
そのとき食べたのが、飯倉の「キャンティ」のスパゲッティ・バジリコ(とたぶん同じ)だったことは、ずっと後になって知った。
■スパゲッティ・バジリコ・キャンティ風
岬のような場所だった飯倉周辺にも、開発の波が押し寄せる。きっかけは、2000年に地下鉄南北線が開通し、「六本木一丁目」という駅ができ、利便性が上り、不動産マーケットでの価値が上がったことだ。周辺では泉ガーデンを皮切りに大規模開発が始まる。
現在、飯倉片町と呼ばれていた場所の外苑東通りを挟んだ北側では「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」が施工中だ。麻布台一丁目は六本木一丁目や虎ノ門五丁目と一続きとなり、3本のタワーが建ち、「六本木一丁目」駅は日比谷線「神谷町」駅と地下で結ばれるのだそうだ。
かつての穏やかで静かな日常が息づいていた我善坊の谷は埋められ、外苑東通り沿いの郵政省飯倉分館があった場所には地上64階建ての大規模なタワーが聳え立ち、岬のような飯倉も変わるだろう。
現実の都市が変わっても、現実の街が失われても、イメージの都市とイメージの街は健在だ。記憶は飛翔し、相互につながり、視覚や聴覚はもちろん、味覚や嗅覚においてもますます鮮やかに蘇り、リアルな感触のイメージの都市、イメージの街が現れる。
(★)Top画像は飯倉片町の坂下(麻布台三丁目)にある、上品なスパニッシュ・スタイルがなんともいい佇まいの「和朗フラット」。1936年(昭和11年)竣工。築80年を超えて集合住宅が現役で在り続けているのは日本においては真に奇跡的なこと。戦前のモダニズムの理想を今に伝える至宝だ。
(★)最後の画像は、「キャンティ」のレシピで作ったスパゲッティ・バジリコ。生のバジルが入手できなかった時代に乾燥バジル、大葉、パセリを使って開発されたレシピ。オイルもオリーブオイルではなくサラダオイルとバターを使う。
(★)参考文献
柴田良三 『ALPHA CUBIC 佳き日、良き人、そして、あなたに』 マガジンハウス 2011年
野地秩嘉 『キャンティ物語』 幻冬舎文庫 1997年
*初出:東京カンテイ「マンションライブラリー」
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松山の伊丹十三記念館に行ってきました(★1)。
伊丹十三が亡くなって22年になります。映画監督で知られた伊丹十三は、商業デザイナー、イラストレーター、俳優、エッセイスト、テレビマン、CM作家など、多彩な顔を持つ一種の天才肌の人物でした。
上に挙げた肩書以外にも、音楽愛好家、料理通、乗り物マニア、猫好き、精神分析啓蒙家など、その興味は広範囲に広がっていました。
映画『北京の55日』や『ロード・ジム』などに出演した国際俳優としての伊丹十三、テレビ番組『遠くへ行きたい』のレポーターとしての伊丹十三、味の素マヨネーズのテレビコマーシャルに出ていた伊丹十三などは、当時から知っていましたが、伊丹十三に瞠目させられ、本格的に傾倒していったきっかけは、そのエッセイでした。
1990年頃、真剣に料理をはじめた時期に出会ったのが、『ヨーロッパ退屈日記』(1965年)と『女たちよ!』(1968年)という伊丹十三が最初に書いた2冊のエッセイです。
『ヨーロッパ退屈日記』は1963年に寿屋(現サントリー)が出していたPR誌『洋酒天国』に連載されていた原稿が元になっています。『洋酒天国』の発行人は開高健、編集者は山口瞳であり、この二人の著作に親しんでいたことが、伊丹十三の著作に手を伸ばした直接的なきっかけでした。
伊丹十三は、正統、本物、正しさを愛し、まがい物、安直、安易、でたらめ、みみっちい、小賢しい、小奇麗な、妙な工夫、セコさを徹底的に嫌悪しました。
エッセイスト伊丹十三を見出し、世に送り出した山口瞳は、正統を語るその姿勢を指して「本書を読んで、ある種の厭らしさを感じる人がいるかもしれない。それは『厳格主義の負うべき避けがたい受難』であろう」と語り、反語的エールを送りました。
当時は珍しかったアーティショーの食べ方を紹介し、スパゲッティの正しい調理法として「アル・デンテ」という概念を語り、一方で黒豆の正しい煮方を指南する。英国のキューカンバー・サンドウイッチと本邦のカツパンの同質性を語り、ピーター・オトゥールの議論好きの性格にアイルランドの歴史と気質を洞察し、Jagaerは「ジャガー」ではなくて「ジャギュア」であること、Michelin はミケリンではなくてミシュランであること、温かい料理を盛りつける皿は必ず温めておくこと、英国で便所を訊ねる時はトイレットではなくてラヴァトリーと言うべきであることなどなど、バブル経済の洗礼を受けた後の90年代ですら、伊丹十三蒙の語る正統は、孤高の位置から日本人の蒙を開く存在であり続けていました。ましてや最初に書かれた60年代においておや。
伊丹十三に魅せられた理由は、まずその語り口にあります。
「わたくし」を主語にした「である」体に、「ですます」体がミックスされ、「で、ありますが」とか「ところが、である」とか「しかもですよ」などの思わせぶりな接続詞がしばしば現れ、そして「じゃないの」「だよ」「かね」「ねえ」といった気の置けない調子の語尾で読者に問いかける。
構えが大きく本質を突いた話題を硬軟自在の文体で語る知的な遊び心、そこから醸し出される時に滑稽で、時に苦く、時に考え込まされ、やがて哀しき読後感。伊丹十三が切り開いたエッセイの地平です。
その独特の語り口の根底にあるのが、その優れた知性とセンシティブな感性が持つ含羞と諦観です。
それは<近代への遅れ>という日本と日本人の宿命を前にしながら、正統、本物、正しさを語る際の含羞と諦観であると言えます。
「内発的」開化の西欧に対する「外発的」開化の日本という、夏目漱石が指摘した、明治期以来の近代日本が宿命的に抱え込まざるを得なかった歴史認識と通底しています。大げさに言えば。
含羞とは、<遅れ>をことさらに言い立てている自分への羞恥であり、諦観はその<遅れ>が宿命的なものであることへの認識です。
したがって、伊丹十三の語るエッセイはすべからく、日本論、日本人論に行く着くことになります。
「私の本当の結論をいえば、服装のことなんぞどうでもいいのである。いやあ、ほんとに服装なんかどうでもいいじゃありまか。ねえ。(中略)だからね、あんまり変てこりんな具合に工夫したり細工したりするのはやめようじゃないの。普通でいこう。普通で」(「日本人に洋服は似合わない」より、『女たちよ!』所収)
衣・食や暮らしの正統とそのディテールを語って止まなかった伊丹十三が、同時に感じていた含羞と諦観がよく表れています。
1990年頃に伊丹十三に惹かれていった本当の理由は、バブルの狂騒とその崩壊という一連の流れのなかで、かつてなく豊かになった日本と、同時に<本物>よりも<本物らしさ>が幅を利かせる相変わらずの日本という、2つの矛盾する目の前の現実へのいら立ちやため息にあったのかもしれません。
昔も今も、伊丹十三の文章を読むたびに「日暮れて道遠し」、そうつぶやく伊丹十三の姿が目に浮かんできます(「日暮れて道遠し」より、『ヨーロッパ退屈日記』所収)。
さて、伊丹十三記念館です。
伊丹十三記念館がある松山市は、愛媛県の県庁所在地で、人口50万人を超える四国最大の都市です。適度な都市規模とコンパクトさが両立しているところが松山の魅力です。道後温泉があり、正岡子規が生まれ、夏目漱石が教鞭をとり、『坊ちゃん』の舞台になりました。
伊丹十三は、父で映画監督の伊丹万作の死後、17歳から21歳までの高校時代を松山で過ごしました。
伊丹十三記念館は、伊予鉄松山市駅からバスで20分ほどの場所、小野川に架かる天山橋(あまやまばし)のそばに建っています。伊丹十三と縁が深かった、松山の銘菓「一六タルト」で有名な株式会社一六本舗の敷地だった一画です。
黒い焼杉に覆われた外壁と軒の深いフラットな屋根が印象的です。外界から大切なものを守るために地上に舞い降りた、そんな印象の建築です。
地面から少し下がった位置にあるごく控えめなエントランスなど、ここでも外に閉じて、内に誘うデザインとなっています。
常設展示は、池内岳彦(本名です)の幼小の頃の絵や作文(これがすごいのだ)、愛用の楽器や料理道具、イラストの原画、自筆の原稿やシナリオなどが、十三にちなんだ13のコーナーに分かれて展示されています。
伊丹ファンにとっては、生原稿などを除くとオリジナルという以外はあまり目新しいものはなく、展示物はその確認のためという意味合いが大きいのですが、なかで興味を惹かれたのが、企画展示場でビデオ放映されていた、松山限定で放映された数編の「一六タルト」のテレビコマーシャルでした。
この作品では伊丹十三が昔の松山弁で語りかけたり、会話を交わしたり、口上を述べるのですが、その雰囲気と言い回しと表情が、伊丹十三のエッセイから受ける印象とそっくりでした。
ぼそっとしていて飾り気がなく、明快で直截な、それでいて温かい。伊丹十三の語り口のルーツは、実は松山弁にあるのではないか。ビデオを見ながら秘かな発見をしたようで一人ほくそ笑んでおりました。
暗い展示室を出ると、陽が差す中庭と屋根が架かった回廊空間に出ます。完全な外部でもなく、完全な内部でもない。守られた開放性、人を包みながらオープンな、そんな両義性や曖昧性が、展示を見た後の心象や想いや思索を受け止めてくれます。
設計を手がけた伊丹ファンを自認する中村好文は、修道院の空間をモチーフにしたとどこかで語っていました。
株別れした桂が木が一本だけ植えられた中庭とそれを取り囲む回廊は、簡素で潔く、小細工を嫌った伊丹十三にふさわしい、いい感じの場所になっています。
山口瞳はこうも書いています。
「私は、彼と一緒にいると『男性的で繊細で真面(まとも)な人間がこの世に生きられるか』という痛ましい実験を見る思いがする」と(『ヨーロッパ退屈日記』あとがき)。
今から思えば明察が過ぎて不吉とさえ思えてしまう山口瞳の言葉から32年後の1997年12月20日、伊丹十三は64歳で自死を選びます。
(★1)松山と伊丹十三記念館を訪れたのは、日本ではコロナのコの字もなかった2019年11月のことでありました。
(★)伊丹十三記念館
住所 : 790-0932 愛媛県松山市東石井1丁目6番10号
TEL :089-969-1313
開館時間 10:00~18:00(入館は17:30まで)
休館日 毎週火曜日(火曜日が祝日の場合は翌日)
入場料 大人=800円 高・大学生=500円 中学生以下=無料
http://itami-kinenkan.jp/index.html
*初出:zeitgeist site
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わたしたちはイメージの都市、イメージの街に生きている
人は物理的な空間やモノをイメージとして理解する。
イメージは決して空間そのもの、モノそのものではない。それは眼がとらえた映像、視覚器官がキャッチした情報そのままでもない。
視覚器官がキャッチしたさまざまな情報は、イメージとして脳内に定着する。目の前のトマトからのさまざまな情報、例えば、丸い、赤い、少しいびつな、などは、脳内でトマトというひとつのイメージとなり、それがトマトであると理解される。あるいは、さまざまな情報が、脳内にあるトマトというイメージに照らし合わされて、目の前のそれがトマトであると認識される。理解するとは、イメージ化のことであると言える。
イメージ化の作用は、視覚だけに限らず、触覚、聴覚、味覚、嗅覚など五感すべてにおいて起こる。さらに、個人の五感がキャッチした情報以外に、書物などの言葉によっても人のイメージは作られる。
イメージは時間と空間を超える。イメージの地平では、現在は過去と等価だ。イメージは個人を超える。イメージの地平は、他者や世界とつながっている。
人は言葉を得て時間と空間を超える能力を獲得した。霊長類学者の山極寿一が言っている。言葉によって人間が得たもの。それをイメージ力と呼んでもいいかもしれない。
都市や街を物理的な空間としてだけとらえるのは大きな間違いだ。わたしたちは都市や街をイメージとしてとらえ、そのイメージとともに生きている。
したがって都市や街は、目の前の物理的な空間やモノであると同時に、過去の記憶のなかの都市や街であり、さらには、言葉によって獲得された都市や街でもある。
今はかつてと重なり、ここはどこかとオーバーラップする。慣れ親しんだ今やここは、まったく異なる時空へとつながっている。
我善坊の谷、鼠坂、狸穴坂。喧騒の陰の静謐
飯倉 ―― 「いいくら」あるいは「いいぐら」 ―― という地名は、今は外苑東通りと交差する2つの交差点、「飯倉片町」と「飯倉」に名を遺すだけだ。
かつて飯倉片町や飯倉と呼ばれた場所は、今は麻布台、東麻布など、すっかり由来を喪失した住所となっている。かろうじて残った狸穴と永坂という住所が、住居表示への抵抗運動の成果として、かつての歴史を今に教えている。
飯倉は陸の孤島のような場所だ。六本木からは遠く、神谷町からのだらだら坂を登る人はいなかった。北は我善坊の谷に向かって崖が切り立ち 南は古川に向かって植木坂、鼠坂、狸穴坂など、いずれも急な勾配の坂が走る。
外苑東通りの北側の切り立った崖下は、我善坊と呼ばれてきた谷(麻布台一丁目)。つい最近まで、周囲の高台エリアの華やかなイメージとは無縁に、ひっそりと人々の日常が息づいていた。アパートがあり、小体なマンションがあり、雑草が生える路地があり、クリーニング屋などがあった。このつましい風情の住宅地は、江戸の警備などの役職を担った御先手組と呼ばれる下級武士が暮らす屋敷まちに由来する。高台の大名屋敷と低地の武士の屋敷。江戸の山の手エリアの都市構造の典型を今に伝える場所だった。
■かつての我善坊の住宅地
外苑東通りを挟んで我善坊の谷とは反対側の南斜面には、細く急な坂路地が走っている。植木坂と鼠坂は一続きの坂なのだが、場所によって名前が変わるというのが面白い。外苑東通りから下るところでは植木坂と呼ばれ、狸穴の谷底を望む地点あたりから南に下るところでは鼠坂(別名、鼬(イタチ)坂)と呼ばれている。名前のごとく、鼠や鼬一匹が通れるぐらいの細い坂だ。通る人はめったになく、うらぶれて、静かて、こころ安らぐ場所だ。
■鼠坂
猯とも魔魅と記されるマミと呼ばれたアナグマが住んでいた穴があったことに由来する狸穴の坂(麻布狸穴町)。穴熊といい、狸といい、鼠といい、鼬といい、ここ飯倉には獣たちが生息していた時空の記憶が留め置かれている。今ではすっかり立派なマンションに囲まれてしまっているとはいえ、急な坂と谷の深さはいまだ健在だ。坂の終点近くには、いい感じに古びた木造家屋が残されている。そうした時の贈り物を前に佇むひと時は飯倉散歩の格好の句読点だ。
