世界的な金融危機が引き起こされているなか岩井克人の『貨幣論』(筑摩書房)を再読してみた。
貨幣が貨幣として価値を持つのは、金貨や兌換貨幣時代の貨幣そのものがモノとして価値があるからでもなく、また王や国家が単なる紙切れを貨幣として通用するように定めたからでもなく、貨幣を受け取る人がそれを貨幣として認め、さらにその人から貨幣を受け取る次の人がまたそれを貨幣として認め、さらに・・・・・という流通の連鎖が無限に続いているから。
貨幣が価値を持つのは、その貨幣を他人が受け取るからという事実以外に根拠はないという、このシンプルな論理はシンプルゆえにぞっとするほど怖い。
これに従うと、貨幣とは他人の欲望に依存しながら単なる紙切れに飛躍的な価値を付与する錬金術的な仕組みであり、そういえば、今回の金融危機の発端となったアメリカにおけるサブプライムローンを証券化する手法も他人の欲望の連鎖に依存した錬金術の一種のようにみえてきてしまう。
その錬金術がつまづいた原因は、サブプライムローンの仕組みを聞けば聞くほど、崩壊すべくして崩壊したとしかいいようがない単純極まりない話のようだ。
とはいえ、1980年代後半に始まり1990年に崩壊した日本のバブルを振り返ってみても、今から思えば悪い冗談にしか思えない首都圏の不動産に対する誇大妄想的な期待に端を発して、値上がり目的の土地転売が繰り返され、日本中に拡大した挙句の崩壊であり、今回の金融危機のばかばかしいほど単純な原因を他人ごと笑うことはできない。
人類は貨幣を持って以来、他人の欲望に依存した信用の仕組みをあの手この手で開発し、最終決済を無限に先送りし続けたいという夢を追い求めているというわけである。
2度あることは3度ある。人類にとって貨幣の錬金術の魅力は抗し難いものなのであろう。
『貨幣論』では商品の価値を支えているのもまた、他人の欲望であるとされる。
売るという行為は、自分の持っている商品を相手の持つ同等の価値の貨幣(または商品)と交換することであり、買うという行為は、自分の持っている貨幣(または商品)を相手の持つ同等の価値の商品と交換する行為である。
商品の価値は他人との売買(交換)によって初めて決まる。
「商品になるためには、生産物は、それが使用価値として役だつ他人の手に交換によって移されなければならない。」(カール・マルクス『資本論』)というわけである。
ただし、『貨幣論』においては、貨幣と商品の違いは、「たしかに商品の価値を支えているのは他人の欲望であるが、その他人にとってはその欲望は自分の欲望なの」であり、「これにたいして、貨幣のばあいは、(中略)貨幣の価値を支える欲望じたいが、べつの他人の欲望の媒介としてしか意味をもっていない」のであり、そこが、商品と貨幣の本質的な違いであるとし、労働価値説に捕らわれた結果、貨幣=商品という認識を超えられなかったマルクスの価値形態論が落ちいった陥穽が明らかにされる。
だが、はたして、貨幣と引き換えに商品を手に入れた買手にとって、本当に「その欲望は自分の欲望なので」あろうか。
自己完結する動物的な「欲求」に加え、他者の認証を必要とする「欲望」を有するのが人間であり、その人間こそが、他人が認めるモノのみに価値があるという交換という行為を発見したのであり、さらに、貨幣という錬金術を編み出したのであるとすると、そもそも貨幣はもとより商品も含めたモノ自体に対する自らの欲望そのものの起源には他人の欲望があるということになる。
好感度タレントやオピニオンリーダーが語りかけるテレビCM、数々の雑誌で展開されるお墨付きを与えるような啓蒙的な言説、毎年の空気を読むことを至上命題として強制するモードのエクリチュール、その歴史性や堅牢性を理由にしながら実は他人へのプレゼンスの高さが目的でついついブランド商品に手を伸ばしてしまうメンタリティ、メディアで紹介されたとたんにそこここから現れる賞賛や支持の表明などなど、「欲望は他者の欲望である」という事例は枚挙にいとまがないように思える。
それほど、人間の自己は不安で他者のまなざしを必要とするものらしい。そして、最後は、無限の他者やあるいは不在の他者の欲望を欲望するという、いってみれば、決して満たされることはない欲望を欲望するという深い矛盾に行き着いてしまう。
欲望が満たされないのではなく、決して満たされないものこそが欲望なのである。
コミュニケーションへの過度な期待や依存、その結果の自己不信や社会不信に起因する昨今の出来事を目にするたびに、満たされない欲望を欲望してしまうという我々の存在のありかたをみせつけられている気がしてならない。
はたして、そこから抜け出す手はあるのだろうか?
ショーン・ペン監督による実話にもとづく映画『イントゥ・ザ・ワイルド』の主人公クリストファー・マッカンドランの行動は、その点、象徴的だ。
大学を優秀な成績で卒業した22歳の彼は、彼を取り巻く人間関係や消費文明に背を向け、すべてを捨てて放浪の旅に出る。その際彼は、肉親はもとより、心がかよっている他人とのコミュニケーションも完全に絶つとともに、手持ちの紙幣をも焼却して旅立つ。
他者と貨幣との関係を断ち切り、孤独な旅に求めたものは、無限に先送りされる満たされることのない欲望からの離脱だったのか。映画では主人公の放浪の旅がアメリカ大陸の雄大な自然の風景とともに描かれる。
クリストファー・マッカンドランのアラスカの荒野での不慮の最後は不幸だったのか?幸福だったのか?
人類が貨幣から逃れる方法はまだみつかっていない。
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