■狸穴坂
現在、狸や鼬に代わり出没するのは猫たち。車など通れない細い路地、縦横に走る坂や階段、深い谷など、人を遠ざける複雑に絡み合った地形ゆえか、ここは陰影と孤高を愛する猫たちが安心してたむろできる場所でもある。
■植木坂と狸穴の谷を見下ろす階段
飯倉。そこは岬のような場所
六本木を抜け、東京タワーを正面に見ながら、飯倉の尾根を東に走るのが外苑東通りだ。飯倉片町の交差点を過ぎたあたりから、通りの南側には1階にさまざまな店舗が入った沿道型のマンションが立ち並ぶ。六本木から続く繁華な街並みは一変し、人通りが少ない街のはずれといった趣が色濃い風景へと変わる。通りの北側は外務省飯倉公館、郵政省飯倉分館などの大規模な国家施設で占められ、街はずれと言っても、ここが港区であることを物語っている。
右手にロシア大使館の長い長い石積塀が見えてきて、その先にNOAビルの真っ黒な威容が現れ、外苑東通りは左にカーブしながら、旧麻布区と旧芝区の境に位置する飯倉交差点に向かって緩やかに傾斜しながら下ってゆく。
視界が広がり、桜田通りが現れ、急に見晴らしが良くなる。左右に走る桜田通りは、飯倉交差点を頂点として、それぞれ左(北)は神谷町の谷、右(南)は古川を渡る赤羽橋方面へとさらに下ってゆく。
飯倉交差点以東の土地は、ほとんどが縄文海進期には海だったところだ。その先には今の愛宕山とのちに増上寺境内となった広大な土地が島状の台地として姿を見せていたはずだ。
海に突き出た岬のような飯倉の地形を、今なおよく表している場所がある。
ロシア大使館脇の道路を南に入り、東麻布二丁目へと急激に落ち込む切り立った崖の突端にある日本経緯度原点である。当時ここにあった帝国大学付属東京天文台に1892年(明治25年)に定められたものだ。天体観測に適する場所として飯倉が選ばれたのは、周りに街灯りが少ない孤立した高台であり、視界が開けていたことがその理由だ。孤高の岬を思わせる飯倉の地形をよく物語っている。
■日本経緯度原点(麻布台二丁目)
岬のような飯倉の地形を今に伝えるもうひとつの場所が、麻布台一丁目7番と9番の間にある雁木坂だ。東京にある2つの雁木坂のうちのひとつである。雁木とは石を組んだ段々のことで、斜面ではなくて階段になっているのは、高低差が激しく、土地の傾斜が極めて急であることの証だ。今はコンクリートの階段になっているが、両側に桜が咲き誇る雁木坂は、春の風情がひと際である。
■雁木坂(麻布台一丁目)
どこからも遠く、人通りもまばらな街はずれの場所。静寂さと陰影をたたえた深い谷や切り立った崖や急な坂にまわりを囲まれ、そしてその先にはかつて海が広がっていた。
飯倉。岬というイメージの街。
そこは70年代から80年代初めにかけて、ファッションの最先端という岬でもあった。
(★)参考文献 箭内匡 『イメージの人類学』 (せりか書房、2018年)
*初出:東京カンテイ「マンションライブラリー」
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住宅とは家でも住まいでもなく20世紀が発明した産物だ。住宅とは近代に出現した産業労働者のための供給される住居、いわゆる専用住宅のことだ。
新型コロナウィルス感染症(COVID-19)の蔓延を機に、にわかに普及したリモートワーク。これがきっかけになり、住宅が働く場となり、これまで住宅から排除されていた経済が住宅に接続された。「脱住宅」の始まりだ(『「脱住宅」のすすめ<前編>』参照)。
住宅に経済がつながったのが「脱住宅」の第一局面だとしたら、「脱住宅」の第二局面は、<一家族=一住宅>という構図の崩壊だ。
崩れつつあるある<一家族=一住宅>
<一家族=一住宅>という「常識」は、実は既に崩れつつあるのが現実だ。
<一家族=一住宅>でいう「家族」とは産業労働を担う最少単位としての夫婦+子であり、「住宅」とはその「家族」の再生産のための住居、具体的にはn=家族数-1で計算されたnLDKと呼ばれる「家族」だけが住む住居のことだ。
ところが、この夫婦+子から構成される近代家族は、思ったほど長続きはしなかった。
夫婦+子からなる世帯は昭和時代までは全世帯の4割超を占めていたが、2018年(平成30年)時点では29.1%と3割を切っている(平成30年国民生活基礎調査 厚生労働省)。
2018年時点でみると、単独世帯(一人世帯)が27.7%、夫婦のみ世帯が24.1%と、一人または夫婦のみ世帯が同程度の割合となり、合計では半数を超える。夫婦+子からなる「家族」はもはや主流とはいえない。
一人または夫婦のみ世帯の増加は、結婚しない人、子供を持たない世帯が増加した結果でもあるが、長寿高齢化による影響も大きい。
戦後すぐは50歳程度だった日本人の平均寿命は、その後、着実に伸び、2018年時点で男81.25歳、女87.32歳と男女とも80歳を超えている(厚生労働省2019年7月30日)。
長寿高齢化は、夫婦+子の「家族」にとって子供が独立してからの時間が伸びたことを意味する。
夫婦+子がひと所に住む時間は、20年から長くても30年程度だ。成人して家を出た子がその後、自宅に戻る確率は高くなく、将来、同居する確立はもっと低いだろう。かつてのように長男が家を継ぐ風習はとうの昔に消滅しているし、住宅自体が、かつてのように大家族で住むようには作られてはいないし、2世帯ですら住めるような広さはもうない。
子供が独立してから、二人あるいは一人世帯で住まう時間が、人生80年の時代は30年間続くことになる。近代前半の人生50年の時代にはありえなかった事態が出現している。
さらにこれからの「人生100年時代」ともいわれる時代が到来すれば、二人あるいは一人で生きる時間は50年にも及ぶことになり人生の半分を占め、「家族」の時間の30年間よりはるかに長い。
共時的な意味で、現代日本の約半数は二人ないし一人世帯であり、通時的な意味では、二人ないし一人の時間は、将来、人生の約半分を占めるようになる、これが近代 100年が行き着いた世界だ。
二人で暮らすにはnLDKの「住宅」に縛られる必要はない。夫婦それぞれが個室を持った住まいやあるいは夫婦それぞれが別の住まい<一人=一住宅>という選択肢もありうるかもしれない。
ましてや一人で暮らす場合は、文字通り<一人=一住宅>であり、シェアハウスに住む場合は<二人=一住宅>や<複数人=一住宅>であり、あるいは老後の「おひとりさま」が持ち家を離れてケアハウスなどに暮らす場合は、<一人=二住宅>だ。
夫婦+子からなる「家族」が当たり前でなくなり、その結果nLDKという形式の「住宅」も主流ではなくなり、自ずと<一家族=一住宅>という構図も崩れた。
バックミンスター・フラーの慧眼。モノからシステムへ
アレクサンダー・グラハム・ベルが売っていたのは電話機ではなくて通信サービスだ。バックミンスター・フラーは通信産業の本質をこう見抜いた。
バックミンスター・フラー(Richard Buckminster Fuller, 1895年-1983年)は、「20世紀のレオナルド・ダビンチ」とも称されるアメリカの思想家、建築家、発明家、デザイナーなど様々な肩書きをもつ異能多才な人物。フラー・ドームとして有名な正二十面体を曲面に近似して作った「ジオデシック・ドーム」などを発明。『宇宙船地球号操縦マニュアル』など著作多数。
■Buckminster Fuller, photo by Beth Scupham / CC BY 2.0
地球を「宇宙船地球号」と呼び、その有限性を前提にこれからの社会はどうあるべきかというフラーの思想はその後の社会に大きな影響を与えた。
カウンター・カルチャーのバイブル的存在だった雑誌『ホール・アースカタログ』は、スチュアート・ブランドが、バックミンスター・フラーの講演を聴いたことがきっかけになって作られた。
アップルの創業者のスティーブ・ジョブズは、『ホール・アースカタログ』を紙のグーグルと呼び、その先駆性を称えた。“Stay hungry, Stay foolish” (ハングリーであれ、フーリッシュであれ)。ジョブズがスタンフォードでの講演で卒業生に送ったこの言葉も『ホール・アースカタログ』に書かれていた言葉だった(『ホール・アース・エピローグ』1974の裏表紙掲載)。
PCやインターネットやスマホやグーグルなど、今のデジタル社会のルーツを辿るとその行く着く先のひとつがバックミンスター・フラーであることは間違いない。
バックミンスター・フラーは、住宅産業も住宅(ハウス)という建築物(モノ)を売るのではなく、居住というサービスを売るようになるべきだと考えていた。
「船が一部の海と一緒に販売されることがないのと同様に、住宅が土地付きで販売されることはなくなるだろう」とフラーは言った。
フラーが想い描いていた地球規模の《ダイマクション居住システム》は、地球上のどこにいても、個人が安価に居住環境を手に入れることができる、グラハム・ベルの通信サービスのような住むための仕組みの提供を目指していた。
住むということが、住宅という空間を専有することではなくて、居住というシステムに身を置くことを意味する世界。住宅の概念はもちろん、所有の概念が変わり、土地や建築や都市の概念が変わる世界。
「住宅」が解きほぐされる「脱住宅」の世界
<一家族=一住宅>という構図が崩れた「脱住宅」とはいったいどんな住宅なのだろうか。
これまで人生は、学ぶ → 働く → 引退という直線的に流れる時間とステージで語られてきた。
「人生100年時代」とは、単に人生が長くなるだけではなく、年齢を問わず学び直し、新しいことを探求し続け、自らを変身させていくことが求められる時代だと言われている。
さまざまな学びや仕事や生きがいやアイデンティティを年齢に関係なく、自在に行き来しながら、あるいはマルチにこなしながら生きる、そんな時代にふさわしいのは、自在な生き方を受けとめる自在な住宅だ。
<一家族=一住宅>、<一人=一住宅>、<二人=一住宅>、<複数人=一住宅>、<一人=二住宅>など、さまざまな選択肢があり、自らが選んだ現在のステージに最もフィットする住まい方を自由に容易にチョイスして暮らすことができる住宅。
家族の団欒の場であると同時に、学びの場所、働く場所、商いの場所、趣味の場所、生きがいの場所、集まりの場所、社会と接続される場所であるような、そんな自在でマルチな機能の住宅。
ホテルの部屋を変えるように、さまざまな住まいを住み替えながら暮らすことができる住宅。レンタカーのように日本中、世界中の住まいを住み継いて暮らすことが可能な住宅。
固い「住宅」に合わせた生き方から、自在な生き方に合った柔らかい住宅へ。変化する人生をひとつの流れとしてとらえ、その時々の流れを自在に受け止める住まいの仕組み。「脱住宅」はそんな居住のサービスやシステムとして立ち現れてくるのではないだろうか。
今日、AT&T(ベル電話会社の後継)やNTT(電電公社の後継)を電話機を売っている会社と言う人は皆無だろう。資産としての固定電話やステイタスとしての固定電話という神話も消えた。バックミンスター・フラーが喝破したようにかつての電話会社は通信サービスを売るシステム産業となった。
近い将来、グーグル検索と自動運転技術が目的地まであなたを運んでくれるだろう。そんな予測が言われ、モノからシステムへという大きなうねりのなか、今、車業界に激震が走っている。
揺るぎない「家族」に向けて強固な「住宅」というモノを売っていたこれまでの住宅産業。「脱住宅」の世界は、固い「住宅」が解きほぐされる世界かもしれない。
(★)参考文献:ジェイ・ボールドウィン『バックミンスター・フラーの世界』(梶川泰司訳、美術出版社、2001年)
(★)Top 画像 photp by すしぱく from PAKUSO,adapted
*初出:東京カンテイ「マンションライブラリー」
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世界中に蔓延している新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は、建築や都市にどんな影響をもたらすのだろうか。
イギリスの新聞「ガーディアン」The Gardianは4月13日付記事でコロナウイルスの後の建築と題した記事を掲載した(Oliver Wainwright, Smart lifts, lonely workers, no towers or tourists: architecture after coronavirus, 13 Apr 2020, @the guardian.com)。
「大胆予測!虚構未来。コロナの時代の建築と都市<上>」に続き、「ガーディアン」の記事を案内役に、コロナ時代の都市と建築を大胆予測した虚構未来を語る思考実験を試みよう(★1)。信じるも信じないもあなた次第。引用はすべて同記事から。
ウォーカブル&ローカルなサスティナブル・シティへ
現下の危機を、都市の構造はどうあるべきかという、これまでの根本の前提を冷静になって見直す良い機会ととらえる者もいる。
「今こそ、歩いて暮らせる都市(walkable city)を考えるのにふさわしい時期だ」。デルフト工科大学のデザイン政治学教授のウォウター・ヴァンスティファウト(Wouter Vanstiphout)は主張する。「都市には数多くの病院があり、人びとはひしめき合って暮らしているにもかかわらず、わたしたちは、病院に行くのに長い距離を移動しなければならない。小規模な単位の病院や学校をもっと都市組織全体に分散配置し、複数のローカルセンターの強化を図るべきだいうことを今回のパンデミックは示唆している」
ヴァンスティファウトのアムステルダムに住む友人が気がついた不都合な事実が紹介される。「観光がストップし、Air bnbが空室になってはじめて判った。僕たちに隣人もなく、ご近所もなく、街もないんだ。観光客を除いたらなにもなかったんだ」
都心のゴーストタウン化と住宅地での「おウチ3密」というポスト・コロナのアンバランスを解消するため、ガラガラの都心のオフィスは住宅としてコンバージョンされ、ひとが戻りお店が再開し、住宅地における空き家は格好のソーシャル・ディスタンシング・サテライト・オフィスとして借り手が殺到する。老朽化した住宅は自然換気性能が抜群だ。
その結果、都心も住宅地も、ウイークデーもウイークエンドも、24時間・365日にわたり、ひとの暮らしがあり、顔の見える商店があり、働く人が割拠する、それぞれに個性をもった職住近接のコンパクトなローカルシティ(地元都市)として共存してゆく。
地価は都心からの距離に反比例するという不動産価格理論は修正を迫られ、不動産マーケットは激変する。
失速するタワーオフィス、タワーマンション。住宅もディスタンシング化する
「大胆予測!虚構未来。コロナの時代の建築と都市<上>」で登場したフォスター&パートナーズ社のワークプレイス・チーム・リーダーを務め、現在、ザハ・ハディド・アークテクツとコラボしている建築家兼コンサルタントのアルジュン・カイクラー(Arjun Kaicker)はこう予測する。
「オフィスの廊下は広くなり、出入口は大きくなり、部門間のパーティションが多くなり、階段も増えるだろう。家具も変わる。オフィスのデスクは1.8mから1.6m、今は1.4mかそれ以下へと、これまで年々、小さくなってきているが、今後は逆に大きくなるだろう。一人当たりの最低面積やエレベーターの上限人数の制限なども始まるだろう。その結果、高層ビルは建設コストが上り、経済的なメリットが少なくなり、タワーオフィスやタワーマンションを開発する魅力は低下する。これらのことは連鎖的に都市のスカイラインに大きな影響を与えることになる」
ひとの密度が高く、自然換気が難しく、廊下やエレベーターでの密集・密閉を避けられないタワーオフィスやタワーマンションの開発は、今後、急速に失速していくだろう。
住宅も変わる。365日、常時リモートワークが可能なように住宅のオフィス化が始まる。リビングルームが死語となり、家族それぞれがいざとなったら自宅で2週間の自己隔離が可能なプライベート・ルームを持ち、そこで仕事、勉強、食事、就寝を行うスタイルが標準となる。高級物件では感染症指定医療機関並みの陰圧室仕様のパーソナル・ルームも出始めている。普段の家族の会話もZoomを介して行われ、玄関が拡張されファミリーホールと呼ばれるようになり、家族の団らんは検温後にそこで窓を開けてというスタイルが定着する。非接触でamazonやネットスーパーの荷物が受け取り可能で、自動除菌機能付きのWHO認定のアンチ・ウイルス型宅配ボックスが必須アイテムとなろう。
ミラーワールドというフロンティア
激変する地価と不動産マーケットだが、新たなフロンティアも生まれる。ミラーワールド不動産というマーケットだ。
究極のリモートワークの行く着く先は、オフィスが不要となった世界だ。オフィスがなくなっても仕事がある限り企業労働者は一向に困らない。むしろ満員電車の苦労と感染リスクがないだけましだ。
一方で困るのが、上司や会社の悪口で盛り上がる場、伝統行事として生き残っている昭和スタイルの飲みニケーションの場、相変わらずの男子社会に日ごろの鬱憤を爆発させる女子会の場など、憂さ晴らしの場、そしてお得意様との接待の席だ。
今どき開いてる店は限られる。もぐり以外に店で、夜の酒席として飲食店を利用する場合は、管轄の保健所を通じて予約する必要があり、会食までは最低4日間、場合によれは10日近く自宅での経過観察が要請される。高級店においては、さらに参加者全員に来店前に最低2週間の自宅待機を求める店もあり、夜、複数で酒席を囲む行為はとてつもなくハードルが上がっている。何故、日本ではもっと手軽に飲食店が利用できないのか、国民の不満がたまっている。
こうしたアフター・コロナの国民の不満を解消する救世主として急浮上するのがAR(Augmented Reality、仮想現実)を使ったミラーワールド不動産マーケットだ。
ミラーワールドとは現実と同じサイズの3D地図が作られ、リアルとヴァーチャルが相互浸透する世界。デジタルツインと呼ばれる、ヴァーチャルに生成され、ARグラスなどを介して現実感、没入感のあるもうひとつの世界が出現する。進化したデジタルツインには、自分自身のデジタルツイン(アバター)も存在しており、現実の自分とリアルタイムで同期しながら暮らしてる。
ミラーワールドでは、デリバリーアプリを使って飲み物や料理を「同期」すれば、行きつけの新橋の居酒屋でいつもの仲間とくだを巻くこともできるし、三ツ星レストランのシャンパン・ブランチをセットして女子会で見栄を張ることも、得意先の社長を招待して高級料亭の個室で接待することも可能だ。
ストレスで悩んでいるのはサラリーマンだけではない。ミラーワールドでは、子供達はグランドや公園で友達と遊べるし、お母さんもママ友と疑心暗鬼から解放されておしゃべりに興じることができるし、リタイア老人は同窓会で濃厚接触が許されていた時代への郷愁を語り合うこともできる。若者がライブハウスで叫んだり、キャバクラに出入りしても後ろ指をさされることもないし、もちろん、銀座でのショッピングやパチンコや海外旅行だって可能だ。なんだったら過去への旅行もできるかもしれない。
リアリティという定義が変わり、この隔靴掻痒のような希薄は現実感を人はそれを当たり前として受け入れてゆくだろう。
グローバル都市への熱狂の終焉。改めて気づくパブリックとソーシャルという価値
「グローバル・シティ・ブースタリズム(global cities’ boosterism 注:グローバル都市に対する熱狂的支持)は打撃を受けるだろう。大都市の流動的なネットワークについてはさまざまに言われてきたが、今大切なのは、むしろそれよりも、安全な場所と感じられる都市、家庭のように感じられる都市、ずっと住める場所だと実感できる都市である」。
「今回の出来事は、働くために一時的に大都市に移り住まなければならないという現実を引き起こしている不平等、ギグ・エコノミーそして公共サービスの荒廃に対する警告なのだ」前掲のヴァンスティファウトは言う。
国際都市間競争、インバウンド、オリンピック、IRなど、グローバル都市ブームに乗り遅れまいとするさまざまな都市政策は再考を迫られるだろう。
新型コロナウイルスは建築や都市にとって、ほんとうに大事なものはなにかを教えている。
今回のウイルスがこれからの建築と都市に突き付けているのは、パブリック(人びとのため)とソーシャル(社会正義)という、古くて新しい概念だ。
ディスタンシングも、コンタクトレスも、ヴァーチャルリアリティも、そのための手段でなければなんの意味もない。
近代都市計画は、産業革命により劣悪化する都市の公衆衛生(public health)という概念からスタートしており、モダニズム建築の問題意識の根底にあったのも、労働者の住宅難、都市環境の悪化、スプロールなどを解決する社会改革だった。
「建築か、革命か」。若きル・コルビュジエはこう宣言した。
なんのことはない100年たって振り出しに戻ったという話だ。
パンデミックによって社会はなにも変わらない?
ここまで書いてきて、最後にこういうことを言うのもなんだが、この度の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)によって、社会はなにも変わらないかもしれない。
セント・アンドリュース大学の医療人類学者のクリストス・リンテリス(Christos Lynteris)は、コロナウイルスによって、なにかが大きく変わるという考え方に懐疑的だ。その良い例が2003年のSARSのパンデミックのケースだという。
「一過性で終わったパンデミックに関して言えば普通はまったくインパクトを持たない。繰り返し起こってはじめて人は注意するようになるのだ」。医療人類学者は警鐘をならす。
once on shore、we pray no more (一旦、海岸にたどりつけば、ひとはもう祈ることはしない)
「喉元過ぎれば」に類することわざは世界中の言語にある。
<上>へ
(★1)言うまでもないが、「ガーディアン」の記事が本稿で展開しているような未来像を主張しているわけではない。
(★)本稿は2020年4月28日に書かれた。
(★)トップ画像 photo by Kazuki HIRO
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一般に住宅に対応する言葉とされるHousingには、家や住まい(HouseやHome)という意味のほかに、住居の供給という意味がある。都市計画が、産業革命後の劣悪な都市環境を改善しようとする衛生概念から生まれたのと同様に、住宅という言葉は、産業労働者のための住居の供給という意味が含意されている。
建築学者の松村秀一は言う。住宅とは、「家でも、棲家でも、町でも、村でもない」、20世紀が生んだ産物だ。この言葉通り、住宅はおのずと近代住宅のことを意味している。
住宅に欠落しているのは経済である。建築家の山本理顕は喝破した。
住宅は産業労働者のために発明された住まいであり、その機能は、団らん、食事、休息、睡眠、生殖、趣味、余暇、勉強など、主には労働力を再生産するための場として作られている。
大多数の住宅には、働くための場所や機能はない。いわゆる不動産用語でいう専用住宅だ。
この度の新型コロナウィルス感染症(COVID-19)が状況を一変させた。本来、働く場ではない住宅が突如、働く場になった。
出社禁止や出社自粛、在宅勤務、リモートやテレワーク、オンライン会議にビデオ打ち合わせ。急速に住宅に働く場としての役割が求められるようになった。
PCやWebカメラを購入し、WiFiやビデオ会議アプリを導入し、ダイニングテーブルの上を片づけ、配信画像の背景となるインテリアをそれっぽく設え、仕事モードに(少なくとも上半身は)着替えてなど、日本中でバタバタと住宅が急ごしらえの仕事空間に様変わりした。
新型コロナウィルス感染症の拡大が収まったとしても、こうしたリモートワークの流れは変わらず、むしろ定着するだろうと言われている。
地球上からウィルスをなくすことは不可能であり、第二波、第三波はもちろん、将来の新たなウィルスの脅威を遠ざけるためには、普段からの密度のコントロール、つまり人と人との物理的距離の確保、接触機会の低減を図ることが、原始的だが、もっとも簡便で効果のある方法であるというのが、今回の地球規模での災禍の教訓だからだ。
今後、ドアノブやスイッチやボタンに触らなくとも暮らせるタッチレスをコンセプトにした建物、自然換気を取り入れた空調システム、仕事に集中できる本格的なワークスペースがある住宅、シェアオフィス機能を備えた共用施設のあるマンションなどが開発されるだろう。
しかしながら、新型コロナウィルスが住宅に与える影響で最も注目すべきは、住宅が仕事の場となることに気がついたこと、住宅が経済とつながったことだ。
職住分離、専用住宅、通勤、住宅街などの概念と実体は、決して自明のことではなく、それらは近代が生んだ、たかだが100年ぐらいに流布した概念と実体だ。ありうべき将来は、こうした「常識」の延長線上にはないかもしれない。
経済が排除されてきた住宅に経済が接続した。大げさに言えば、20世紀以来100年間続いてきた住宅のあり方が変わる「脱住宅」の始まりだ。
テレ(tele)もリモート(remote)も「遠い」、「離れて」という意味だ。果たしてどこから「遠く」、どこと「離れて」いるのか。
今は会社から「遠い」、オフィスから「離れて」仕事をするという意味だ。起点となっているのは会社やオフィスだ。したがって、今のテレワーク、リモートワークのベースにあるのは、あくまでも従来型の職住分離、専用住宅という価値観だ。仕事の場に関していえば、会社やオフィスが主で、住宅は従だ。
テレワークの動きは「脱住宅」の小さな一歩にしか過ぎない。
ところで、今回の出来事がきかっけになり、高密な高層ビルやエレベーターや満員電車に二の足を踏む人が増えたらどうだろうか。
あるいは、通勤という行為の持つさまざまなデメリットに改めて気づいた人や会社が増えたらどうだろうか、大半の仕事は家でもできることに気がついたらどうだろうか、住宅でマルチワークにチャレンジする人が増えたらどうだろうか、住宅を拠点に起業する、住宅でお店や教室などを始めるなどする人が増えたらどうだろうか、社員全員が在宅勤務の会社が出現するなどしたらどうだろうか。
そして、フリーランサーやギグワーカーや自営業や小企業などにみられる、こうした動きが大企業や一般のビジネスパーソンにも拡大したらどうだろうか。
日本で非常事態宣言が解除されて間もない日の朝刊の一面には、「欧州、在宅勤務が標準に 独英、法制化の動き」との見出しの言葉が躍っていた(日本経済新2020年6月13日)。
職と住の場が融合し、住宅と仕事場との間にあった主従関係が曖昧になり、住宅は本格的に経済につながる。「脱住宅」の世界だ。
「脱住宅」で変わるのは住宅だけではない。オフィスが変わり、都市が変わる。
オフィス街や住宅街という言い方が実態を失い、職住を分離してきた都市計画における用途地域規制が効力を失い、都心一極集中が分散化に転じ、昼/夜の人口密度がバランス化し、満員電車が解消され、都市はコンパクトに多拠点化し、それぞれに地域個性を際立たせていく。
「脱住宅」は、住宅、オフィス、都市を変え、住まい方、働き方を変え、ひいては生き方を変える。
「脱住宅」によって、好きなところに住めるようになるだろう。会社やオフィスという場所に拘束されず、好きな場所で暮らすことが可能になる。
住宅が本格的な仕事の場となれば、好きな場所に住んで働くことが可能になる。
都心でも、郊外でも、リゾートでも、地方都市でも、田舎でも、海でも山でも、海外でも。
かつてバブル期の地価高騰時代に、耳触りのいい現実追認的夢物語として、おそらくは建設省あたりが作文したであろう「マルチハビテーション」なども、本当に実現するかもしれない。
さらには、好きな時に好きな場所に行く自由も獲得できるようになるだろう。都度都度の旅先を仕事場にする、そんな生き方も可能かもしれない。旅に生き、世界に暮らす人生だ。
その時にはもはや当たり前すぎて、リモートワークという言葉そのものがなくなっているだろう。
住宅に経済がつながったのが「脱住宅」の第一局面だとしたら、「一住宅=一家族」(山本理顕)という構図が崩壊するのが「脱住宅」の第二局面だ。
『「脱住宅」のすすめ<後編>』では、「一住宅=一家族」という「常識」がすでに崩れている現代をみてみよう。
to be continued
(参考文献)
松村秀一 『「住宅」という考え方 20世紀的住宅の系譜』 東京大学出版会 1999年
山本理顕、沖俊治 『脱住宅 「小さな経済圏」を設計する』 平凡社 2018年
(★)トップ画像: Photo by しーくん from PAKUTASO ,adapted
*初出:東京カンテイ「マンションライブラリー」に加筆
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江戸時代においては「散歩は『はしたないことで、してはならぬ行儀であった』」という大佛次郎の説を川本三郎が紹介している。(「路地を歩く」 『老いの荷風』 白水社 2017)。
名所めぐりや物見遊山は江戸の最も盛んなレジャーであったが、同じ外出でも目的がないぶらぶら歩きの場合はそうではなかったようだ。身分制があり、勤勉が尊ばれた社会にあって、大の大人がさしたる用もなく外出することが戒められていたことは想像に難くない。
「散歩は西洋人が教えてくれた」。大佛次郎は書いている。
合目的や有用を求めて止まない近代が、それとは正反対の無為や無用も同時に生み出した。散歩は近代の産物でありながら、反近代的行為でもあるというところが面白い。
散歩が「不要不急」と言われてきたのは、目的、有用、効率、勤勉という近代的価値観とは無縁の暇つぶしにすぎないという意味でだ。
散歩を発見したのはベンヤミンが「遊民(フラヌール)」と呼んだ、都市のひま人たちだ。ボードレールも、夏目漱石の小説に登場する悩める主人公たちも、そして荷風散人も。
当事者としての目的、有用の立場を離れ、第三者としての眼差しと匿名性を獲得し、都市のひだの内部を自らの内面を探るように歩く。
散歩とは優れて都市的な行為であった。
アメリカ、フランスでの遊学から帰国した36歳の永井荷風が、さっそく明治近代によって失われつつある東京の姿を『日和下駄』(1914年・大正3年)に残そうとしたのも納得がいく。
堂々と暇つぶしが推奨されるコロナの時代とは、そのきっかけはどうあれ、いよいよ近代の終わりの始まりなのかもしれない。
「散人きどり<2>」では、<1>に続き、『日和下駄』で取り上げられた水、樹、夕陽をモチーフに、家のまわりをぶらぶらと歩いてみよう。
「東京市はかくの如く海と河と堀と溝と、それら幾種類の水を有する頗(すこぶる)変化に富んだ都会である」
かつての東京は江戸の都市構造を受け継いだ文字通りの「水の都」であり、その象徴といえば、幸田露伴の『水の東京』(1902年・明治35年)に記されているように、昔も今も隅田川であり、そして荒川や小名木川など下町を流れる川だ。
山の手に水がないかといえば、そうでもなく、下町のような大河はなくとも、淀橋台、荏原台などの深い谷筋を流れる数々の川がある。
下町の川が一種の水平性、開放性だとしたら、山の手の川や水は、崖や坂と連続した垂直性であり、緑を伴った癒しの空間だ。
下の写真は清水窪弁財天の池。自然の湧き水が今でも絶えない、都内に残された希少なスポット。東京名湧水57のひとつに数えられており、今も残る洗足池の唯一の水源でもある。
■清水窪弁財天(大田区北千束一丁目)
池は小さく、現在の湧水の水量もさほどではなく、奥の滝も池の水をポンプで循環させているものだが、古(いにしえ)のこんこんと湧き出る水は霊験あらたかな場所として信仰を集めた。3方が崖に囲まれ、いくつかの社が祀られ、大きな木々で光が遮られて昼なお暗いこの場所は、今もそんな霊性を宿している。
縄文時代にはこの地まで海が迫っていた。縄文海進期といわれる時期だ。今やすっかり山の手の住宅街の赴きだが、氷河期の海面後退で削られてできた谷筋に氷河後に再び海面が上昇し、相当内陸に入ったこのあたりでもかつては海に繋がっていたのだ。
清水窪弁財天の湧き水が呑川支流となり、流れ込んだ先にあるのが洗足池だ。清水窪の小さな池が、湖面4万平方メートルを誇る都内有数の大きさの池へと姿を変える。
■洗足池(大田区南北千束ニ丁目)
午後の静かな湖面とたおやかなしだれ桜。花見禁止、飲食禁止など自粛ムードに支配された2020年の桜は、このような閑寂なイメージとして記憶に留められることになるのだろう。
晩年の勝海州はこの湖畔に別荘「洗足軒」を構え、この地を最期の場所と定めている。一説には江戸開城後、西郷南洲もここを訪れたとも言われている。湖面を望むように畔(ほとり)には勝海舟と妻民子の墓標がある。
こちらは呑川本流。呑川の上流部分はすべて暗渠化されて緑道になっているが、大井町線と目黒線をくぐった下流からは開渠となり、水の流れを見ることができる。
■呑川(大田区石川町二丁目)
味気ない切り立ったコンクリート護岸となり、水面も遠くなったとはいえ、水の流れがあり、鴨たちが羽を休め、いくつかの橋が架かり、ところどころに桜なども植えられた川沿いは、今なお心安らぐ風景だ。
「山の手を蔽(おお)う老樹と、下町を流れる河とは東京市の有する最も尊い宝である」
川が下町の宝なら、老樹や大樹は山の手の宝だ。
碑文谷八幡の境内にある老樹にして大樹。ここは、いつもひんやりした空気が漂い、時間の進みが少しだけ遅い。
■碑文谷八幡(目黒区碑文谷三丁目)
山の手散歩の恰好のナビゲーターはこの大樹による緑の森だ。住宅の屋根の向こうに見える緑の塊が、ここがどこであるか、あそこまではどのくらいかを教えてくれる。歩き疲れた身体にいっときの休息を与えてくれるのも、こうした老樹が残された寺社の境内だったりする。
都内とは思えない立派な竹林。すずめのお宿緑地公園内に残された竹林だ。ここ旧衾村(ふすまむら)は竹の子の産地として有名で、昭和初期までは生産されていたそうだ。同公園には江戸時代に年寄を務めた旧家も移築されており、江戸中期に建てられた住宅を見ることもできる。
■すずめのお宿緑地公園(目黒区碑文谷三丁目)
先に言及した暗渠化・緑道化された呑川の今の姿。立派な大樹が両側から迫り、緑深き憩いの場として親しまれるようになって久しい。桜吹雪、新緑、木漏れ陽、枯れ木、雪景色など折々に異なった風情を楽しめる。散歩、ウォーキング、ランニング、サイクリング、ボール遊びなど、この緑の空間がコロナ禍によるひとびとの無聊をどれだけ慰めてきたことか。
■呑川緑道(目黒区大岡山二丁目)
「東京における夕陽(せきよう)の美は若葉の五、六月と、晩秋の十月十一月の間を以て第一とする」
夕方からのぶらぶら歩きに興を添えるのは、なんといっても西方に広がる夕陽だ。ここは荷風散人にならって「ゆうひ」ではなく「せきよう」と呼んでみたい。
場所、季節、天候などによって千変万化するのが夕陽。さらには時を刻むにしたがって、文字通り刻一刻とその姿を変化させる。したがって、今の夕陽は、先ほどの夕陽にあらず、さらには後の夕陽にもあらず。今日の夕陽は昨日の夕陽にあらずして、はたまた明日の夕陽にもあらず。
色調、明るさ、光の拡散する様子、雲との関係、赤からブルーまでのグラデーションの具合、忍び寄る闇とのせめぎ合い、建物への反射、逆光で沈む前景とのコントラストなど、夕陽はまさに一期一会の美の体験だ。
■品川区小山三丁目付近
「ここに夕陽(せきよう)の美と共に合せて語るべきは、市中より見る富士山の遠景である」、「関西の都会からは見たくも富士は見えない。ここにおいて江戸児(えどっこ)は水道の水と合せて富士の眺望を東都の誇(ほこり)となした」と荷風散人は夕陽の章に記した。
東京には冨士見坂と名づけられた坂は数多いが、今も実際に富士山が見える冨士見坂はほんの一握りだ。
トップ画像は、実際に富士山が見える東工大キャンパス内にある冨士見坂(目黒区大岡山二丁目)からの夕暮れの一瞬。中央の建物の間にシルエットになった富士山が見える。
(★)東工大キャンパスでは、新型コロナウイルス感染拡大防止のために2020年4月8日以降現在まで、散歩等でのキャンパスへの立ち入りを控えるよう要請する措置がとられている。トップ画像は2016年12月撮影。
*初出:東京カンテイ「マンションライブラリー」
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新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックは、おさまる気配をみせていない(2020年4月28日現在)。まったく先行きが見通せない、この未曽有の事態がこれからの世界にどのような影響を与えるのだろうか。
イギリスの新聞「ガーディアン」The Gardianは4月13日付記事でコロナウイルスの後の建築と題した記事を掲載した(Oliver Wainwright, Smart lifts, lonely workers, no towers or tourists: architecture after coronavirus, 13 Apr 2020,@the guardian.com)。
「形態はつねに感染の恐怖に従ってきた。機能に従うのと同じように」
わたしたちの住む都市や建物は、さまざまな疾病によって形作られてきたと、「ガーディアン」の記事の著者、建築評論家オリバー・ウェインライト(Oliver Wainwright)は書いている。
「現在のグリッド型の街路パターンはコレラの影響によるものだ。19世紀に蔓延したこの伝染病が下水道の導入を促進したのだが、下水管を埋設するために、あわせて過密を避けるための新たなゾーニング法の影響もあり、道路は以前より広くストレートになった。1855年に中国から始まった腺ペストの流行の際、鼠との全面戦争のなかで、排水管に始まりドアの框や建物基礎まで、あらゆるもののデザインが変化した。モダニズムによるクリーンな美学は、結核による影響でもあり、白く塗られた部屋、衛生的なタイル張りのバスルーム、そこここに置かれたミッドセンチュリーデザインのリクライニング・チェアの時代は、光が降り注ぐサナトリウムにインスパイアされたものだ」
「形態はつねに感染の恐怖に従ってきた、機能に従うのと同じように(Form has always followed fear of infection, just as much as function)」。
COVID-19は、建築や都市に一体なにをもたらすのか。「ガーディアン」の記事を案内役に、大胆予測の虚構未来を語る思考実験を試みてみよう。信じるも信じないもあなた次第(★1)。引用はすべて同記事から。
これからはオフィスでもソーシャル・ディスタンシング
世界で巨大空港などを手掛ける英設計事務所スコット・ブラウンリグ社のチーフ・エグゼクティブのダーレン・コンバー(Darren Comber)は言う。
「これまでわれわれは、コワーキング・スペースに対するブームを目の当たりにしてきた。しかし今回の出来事の後、すべてのチームをひとところに詰め込んで、ほかの業務と密接に交わり合うことを会社が望むだろうか?小区画に分割された1950年代のワークスタイルに戻ることを勧めるわけではないが、はっきり言えばオフィスの密度は変るだろう。オープンプランのレイアウトから脱し、同時に効果的な換気や開閉できる窓が求められる」
働く場においてもソーシャル・ディスタンスが当たり前になり、ワークプレイスの密度は今の1/2が目標になる。コワーキング・スペースのような、セレンディピティや他部門との交流を売りにする性善説が前提のオープンなワークプレイスは過去のものとなり、労使ともに理想とするのはカプセル型のパーソナル・プレイスになる。広々としたフロアーに蛸壺のようなブースが点々とならんでおり、そこで自己隔離しながらモニター相手に一日中格闘するというのがこれからのオフィスの日常だ。
COVID-19の場合、エアコンによる飛沫の浮遊が室内感染の大きな原因ということが判ってきており、換気はオフィスの最重要課題となる。なかでも窓が開けられ、自然換気ができるオフィスは希少物件として市場で最も高い賃料をとれるオフィスとなる。今まで隙間風で悩まされてきた物件は一転してヘルシーなヴィンテージ物件として一躍脚光を浴びる。
満員電車にすし詰めという濃厚接触スタイルの通勤は、感染拡大につながる犯罪的行為とみなされるようになり、従業員にそれを強いる企業は、ブラック企業ならぬデビル企業として厚生労働省が社名公表に踏み切り、リモートワークはますます常態化する。日本のサラリーマンの間に、苦行僧並みの厳しい自己抑制の美学を育んできたこの愛すべき通勤スタイルも、もはや歴史として経営学の教科書に載る時代となろう。
毎朝、定員ギリギリまでぎゅうぎゅう詰めになる満員のエレベーターという風物詩も、クラスター発生の危険極まりない密閉・密着空間であるとして、国土交通省によりエレベーターの定員は8割減という厳しい規制がなされる。一分一秒を争うグローバル・エリートにとって、ストレスの種がまたひとつ増える結果となる。
レス・イズ・オール(Less is all)という世界像。あるいはオフィスの消滅
「ガーディアン」の記事は、「ポスト・コロナウイルスの原則」が採用されたオフィスビルが既に作られていることを報じている。
フォスター&パートナーズ社でワークプレイス・チームを率い、現在、ザハ・ハディド・アークテクツとコラボしている建築家兼コンサルタントのアルジュン・カイクラー(Arjun Kaicker)らが携わるUAEのシャルージャに作られているザハ・ハディッドによるBee’ah Headquater というビルだ。
そのオフィスは「非接触パスウェイ(Contactress pathways)」と呼ばれるキーワードに乗っ取ってデザインされており、スマホでエレベーターを呼び出し、ドアはセンサーと顔認証システムで自動的に開くという、働く人は自分の手でほとんど建物の表面に触らなくても済むオフィスビルだ。
「われわれは、自治体と共同で、ストリートからワークステーションにいたるまで、直接的な接触を排除することを目指している。ブラインド、照明、換気、さらにはコーヒー一杯の注文まで、手元のスマホでできるようになるだろう」。カイクラーは言う。
タッチレス、コンタクトレス、ハンズフリー。ないことがすべてであるようなレス・イズ・オール(Less is all)がコロナの時代のオフィスのキーワードだ。
ないないずくしのオフィスの未来が行き着くのは、建物への物理的な接触だけにはとどまらない。今回の出来事をきっかけに、無料テレビ会議アプリや電子捺印など新たな非接触技術が矢継ぎばやに登場し、またたく間に普及した。非接触というコンセプトは、あらゆる局面にまで展開するだろう。社内会議がすべてビデオ会議となることはもちろん、社員相互の連絡も個人のパーソナル・ブースからZoomを使ってというように、人的接触も含めてすべての接触を排除したオフィスにまで行きつくのは時間の問題だ。
待てよ、そうなると、そもそもオフィスに出社する意味っていったいなんだろう?
満員電車のマゾヒスティックな自己修行の機会もない、ソーシャル・ディスタンスがうるさくて社員食堂で同僚と一緒にサラメシも食えない、会議での居眠りという至福の時間ももうない。地下の飲食街の大手チェーン店は早々と見切りをつけて閉店してしまったし、飲食店での酒類の提供は午後5時までと一歩踏み込んだ行政指導がなされ、会社帰りの一杯も事実上禁止されて久しい。
オフィスへ出社どころか、コロナの時代は、オフィスそのものもなくなっしまう時代かもしれない。
高密度都市は罪悪なのか?救いなのか?
「事態を破滅的にしている背景にはNYCの密度の高さがある。NYCは密度を下げる計画を早急に打ち出す必要がある」と3月の終わりにクオモNY知事はツイートした。「アメリカのとてつもないスプロールにこそ、われわれを救う希望を見出すべきだ」とツイートしたジャーナリストもいた。
「密度の問題はアメリカにとって、今なお対立を引き起こす問題だ」。ノースイースタン大学建築学教授のサラ・ジェンセン・カー(Sara Jensen Carr)はこう指摘する。「今回のパンデミックは、もともと高密度に懐疑的で、車中心の郊外化を推し進めたい人々に格好の攻撃材料を与えた。だが彼らは100年前と同じ議論を繰り返しているだけだ」で警告する。
「ステイ・ホーム」、「おウチにいよう」の合言葉のもと、自宅での自己隔離とリモートワークは、都心をゴーストタウン化する一方で、住宅地では、狭い舗道に肩をぶつけるように人が行きかい、商店街やスーパーはライブハウス並みの3密空間と化し、公園や緑道は子供たちの外遊び、ランニング、ウォーキング、散歩など老若男女で芋を洗う状態となり、児童公園では限界にきたストレスを密着トークで発散させるお母さん集団を発生させている。
都心のゴーストタウン化と住宅地での「おウチ3密」の発生という、これまでとは正反対の現象が生まれ、新たなドーナツ化現象となって構造化する。
都心のオフィス需要は徐々になくなり、借り手がいないオフィス群、空き店舗だらけの商業ビルや地下街が生まれる一方で、住宅地での密度は高止まりし、解消する気配は一向にない。
職住と昼夜人口が双方とも高密のNYC、職住と昼夜人口の密度が都心とそれ以外のエリアで極端にアンバランスなTOKYO。
コロナウイルスを前にして、世界の都市はそれぞれの処方で自らの密度問題に落とし前をつけることを迫られている。
To be continued
(★1)言うまでもないが、「ガーディアン」の記事が本稿で展開しているような未来像を主張しているわけではない。
(★)本稿は2020年4月28日に書かれた。
(★)トップ画像 photo by Kazuki HIRO
*初出:zeitgeist site
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無聊を託つ(ぶりょうをかこつ)という言い方がある。
広辞苑(第五版)には、無聊とは「心配事があって楽しくないこと」「たいくつ」とあり、託つとは「他のせいにする」「恨んで言う。ぐちをこぼす」とある。
ステイホームを強いられている現在のわたしたちのこころもちそのものだ。
「不要不急」という言葉がことあるごとに使われ、すっかり定着した。一体、なにが「不要不急」で、なにがそうではないのか。新型コロナウイルス(COVID-19)は、そうした不断の疑心暗鬼と自己規制を人のこころに植えつけた。
「不要不急」の反対語はなんだろう。「有要有急」とは言わないので、たぶん「必要至急」「必要火急」とかだろうか。
散歩やウォーキングは、これまではどちらかというと「不要不急」とされてきた。新型コロナウイルスの感染拡大とそれに伴う外出自粛や自宅待機は、状況を一変させ、散歩やウォーキングは、わたしたちの無聊を慰める「必要」な行為として突如として「格上げ」された。
事実、散歩やウォーキングやランニングは、家のなかでの退屈と鬱屈をまぎらわすのに最適だ。
暇つぶしとは言いながら、こうした行為には大いなる効能もある。文芸評論家の加藤典洋はこう記している。
「たとえば、僕はいまだいたい、ものを書いて時間を過ごしています。でも、できるだけ、一日に一度、午後二時か三時くらいに、住宅の下に降りて、建物に沿った散歩道を三〇分ほどウォーキングというか、散歩することにしています。すると、書きながら考えていることに、あの「ああ、そうか」という「ひらめき」が訪れることが多々、あります。(中略)書くことは集中ですが、散歩することは、拡散、なのですね。考えることだけでなく、生きることにも、お互いに対極的なふたつのものを持つことが、とても大切です」(『もうすぐやってくる尊王攘夷思想のために』幻戯書房 2017)
加藤の言う「拡散」は、目の前のことから離れること、日常からの離脱によってもたらされる。
目の前の仕事や作業はもちろんのこと、しなければならない雑事、あるいはSNSなどのつい手を伸ばしてしまう手軽な気晴らしや情報などから離れること。
大切なことは自分の身体以外はなにもない、歩くこと以外はなにもできないという状況に身を置くことだ。なにもすることがないことが、逆に、「集中」においては生じなかった「ひらめき」を生む。歩くことはクリエイティブなマインドを刺激する。
なにもしない、暇つぶしとは言え、そこに多少なりの興趣を求めようとするとき、その道すがらに坂や崖や水や樹などがあることは大変重要だ。
運動不足解消という確固たる目的がある場合も、その行程になにがしかの風情があれば、ランニングマシーンの上でモルモットになるよりは、よっぽど気分は上だ。
1時間程度の散歩やウォーキングで行ける範囲は限られる。片道2~3Km程度か。電車の駅でいうと一駅か二駅先。その範囲はおのずと家のまわりに限られる。
「コロナ下駄」などと嘯きながら散人きどりで家のまわりをぶらぶら歩いてみた。
「坂は即ち平地に生じた波瀾である」
永井荷風は『日和下駄』(1914年・大正3年)にそう記した。
小説でも映画でも音楽でも「波瀾」が物語を展開させる。散歩も同じだ。坂は散歩に「波瀾」を生み、歩くことに倦んだ肉体と精神に活を入れる。
だから散歩のときは、わざわざ坂のあるところを歩くのがいい。歩き疲れた時はしんどいが。
そして住むなら坂のある街だ。
23区でいうと、淀橋台(渋谷区、新宿区、千代田、港区、品川区の一部)とその南に広がる荏原台(目黒区、世田谷区、品川区、大田区の一部)あたりは深い谷と急な坂が多く、坂道散歩の醍醐味が味わえる。
いずれも多数の舌状台地が武蔵野台地から削りだされた場所であり、谷と丘が鹿の角のように深く奥まで入り組んだ、高低差が激しいところだ。
坂に同じ坂は二つとない。坂はそれぞれにその個性と特徴と風情を有している。泰斗横関英一による『江戸の坂 東京の坂』(ちくま文芸文庫 2010)がくまなく記すところである。
「東京の坂の中(うち)にはまた坂と坂とが谷をなす窪地を間にして向合(むかいあわせ)に突立っている処がある。(中略)。こういう処は地勢が切迫して坂と坂との差向いが急激に接近していれば、景色はいよいよ面白く、市中に偶然温泉場の街が出来たのかと思わせるような処さえある」(荷風前掲書)
こうした2つの坂が対面している様子は行合(ゆきあい)などと呼ばれており(麻布台一丁目にこの名前の坂がある)、事実、谷と丘が交互に現れる舌状台地の場所では、そうした谷越えの対面坂も少なくない。
これは大岡山1丁目にある無名の坂。左右の風景にもさしたる見どころはないが、手前からほとんど直角にカーブしながら急激に落ち込む様子、呑川緑道を谷底に、緑ヶ丘の六差路に向かって長い長い緩やかな登り坂が続く様子など、行合う坂のダイナミックなパースペクティブが妙味の坂である。夕暮れには視線の先に燃える太陽で照らされる坂を見ることもできる。
■目黒区大岡山1丁目
坂は地形だけではなく街のかつての姿や歴史を伝えるところでもある。したがって坂を壊すことは街の歴史を壊すことと同じだ。
「鶯坂」と呼ばれるこの坂は、かつてここが緑深き切通しで鶯が盛んに来訪する場所だったことを物語っている。
■鶯坂(目黒区大岡山2丁目)
「この崖と坂との佶倔(きっくつ)なる風景を以て大いに山の手の誇とするのである」
崖は使いづらいがゆえに価値が低いとみなされ、往々にして進歩や発展や開発から取り残されてきた。それゆえに崖は、古の地形や自然が守られ、ひっそりと息づいている場所でもある。
■石川神社(大田区石川町1丁目)
呑川によって浸食された急傾斜の崖の中腹に張りつくようにある社。通りからも相当奥まっており、普通の人は気がつかないところに鎮座している。
正保年間(1644年~1648年)の石川村開村以来の鎮守であり、古くは遠く品川界隅に至るまで崇敬者が多かったと伝えられる古社だ。
縄文人は岬のような崖の突端の地形に強い霊性を感じ、聖地を設け、時代が下った後にそこには神社や寺が作られた。中沢新一『アースダイバー』(講談社 2005)が説くところである。
まわりが変わっても、ここだけは200年、300年来のトポスを感じる場所として秘匿されている。
先の「鶯坂」の近くに残された急な崖状の雑木林。周辺にあった竹林などが宅地化され消えるなかで、住宅地のなかにぽつんと孤島にように取り残されている。
■目黒区大岡山1丁目
実際、この雑木林には春先から初夏にかけて、今でも鶯が訪れ、盛んにその個性的な鳴き声を聞かせてくれる。足を止めて、その鳴き声の主を探す散歩者も少なくない。ここではふきのとうやふきなども採れるのだ。
坂と崖はまさに東京の山の手の誇りだ。
散人きどりの「コロナ下駄」は、未曽有の大禍と閉塞を貴貨として、地域の誇りを再認識する機会でもある。
<続く>
(★)トップ画像は大田区北千束3丁目の坂。右から左へと呑川支流に向かって下る坂と手前から下り、奥へと上る坂が直行している。荏原台の複雑に入り組んだ地形が体感できる。
*初出:東京カンテイ「マンションライブラリー」
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日本における鉄筋コンクリート造の集合住宅について、その100年の歴史を展示するのがUR都市機構の集合住宅歴史館です。すでに取り壊されてしまった歴史的な集合住宅(部分)が移築・復元されています。
前回<2>、前々回<1>に続き、八王子のUR集合住宅歴史館で今の日本のマンションのルーツを体験してみました。
1955年(昭和30年)に発足した日本住宅公団が、それまでの郊外立地、3~5階建て、2戸1階段室型、南面並行配置という、いわゆる団地の基本フォーマットを捨てて挑戦したのが公団初のエレベーターつき高層集合住宅の晴海高層アパートです。
戦後の住宅不足は深刻さが続いており、当時でも270万戸住宅が不足しているといわれ、高層化は住宅量産の切り札でした。
晴海高層アパートはSRC造10階建、総戸数168戸の規模を誇り、設計はル・コルビュジエに師事した前川國男。晴海の埋め立て地、現在はトリトンスクエアとなっている日本住宅公団晴海団地の敷地内に建てられました。
ル・コルビュジエは、自らの理想都市「輝ける都市」の実現化を、いくつかのユニテ・ダビタシオンで試みました。建物を高層化し、太陽と緑を享受するというビジョンの住宅版です。なかでもマルセイユのユニテ・ダビタシオン(1952)が有名です。
晴海高層アパートは、師コルビュジエのユニテを手本に、弟子の前川が挑んだ日本の集合住宅史に残る傑作です。集合住宅歴史館に展示されている全体模型でその全容がうかがえます。
マッシブなヴォリューム、バルコニーからやや飛び出して納まる小梁、格子のようにみえるRC手摺、足許で裾広がりとなる柱などに、前川らしいどこか民俗的、土着的な雰囲気を宿した建物です。
建物をピロティで地盤から持ち上げ大地からの解放を宣言し、コンクリートの構造体を人工の土地に見立てて、縦に積み上がってゆく都市を構想する。屋上は空中の庭として住民に開放される。縦の「輝ける都市」であるユニテ・ダビタシオンのコンセプトです。
残念ながら晴海高層アパートでは、設計当初にあったピロティは公団の意向で途中で住戸化されてしまい、屋上も開放されることはありませんでしたが、人工土地の発想に基づく、将来の可変性や自由度に関しては、むしろは晴海高層アパートの方がはるかに先進的でした。
晴海高層アパートでは、メガストラクチャーと命名された3層毎のSRCの構造体のなかに、3層×2スパン計6住戸が嵌め込まれる構成になっており、横方向はもちろん、縦方向へもユニットの変更が可能になっていました。模型でも3層・2スパンごとに太い柱・梁が設けられているのがわかると思います。さらには、ブロック積みの戸境壁や室内に露出した配管など、空間の可変性と将来の更新性を強く意識した設計がなされていました。
こうした空間と時間の更新性をインストールした建築という、後のメタボリズム(建築・都市の新陳代謝をコンセプトにした1960年代の日本における建築運動)やその後、スケルトン・インフィル(SI)として注目される発想が既に具現化されているのに驚かされます。
このほかにも、フラットな型枠による左官仕事の軽減、工業化されたプレキャスト部材の導入、日本初のプレス加工のステンレス流し台の採用、伝統的な寸法にとらわれない畳(900×2,400)、モジュールを合わせた木製サッシュと障子、天井高いっぱいまで開口としたガラスの欄間など、晴海高層アパートには随所に、合理的な発想と住宅の量産化への先駆的な試みがなされており、モダニズムの倫理性や社会性にこだわった前川國男の意気込みが感じられます。
全体模型や妻側からの写真を見ると、漠然と抱いていたイメージよりも、はるかに横長でかつ奥行きが薄い建物であることがわかります。奥行方向の柱スパンは7.4mしかありません。奥行きの薄さはユニット面積の小ささを反映してのことです。
コルビュジエのユニテでは、メゾネット住戸が互い違いに噛みあうように2住戸ペアになって、3層ごとの架構のなかに収められる構成でしたが、同じ3層ごとの架構ですが、晴海では全戸フラット住戸であり、3層ごとの共用廊下から、2戸1で設けられた共用階段を上り下りして、上下の非廊下階の住戸にアクセスするという方法(スキップアクセス)が採用されています。
晴海においても設計段階ではメゾネット住戸が検討されていました。しかしながら、メゾネット住戸は住戸面積が狭い場合は、間取りに無理が生じ、事実上不可能であるため断念されました。ユニテの住戸面積が約100㎡・3LDKであるのに対して、晴海のそれは35㎡(廊下階住戸)、44㎡(非廊下階住戸)の2DKとその半分にも満たないレベルでした。
下の写真はバルコニー側からみた非廊下階住戸(44㎡・2DK)の室内です。居室はDK以外は畳の続き間になっており、引き戸とガラスの欄間により、動線の回遊性と天井までの抜け感など、今どきのリノベマンションのような開放感があります。
下の写真の手前左にあるのが日本初のステンレスキッチンです。手前右に露出の配管がみえます。さすがに排水音は気になったようです。
正方形でモジュールをあわせた障子と木製サッシュがモダンな印象です。約5mのフロンテージと室内に柱・梁が露出していないため、開口面積が大きく、室内はとても明るく感じられます。写真奥にプレキャストのバルコニー手摺が見えます。縦の部材は連子子(れんじこ)のような菱形の断面をしています。この辺がどことなく日本建築っぽい外観の印象を醸し出している理由です。
3層おきに設けられた廊下は幅は約2mと今のマンションに比べ広めです。高層住宅においても住民同士が交流できる場を身近に設けるというアイディアとして、実際に立ち話や子供の遊び場になっていたそうです。とjはいえ、廊下のスラブ下は下階の住戸の専有部分であるため、音の問題があり、遊び方などを制限していたそうです。廊下階の住戸の玄関扉は、扉を開けた際に扉が廊下にかからないように引き戸となっています。今のマンションの開放片廊下の寒々とした味気ない印象に比べ、どこか路地空間を思わせる親密な居心地を感じさせます。
日本の集合住宅史を画する数々の新しい試みが組み込まれ、世界の集合住宅史という視点からもユニークな存在だった晴海高層アパートは、1997年、築後わずか39年で取り壊されてしまいます。
メガストラクチャーによる更新性や可変性など、今日のスケルトン・インフル(SI)を先取りしているアイディアも一度も試されることなく終わりました。
「ユニテの東洋版」(ロジャー・シャーウッド)と称されながら、前川の晴海高層アパートが辿った運命は、コルビュジエのマルセイユのユニテ・ダビタシオンが、築後68年たった現在でも現役であり、集合住宅のプロトタイプとして世界中の研究者やマンション好きを魅了し続けているのとは、実に対照的なものでした。
(参考文献)
植田実「晴海高層アパートに託された都市高層集合住宅の夢」『新建築』2008年8月号(新建築社)
ロジャー・シャーウッド「現代集合住宅プロトタイプ」『都市と建築(a+u)』臨時増刊号(エー・アンド・ユー、1975年)
■UR都市機構 集合住宅歴史館
住所 : 〒192-0032 東京都八王子市石川町2683-3
TEL : 042-644-3751
公開 : 月曜日~金曜日(祝日、年末年始等を除く) 13:30~16:30 無料 事前予約制 ただし2020年2月27日(水)より、現在、臨時休館中
公式サイト
*初出:東京カンテイ「マンションライブラリー」
copyrights (c) 2020 tokyo culture addiction all rights reserved. 無断転載禁止。
日本における鉄筋コンクリート造の集合住宅について、その100年の歴史を展示するのがUR都市機構の集合住宅歴史館です。すでに取り壊されてしまった歴史的な集合住宅(部分)が移築・復元されています。
八王子のUR集合住宅歴史館を訪ね、今の日本のマンションのルーツを体験してみました。
前回の記事「マンションのルーツを体験する<1>」でみた代官山アパート(1927年・昭和2年)の間取りを覚えているでしょうか。
代官山アパートの間取りでは、台所に近い居室にちゃぶ台が置かれていました。代官山アパートが作られた戦前はもちろんのこと、戦後も昭和30年代ぐらいまでは、日本の家庭ではこのように畳の部屋にちゃぶ台を出して食事をするというのがごく普通でした。
ちゃぶ台で食事をする部屋は、普段は茶の間と呼ばれ、団欒の部屋になっていることが多かったと思われますが、狭い住宅に大人数が暮らす場合は、その部屋はちゃぶ台をたたんだ後に、誰かの寝室として使われるケースも多かったに違いありません。
こうした畳にちゃぶ台という暮らしを一変させたのが、日本住宅公団(当時)が開発したダイニング・キッチン(DK)です。
ここUR集合住宅歴史館には、ダイニング・キッチンの初期の事例が移築・復元されています。蓮根団地(1957年・昭和32年)の55型と呼ばれる2DKの間取りです。
420万戸の住宅が不足するといわれた戦後の日本。勤労者のための住宅不足が最大の社会問題とされ、その供給のため、公営住宅法(1951年・昭和26年)が作られ、1955年(昭和30年)には日本住宅公団(現在のUR都市機構)が設立されます。
ダイニング・キッチン誕生の背景には、京都大学の西山卯三が戦前に発表した食寝分離論がありました。
西山は大阪の長屋住宅の調査を通じて、日本の庶民住宅においては、狭いなかでも独立の食事室が確保されているという例が多いという事実に気づきます。6畳と3畳という狭い2居室からなる住宅でも、台所+2畳という間取りがみられ、台所に隣接する2畳という空間が食事専用の空間として使わていることを発見します。西山はこの事実を食事室の優先性、つまり食事室を寝室から分離させることが庶民の小住宅ではいちばん大事なことであるとして、いわゆる食寝分離論を提案します。
戦前は陽の目をみなかったこの西山の食寝分離論が、戦後、東大の吉武泰水と鈴木成文の二人の建築学者によって注目され実現します。建設省が主体となった公営住宅の設計指針を決める標準設計委員会の1951年度用委員会に、この二人によって提案されたのが、その後にダイニング・キッチンと呼ばれるアイディアが盛り込まれた、通称51C型と呼ばれる2寝室+台所兼食事室のプランでした。51C型はこんな間取りです。
「55年体制」という言葉で後年注目されるようになった1955年(昭和30年)という年は、日本住宅公団が発足した、日本の団地元年でもあります。日本住宅公団は、郊外立地、階段室型3~5階建て、コンクリート造、南面平行配棟の公団住宅、いわゆる団地の大量供給を開始します。
この団地に採用されたのが51C型をプロトタイプとした間取りでした。公団は板敷きの台所兼食事室をダイニング・キッチンと命名し、その間取りを2DKと表示し、ダイニング・キッチンと2DKは日本全国に爆発的に普及していきます。
集合住宅歴史館に移築・復元されている55型という蓮根団地の間取りはこの51C型の後継です。蓮根団地の実際のダイニング・キッチンをみてみましょう。
バルコニーに面した大きな開口が設けられ、今見てもいかにも開放的で明るく快適そうな空間です。造り付けの食器棚も使い勝手が良さそうです。
テーブルが置かれていますが、これは当時のエピソードによれば、ダイニング・キッチンの導入当初は、この板の間にちゃぶ台を出して食事をする入居者が多かったことから、しばらくしてからテーブルが備え付けられたのだそうです。
この時代の流し台は、ジントギ(人研ぎ)と呼ばれたテラゾー(種石をセメントで固めて研いだ人造石)を研磨して加工したものが用いられています。水切れが悪く、継ぎ目から水が漏れなど評判はイマイチでした。冷蔵庫置き場もまだ想定されていません。
2つの居室を仕切るのはすべて引き戸(襖)です。居室が畳敷きの和室であり、日本家屋ではこうした間仕切りが当たり前であり、それが踏襲されているからとも言えますが、限られた面積をなるべく広々と開放的にみせる、居室とダイング・キッチンを一体で使うなど、空間の流動性やフレキシビリティが優先されているのがわかります。板敷きのダイニング・キッチンという洋風の暮らし方を導入しながら、一方で就寝や性という個のプライバシーにはあまり関心が向いていないことが見てとれます。ちなみにプロトタイプとしての51C型では、前掲の通り居室間の仕切りは壁となっており、居室の独立性が考慮されていました。
台所は決まって北側の暗く湿ったところにあり、和室に座ってちゃぶ台を囲む食事パターンしか知らなかった当時の日本人にとって、南側に設けられた明るいキッチン、バルコニーに連続する開放的なダイニング、板敷、椅子座の洋風の暮らしは、憧れの住まいとして絶大な人気を集めました。
その後、57型で風呂が設けられ、流し台が人研ぎからステンレスに変わり、シリンダー錠が導入され、67型でLDKスタイルが登場するなど、今のマンションど同様のフォーマットに近づきますが、間取りの構成としては51C型が踏襲されていきます。
51C型で発想されたダイニング・キッチンというアイディアと2DKという間取りが、日本の戦後住宅の原形となったのです。民間が分譲するコンクリート造の集合住宅、後にマンションと呼ばれるようになった住宅もその直系と言えます。
住宅の間取りをnLDKと表記するのはこの2DKに由来し、日本のマンションの間取りの主流である、オープンなキッチン空間と引き戸による間仕切りの和室(洋室)とワンセットになった10畳程度のLDという間取り構成は51C型にルーツを持っています。
リビングルームという概念が希薄で、食事と食事の場での会話や団らんが最も重視され、居室並みに快適で明るいキッチンを有し、プライバシーへのこだわりよりも引き戸(スライディングドア)を多用した間仕切りなど、融通無碍な空間の流動性を重んじる日本のマンションの間取りのコンセプトは、すべてここにルーツを持っています。
ダイニング・キッチンと2DKは、それほどのインパクトと大きな影響力を持った、日本近代住宅史上最大のアイディアであったと断言できるでしょう。
改めて、戦前に西山卯三が長屋調査で発見した、貧しいなかでも、狭いなかでも、なによりも食事室を重視するという、エピソードが思い起こされます。
なぜそうなのか、なぜ日本の庶民にあっては食事の場が最優先されてきたのか、当時の建築家や住宅の専門家はなにも語ってはいません。
しかし、その後継であるわたしたちは知っています。
海に囲まれ、清浄な水に恵まれ、四季がめぐり、豊饒な農耕文化を育み、風土ごとに奥深い伝統があり、旬とともに暮らしのリズムを刻んできたわたしたち。
中・韓・印・伊・仏の技をいつの間にか自家薬籠中のものとし、見事な自国料理として、ラーメンを、焼肉を、カレーライスを、ナポリタンを、トンカツを発明してきたわたしたち。
ちゃぶ台の時代はもちろんのこと2DKの頃ですら、遥か遠くに仰ぎみる存在でしかなかった西洋料理は、その後の熱心な研鑽と、なによりも旺盛な食いしん坊精神の賜物として、いつの間にか本場をしのぐ水準と奥行を確保するにいたったわたしたち。
全国津々浦々、四季折々、古今東西、はたまた高級、逸品、絶品から手抜き、コスパ、B級、ジャンクまでが当たり前に併存し、さらには料理という実質や内容に加えて、形式や外観としての皿や器や盛りつけや空間のしつらえにまで都度都度の調和を求める、世界に類をみない驚くべき闊達にして自在な日本の家庭の食卓事情を想像するだけで、その理由は瞭然としています。
そう、わたしたちは昔も今も、キッチン&ダイニングのひとなのです。
To be continued
*参考文献
藤森照信『昭和住宅物語』(新建築社、1990年)
渡辺真理+木下庸子『集合住宅をユニットから考える』(新建築社、2006年)
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映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』は、今年(2020年)で90歳になるドキュメンタリー映画の巨匠フレデリック・ワイズマン監督の第41作目にあたる作品だ。
フレデリック・ワイズマンは、ナレーションや解説を一切排し、映像そのものにじっくり語らせる手法で、現代社会で起こっているできごとや学校、病院、刑務所などのさまざまな施設にフォーカスを当てたドキュメンタリー映画を制作してきた映像作家だ。そのキャリアは50年以上に及ぶ。
近年ではロンドンの美術館ナショナル・ギャラリーを描いた『ナショナル・ギャラリー』(2014年)や 、ニューヨークのクイーンズの移民の街を描いた『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』(2015年)などが話題となり、2014年にはヴェネチア国際映画祭で金獅子賞(特別功労賞)を、2016年にはアカデミー賞名誉賞を受賞している。
ニューヨーク公共図書館は、ニューヨーク市全5区のうち、マンハッタン、ブロンクス、スタテン島の3区を対象に、人文科学、芸術、ビジネス、黒人のそれぞれをテーマにした4つの研究図書館と、88の地域分館からなる図書館組織で、年間利用者数1,500万人(2002年)という巨大図書館ネットワークだ。2匹のライオン像が置かれた、マンハッタンの五番街と42丁目の交差点に建つ本館<スティーブン・A・シュワルツマンビル>は、映画『ティファニーで朝食を』に登場した図書館として有名だ。図書館は独立法人として、市からの出資と民間からの寄付を財源にNPOによって運営されている。
(*photo by melanzane1013-New York City Public Library front / CC BY-SA2.0)
ニューヨーク公共図書館のさまざまなプログラムと多彩な活動は、日本の図書館のイメージからすると、驚くべきものがある。
ワイズマンは12週間かけて撮影した素材を3時間25分の作品に編集して、この図書館の現実と本質をじっくりと映し出す。
本館(人文社会科学研究図書館)では、リチャード・ドーキンスやエルビス・コステロやパティ・スミスなどビッグネームの著者やアーティストによるライブやトークショーが開催され、黒人文化研究図書館では、”ブラック・イマジネーション”と題された美術展が開かれ、舞台芸術図書館では、アーティストなどのパフォーマンスが披露される。
注目すべきは、こうした4つの研究図書館によるプログラムにもまして、地域分館で日常的に行われている地域コミュニティに密着したさまざまな活動だ。
パソコン講座、英語教室、読書会、子供の放課後の学習プログラム、子供向けロボット工作教室、シアニダンス教室、読み聞かせ会、演奏会など、地域分館では、民間顔負けの地域密着の多彩な催しが行われる。
ブロンクスの分館での就職フェアでは、求人側から具体的な人材募集やコンサルタントによる面接や履歴書の書き方のアドバイスがなされ、チャイナタウンの分館では、中国系住民のためのパソコン講座が開かれ、ハーレムの分館では、障害者向けに公共住宅への申し込みの案内や優遇住宅の紹介、自宅にネット環境がない人に向けたネット接続機器の貸し出しなど、一般の行政サービスを凌駕するレベルのきめ細かい支援プログラムが数多く用意されている。これらのプログラムへの参加は原則無料である。
日本における図書館のイメージは、本が無料で借りられる施設、自習の場所がある施設、専門的な司書サービスなど、せいぜいそんなところだろう。
こうした一般的な図書館サービスに加え、子供、障害者、低所得者、高齢者、移民、マイノリティなど、社会的に弱い立場の人びとやそういう人びとが多く居住する地域に対しての包摂的なプログラムが用意されているのが、この図書館の大きな特徴と個性だ。
(*photo by Diliff - NYC Public Library Research Room / CC BY2.5)
本作の原題は、Ex Libris – The New York Public Library というものだ。邦題の「公共」はPublicの訳語として充てられる。
オックスフォード現代英英辞典(第7版)によると、Public(形容詞)の意味としては、上から順に、Of ordinary people、For evryone、Of governmentと記されている。
また、Public(名詞)は、ラテン語のpopulus(=people)からpublicus(国民)に派生した言葉が語源になっている(森住衛「単語の文化的意味」@三省堂のwebコラム参照)。
これらから考えると、パブリックPublicとは、第一義に、「人びと」や「人びとの」という意味であることがわかる。
ニューヨーク公共図書館の「公共図書館」とは、「人びと」のための図書館という意味なのだ。日本の図書館からは想像もつかない、この図書館の多彩な活動の根底にあるのが、この「人びと」のための図書館という理念なのだ。
図書館の幹部の奮闘も映像に登場する。幹部は、民間からの寄付集めに奔走し、市との予算折衝の戦略を練り、行政との関係づくりに腐心し、ホームレスにどう対処すべきかに頭を悩まし、限られた予算でどんな図書を入手するかを議論し、地域分館に足を運んで住民の生の声を聴き、点字本や録音本を充実させる地道な活動を続ける。
翻って日本の場合はどうだろう。
日本において、公共施設や公共事業と言った場合の「公共」という言葉は、国や県や都といった行政を意味する。日本語で「公共」という言葉は、第一義に、「公(おおやけ)の」ということを意味している。「公(おおやけ)」とは「大きな家」という意が転じ、天皇や朝廷、現代では政府や行政を意味するようになった言葉であり、公権力であり、「お上」というニュアンスの言葉だ。
日本語では公共図書館とは、公立図書館のことであり、「公(おおやけ)」が設立し管理運営する図書館を意味し、そこには「人びと」のため図書館という概念は希薄だ。
この映画はPublicが「人びと」を意味する国と、「お上」を意味する国の違いを改めて認識させてくれる。彼我の差の本質は、ここに由来しており、運営主体や寄付の多寡が本質ではないことがわかる。
映画は、このpublic 「人びと」のための図書館という、ニューヨーク公共図書館のさまざまな活動を描きながら、同時に、アメリカの民主主義の歴史と現実を浮かび上がらせる。
舞台芸術図書館で劇場の手話通訳のパフォーマンスの題材として、トマス・ジェファーソンらが起草者となった、アメリカ独立宣言(1776年7月4日)の「基本的人権と革命権に関する前文」の一説が取り上げられる。
そこには、人は生まれながらにして平等で、政府とは人びとの権利の確保のために樹立されるものであり、政府がその目的に反した場合、人民は革命によって刷新する権利を有する、という主旨のことが謳われている。
さりげなく付け加えられるのが、実は、この独立宣言には、当初は英国における奴隷貿易を非難する文言が入っていたが、南部地域への配慮から、最終的には削除されたという事実。ニューヨーク公共図書館には、ジェファーソンが手書きしたこの当初の草稿が所蔵されているという。
グリニッチ・ヴィレッジの分館では、ある女性による、南部主義者ジョージ・フィッツヒュー、リンカーン、そしてカール・マルクスの意見を紹介しながら、アメリカのおける奴隷制を考えるレクチャーが開かれている。
マルクスは、北部(合衆国)が勝利し、リンカーンが大統領に再選された際に送った祝辞のなかで次のように書き記している。
「ヨーロッパの労働者は、アメリカの独立戦争が、中間階級(ブルジョアジー)の権力を伸長する新しい時代を開いたように、アメリカの奴隷制反対戦争が労働者階級の権力を伸長する新しい時代をひらくであろうと確信しています」
リンカーンとマルクスの一瞬の交差。しかしながら、その後の世界の歴史は、およそ平坦なものではなかったことをわれわれは知ってる。
はたして、ゲティスバーグ国立戦没者墓地開所式(1863年11月19日)でのリンカーンの演説における有名なフレーズ、”government of the people, by the people, for the people” のpeople(人民、人びと)には、そもそもアフリカ系アメリカ人やアメリカ先住民は含まれていたのだろうか。観る者の内部で、じわじわとそんな疑問が湧き上がってくる。
ハーレムのマーコムズ・ブリッジ分館では黒人文化研究図書館の館長が、地域に住むアフリカ系住民たちの抱える問題に耳を傾けている。黒人は移民としてアメリカにやってきたと説明されている教科書がいまだに存在していることや白人相手と黒人相手では商品の卸値が異なり、黒人商店主は同胞に高値で売らないと商売が成り立たない実態などが淡々と訴えられる。
黒人文化研究図書館が新たに蔵書に加えた、アメリカで初めて本を出版した黒人女性詩人のことが詳細に説明される委員会報告の模様が映され、ピューリッツァーを受賞した詩人のユーセフ・コマンヤーカや注目の若手作家タナハシ・コーツなど黒人文学者を迎えてのトークイベントの様子の映像が挿入される。
平等を謳い旧大陸から独立したアメリカ、独立宣言において人民という概念から事実上排除された黒人、奴隷制をめぐるリンカーンの理想とマルクスの洞察、ハーレムの分館で語られる今のアフリカ系アメリカ人の暮らしの現実、こうした映像から浮かび上がってくるのは、アメリカにおいてpublic 「人びと」とは誰のことなのかをめぐる歴史だ。
public 「人びと」とは誰のことなのか?その定義は今も揺れ続けている。ニューヨーク公共図書館のさまざまな活動は、アメリカにおけるPublic 「人びと」とは一体、誰のことなのか確認し、アメリカに包摂する実践であることを、この映画は物語っている。
そうしたPublic 「人びと」をめぐる歴史と現実を忘れないことが、アメリカのあるべき民主主義であるという、フレデリック・ワイズマンの主張が見えてくる。
(★)参考文献等 :
菅谷明子『未来をつくる図書館』(岩波新書 2013年)
大場正明 映画の境界線 「アメリカ文明の小宇宙としての図書館 『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』」@Newsweek日本版website
*初出:zeitgeist site
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日本で初めての鉄筋コンクリート造の集合住宅は、1916年(大正5年)に作られた軍艦島30号棟だと言われています。軍艦島(端島)は長崎県にある三菱の炭鉱採掘の島だったところであり、30号棟はそこで働く労働者のための住宅として作られました。
世界で最初のコンクリート集合住宅は、オーギュスト・ペレによる1903年のパリのフランクリン通りの集合住宅です。ペレは当時の新素材だったコンクリートに世界で最初に注目した建築家であり、「コンクリートの父」と呼ばれている建築家です。
ペレの事務所には、若き日のル・コルビュジェや日本においてアントニン・レーモンドと共同で聖路加国際病院などを設計したベドジフ・フォイエルシュタインらが在籍しており、ペレは世界のモダニズム建築に大きな影響を与えました。
コンクリートの集合住宅は20世紀初頭に出現し、まさに20世紀が生んだ建築といえます。今の日本のマンションのルーツも、この20世紀はじめのコンクリートの集合住宅にあります。
日本における鉄筋コンクリート造の集合住宅について、その100年の歴史を展示するのがUR都市機構の集合住宅歴史館です。すでに取り壊されてしまった歴史的な集合住宅が移築・復元(部分)されています。
八王子の集合住宅歴史館を訪ね、日本のマンションのルーツを体験してみました。
関東大震災(1923年・大正12年)からの復興を目的に、その翌年に設立されたのが同潤会です。都市の防災・不燃化の推進の一環として多くの鉄筋コンクリート造集合住宅が作られました。
代官山アパートは同潤会による鉄筋コンクリート造集合住宅の3番目の計画として1927年(昭和2年)に建設された、日本における最初期の都市型集合住宅です。敷地面積5,967坪、総戸数337戸(内単身者用94戸)の規模は、同潤会のアパートメントでは最大です。
代官山アパートは1996年に解体され、その跡にできたのが今の代官山アドレスです。蔦が絡まる古色を帯びた低層の住棟が、緩やかな斜面に建ち並んだ、日本ばなれした往時の風景を、記憶にとどめているひとも多いのではないでしょうか。
同潤会のアパートメントは防災・不燃化だけを主眼に作られたわけではありません。
第一次大戦(1914-1918)後のヨーロッパでは、産業革命以降の都市化の波にますます拍車がかかり、都市労働者のための住宅不足が社会問題となっていました。
同時に1920年代は、産業社会、工業社会における芸術やデザインのあり方が模索された時代でした。
安易な工業製品に対する異議申し立てから始まったイギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動、それに刺激されるかたちで誕生したドイツ工作連盟(1906)、そこからはその後のモダンデザインを牽引したバウハウス(1919)が生まれました。建築におけるモダニズム運動の母体となったCIAM(近代建築国際会議)が開催されたのが1928年でした。
ル・コルビュジエは当時の住宅事情を「太陽も?空も?もなく、窓なしの閉ざされた、まさに生き続ける墳墓というべきなかで33㎡に10人家族で住むような状況」と告発しました(『人間の家』、1942年)。
そのコルビュジエも参画したCIAMの第2回目(1929)の議題は、まさに「生活最小限住宅」というものでした。
日本で同潤会が誕生した時代は、世界で建築、そしてハウジング(住宅供給)におけるモダニズム運動が勃興した時代でした。
ドイツではミース、コルビュジエ、グロピウスらが参画してヴァイゼンホフジードルンク(1927)と呼ばれるモダニズムデザインによる実験集合住宅群が作られ、ウィーンでは「赤いウィーン」の記念碑的作品として有名な社会住宅カール・マルクスホフ(1930)などが作られました。
日本における同潤会による集合住宅は、都市労働者のための理想の住宅を求めるという時代の精神とシンクロして生まれたのでした。
代官山アパートの当時の住所は豊多摩郡渋谷町、計画が始まった時点では東横線はまだ開通しておらず、当時の代官山は民家もまばらな東京のはずれの郊外という位置づけでした。代官山アパートは、東京の郊外の緑の環境のなかに理想の都市住宅を希求して作られました。
山の手らしい緑の丘に、地形の高低差を巧みに生かし多彩なデザインの低層建物が連なる景観。「文化湯」という銭湯があり、単身向け住棟の1階には「代官山食堂」が設けられ、娯楽室などもありました。都市の時代を担う家族持ちから単身者までさまざまな居住者。代官山アパートは都市居住者のための理想的田園コミュニティとして作られました。
1927年(昭和2年)の入居者募集当時の様子がこう残されています。
「今春一月竣工の予定で同潤会が下澁谷代官山に建設中の澁谷アパートメントハウス申込は十一月二十五日から開始したが、大手町の同潤会事務所へは早朝から申込人が殺到して正午までに五百余人、係人が眼を回している。申込は会社員、官吏、学生、商人という順序だが会社員官吏と言った世帯持は申合せた様に三階建ての六畳、四畳半の二室をねらっているがこれが全部で九十六戸あるが四畳半のバルコニー附きと云うので、大人気である。次が学生であるが独身室は押入附寝台、瓦斯充実台(台の上では焼きいももできる)瓦斯水道附で六畳が十円から十二円八畳が十四円で二人まで同居を許し特に独身者の為は食堂や娯楽室の設備があって、下宿に比べると情味もあり非常に経済的であるので女学生や女事務員の申込も大分あったがこれは多数の男の中に女の独身者をおくことは目立って風紀上にも心配だという方針で一々断っていた。係員は『学生の大多数は昼何処かへ勤めて夜学へ通うという人が多い、これは経済関係からで学費の豊かな人の来ない所以でしょう、女の方には気の毒ではありますが、独身の若い方では不安で困まりますので断っています。何分他のアパートと違いまして澁谷は独身者が多いので独身者の室には女の訪問客さえ禁制のことになっています。女の訪問客は社交室で面会するよう、その筋の注意を待つまでもなく厳重にすることになっています』と語った」(『国際建築時論』 昭和2年1月号より 『同潤会のアパートメントとその時代』 佐藤滋他 鹿島出版会 1998年)。
「焼きいももできる」という表現が微笑ましいですね。直火のガスコンロなど一般人にとっては夢の設備だったに違いありません。募集倍率は9.3倍だったそうです。
自由さ、快適さ、モダンなど、新しい都市の暮らしのイメージを前にした当時のひとびとの期待、予感、ワクワク感がストレートに伝わってきます。同時に「当局」をはじめとする、そうした新しいモダンエイジの息吹に乗り切れない守旧層の困惑顔、迷惑顔、老婆心などもうかがえる、時代の証言としてすこぶる貴重なエピソードです。
集合住宅歴史館には「世帯住戸」と「独身住戸」の2つの住戸が展示されています。28㎡の「世帯住戸」、今で言うと6畳と4.5畳の2Kの間取りを体験してみましょう。
こちらが当時としては最新の調理用ガスコンロ、調理台、米びつ、炭びつを備え付けた台所です。
居室に敷かれているのは畳のように見えますが、実はコルク床の上に薄縁(うすべり)と呼ばれる、藺草(いぐさ)で織った筵(むしろ)に布の縁をつけた敷物です。椅子座による洋風の生活が想定されていたというところに、当時の同潤会の先進性が窺えます。
このほかにも水洗便所、暖房用のガス設備、ダストシュート、鏡付洗面所、帽子掛、傘立てなど先端をゆくモダンなライフスタイルを想定した設計がなされていました。
さすがに今見ると部屋は狭いし、土間にすのこをひいた台所は考えられないし、お風呂や冷蔵庫置き場がないことにも耐えられないでしょう。しかしながら、約100年たった今見ても、さほど違和感を感じないのは、虚飾のないシンプルさ、簡素な潔さ、合理が貫かれた気持ちよさなど、現代に通じるモダニズムの価値観が体現されているからでしょう。
さらには100年の時を経たものが醸し出すアンティーク並みの古色を帯びた表情と存在感。マーケティングに基づいたピカピカの商品には決して感じられない、モノそのもの、空間そのものの迫力です。こんなシンプルで趣のあるインテリアの家に住んでみたい、そう感じさせる魅力を有しています。
フランクリン街の集合住宅もヴァイゼンホフジードルンクもカール・マルクスホフも、これらのヨーロッパの集合住宅は21世紀の今日もバリバリの現役です。パリの、ウィーンの、シュトゥットガルトの、それぞれの都市の暮らしの場として、街並みとして、100年の歴史を刻みながら、建ち続けています。
ひるがえってこの日本においてはどうでしょうか。
同時代のヨーロッパの集合住宅が今でも現役として、その歴史的魅力にますます拍車をかけて、世界の人びとを魅了し続けているのとは正反対に、代官山アパートをはじめとする同潤会によって作られた16件の集合住宅は、今の日本には一件も残っていません。
同潤会と同時代に作られたほかの集合住宅もほとんど現存していません。冒頭に挙げた、日本最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅といわれる軍艦島30号だけが廃墟となって長崎の無人島に佇んでいます。
今日における彼我の違いに思い至る時、ここ集合住宅館に移築され、忠実に復元された歴史的集合住宅の遺構が、それがリアルであればあるほど、奇妙な非現実感とある種の残酷さをもって迫ってくるのを禁じることができません。
■UR都市機構 集合住宅歴史館
住所 : 〒192-0032 東京都八王子市石川町2683-3
TEL : 042-644-3751
公開 : 月曜日~金曜日(祝日、年末年始等を除く) 13:30~16:30 無料 事前予約制 ただし2020年2月27日(水)より、現在、臨時休館中
公式サイト
*初出:東京カンテイ「マンションライブラリー」
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「鉄とガラスとコンクリート」。モダニズム建築の代名詞として使われるマテリアルだ。
鉄筋コンクリート造(RC造)の躯体にガラスの窓、あるいは、鉄骨造の構造体をガラスのカーテンウォールが包む、世界の都市はまさに「鉄とガラスとコンクリート」であふれている。
現代建築のイメージを決定づけた、ガラスカーテンウォールによる高層ビルの元祖は、ニューヨークの《国連ビル》(1952年)だ。設計委員会のフランス代表だったル・コルビュジエの案が原案となっている。カーテンウォールには、軽量・堅固で押出成形によりどのような形状も作ることができるアルミが使われている。
(*photo by Steve Cadman - The United Nations Building / CC BY- SA)
同年に同じニューヨークで竣工した《レバー・ハウス》(1952年)では、ステンレスのカーテンウォールが使われていた。設計はインターナショナルスタイルのビルを数多く手がけたシカゴのSOM。
(*photo by David Shankbone - Lever House in New York City / CC BY-SA3.0)
こうしたガラスカーテンウォールの登場により、壁の軽量化が実現し、ガラスの高層ビルが世界中に普及していく。
モダニズム建築のアイコンであり、ガラスのビルの代名詞となっている、ミースの《シーグラムビル》(1958年)では、ブロンズ/ブラス(★)のカーテンウォールが採用されている。
(*photo by Dan DeLuca - seagrams_building-plaza / CC BY2.0)
なぜミースはブロンズ/ブラスを使ったのだろうか?
「ミースはカーテンにピンク・グレイのガラスを使い、それを挟み込むサッシには建築用金属のうち一番貴族的なブロンズを用いている。こうしてボリューム全体は暖かく、落ち着いて、艶消し仕上げの古い硬貨のように輝き、時が過ぎて行けばより確かに、より堅固に気品をただ加えていくのだ」とフランツ・シュルツは記している(『評伝ミース・ファン・デル・ローエ』、澤村明訳、鹿島出版会、2006年)。
合理、無装飾、普遍のインターナショナルスタイルの元祖とされながら、実はミースは、プロポーションに厳しく、気に入った素材に執着し、ディテールに細かくこだわり、自らの美意識を貫き通した建築家でもある。
ミーススタイルの鉄とガラスの建築が、世界にあふれるようになっても、それらはミースのそれとは微妙に、しかし決定的に異なるのは、その美意識と徹底の違いだ。同じ「鉄とガラス」だが、ミースのそれは、「鉄とガラス」の貴族だ。
《シーグラムビル》をはじめ、ミースが手がけた高層ビルのマリオンに必ず設置されていた(構造とは無縁の)I型鋼は、その美意識のひとつであり、ブロンズ/ブラスのカーテンウォールもそのひとつだ。
先行するほかのビルの素材に比べ明らかに高価であること、そして、時とともに気品と威厳を備えた成熟へと至る、ワインや骨董にも似たその特性。ミースがブロンズ/ブラスを選んだ理由はこのあたりにあったのではないか。ミースは贅沢好きで有名だった。
《シーグラムビル》では、外装のカーテンウォールだけではなく、インテリアにおいてもブロンズ/ブラスが印象的に使われている。
《シーグラムビル》にあったレストラン、ザ・フォーシーズンズThe Four Seasons でひと際印象的なのが、ザ・バーのカウンターの上に設けられた、フィリップ・リッポルドによる壮麗なブロンズ/ブラスのオブジェだ。
(*source : wallpaper.com)
数々の伝説に彩られた、ある時代のニューヨークを象徴する、このレストランのことは以前書いた(記事:空間をめぐる権力<前編> ~マーク・ロスコのシーグラム壁画はなぜザ・フォーシーズンズに飾られなかったのか~参照)。
ザ・フォーシーズンズが、新たなビルオーナーが賃貸契約を終了させたために、2016年にクローズになり、調度品などがオークションに掛けられ、その閉店を惜しむ声がニューヨーカーの間で上がったことも先の記事で記した。ちなみに《シーグラムビル》とともにこのレストランは、ニューヨークの国家歴史登録財の指定を受けている。
その跡のフロアの去就が注目されていたが、《シーグラムビル》の新オーナーのアビー・ローゼンの手によって、新たなレストラン(ザ・グリルと呼ばれている)として生まれ変わったことが、wallpaperのサイト(2017年4月27日付のアロン・ピーズリー Aaron Peasleyの記事)で紹介されている。
すでに世界の古典となっている建築空間を改造する気はなかった、との言葉の通り、アビー・ローゼンは、かつてのフィリップ・ジョンソンによるザ・フォーシーズンズのインテリアを最大限尊重したリノベーションにより、このニューヨークの伝説的レストランをよみがえらせた。
ザ・バーもフィリップ・リッポルドのブロンズ/ブラスのオブジェもそのまま健在であり、そこで使われたていたミースのスツールもKnollによって新たに作られたものが置かれ、同様にダイニングで使われていたミースのブルーノチェアは、オリジナルのステンレスのフラットバーにブロンズ/ブラスが施された黄金のチェアとして復活している。
(*source : wallpaper.com)
この新たによみがえったレストランは、ニューヨーカーからの評判も上々だそうで、アビー・ローゼンとは宿敵として伝えられている、かつてのビル建設者一族であり、ミースに設計の白羽の矢を立てた人物であり、ザ・フォーシーズンズのファウンダーの一人でもある、アメリカ建築界の大御所フィリス・ランバートですら、90歳の誕生日をこのレストランで祝ったそうだ。
ちなみに2018年に移転・再開したザ・フォーシーズンズの方は、残念ながら本年(2019年)6月11日で閉店している。
近年では、これまで金属と言えばシルバー色一辺倒だった、シンプルさを誇るモダンファニチャーや北欧デザインの世界においても、温かみのある色、どこか懐かしい渋い光沢、華やかな黄金の輝きなどを表現した、コンパー(銅)や銅合金の家具や照明が登場している。
同時に、コッパー(銅)は、そして銅の合金であるブラスやブロンズは、時間とともにその色、光沢、輝きなどが変化するのところが、アルミやステンレスとは大きく異なる特徴である。
わたしたちが知っているニューヨークのリバティ島にある自由の女神は緑色だが、フランスから送られたばかりの頃は、銅そのままの赤っぽい金属色だった。現在の緑色の外観は、経年変化によって外装の銅に緑青が生じたものだ。
フランク・ロイド・ライトは、屋根材やステンドグラスの枠や照明器具などに銅を好んで使った。自然のなかの建築、有機的建築を志向したライトは、時間とともに変化する銅の特性に、自らの建築哲学を体現するものを見出していたのだろう。
近年では、ヘルツォーグ&ド・ムーロンの手によるサンフランシスコの《デ・ヤング美術館》(2005年リニューアルオープン)の外装にエンボス加工や穴あき加工がなされた銅板が大々的に使われている。こちらも経年によって自然に色や表情が変化し、周囲の緑に馴染んでゆく、自然に溶け込む建築が意図されている。
(*source : zenandtheartoftravel.com)
最近の建築では、退色や錆びや劣化を理由に、鉄すらも嫌われ、いつまでも変わらないこと、手がかからないこと、永遠に新しいことを売りにする建築ばかりが席捲する世の中だ。
だがこうとも言える。永遠の新しさとは、時のもたらす豊饒さを忘れた、永遠の退屈の別名でもあると。
(★)一般に日本語ではブロンズ(青銅)とは、銅と錫の合金で、ブラス(真鍮)とは銅と亜鉛の合金のことを指す。ブラスの中でも、亜鉛の含有率大きいものが黄銅(真鍮)と呼ばれ、亜鉛の含有率の小さいものは丹銅と呼ばれる。建築材料においは、銅合金全般をブロンズ(押出ブロンズ)と呼ぶことが多く、建築でブロンズという場合はこの丹銅のことを指している。シーグラムビルで使われたブロンズも、この丹銅のことだと思われる。内田祥哉は、アメリカの建築界においては、ブロンズとブラスは必ずしも区別されておらず、《シーグラムビル》に使われたブロンズとは、押し出し成型が可能な銅と亜鉛の合金のことだと述べている(『内田祥哉 窓と建築ゼミナール』、鹿島出版会、2017年)。本文では上記を踏まえ「ブロンズ/ブラス」と表記した。
*初出:zeitgeist site
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