わたしたちは都市や街のイメージと生きている
都市や街を物理的な空間としてだけとらえるのは大きな間違いだ。わたしたちは都市や街をイメージとしてとらえ、そのイメージとともに生きている。
したがって都市や街は、目の前の物理的な空間やモノであると同時に、過去の記憶のなかの都市や街であり、さらには、言葉によって獲得された都市や街である。
今はかつてと重なり、ここはどこかとオーバーラップする。慣れ親しんだ今やここは、まったく異なる時空へとつながっているのだ。
飯倉 ―― いいぐら、あるいはいいくら ――はどこからも遠く、人通りもまばらな街はずれの場所。静寂さと陰影をたたえた深い谷や切り立った崖や急な坂にまわりを囲まれ、そしてその先にはかつて海が広がっていた。
飯倉。岬というイメージの街。
そこは70年代から80年代初めにかけて、ファッションの最先端という岬でもあった。
くろすとしゆきの「クロス・アンド・サイモン」
「クロス・アンド・サイモン」は、日本におけるアイビーの伝道師くろすとしゆきが、VANを退社して作ったオーダー中心のメンズ・ショップだ。
飯倉片町の交差点をひっきりなしに行き交う車の騒音。それとは正反対に息苦しいような地下道の静けさと人工照明。その地下道を出たすぐのところに「クロス・アンド・サイモン」はあった。
■「クロス・アンド・サイモン」の跡地
道路から少し高くなったガラス張りのファサードは、全面ショーウインドウを思わせた。階段を少し上ってドアを開けると、こじんまりした空間には親密は雰囲気が漂っていた。大学に入ったばかりの身分ではスーツのオーダーなどはできるはずもなく、並べられた数少ない既製品のなかから、ボタンダウンのシャツなどを買った。
「クロス・アンド・サイモン」は、アメリカントラッドをベースにしながらVANなどの量産品にはない、こだわった素材、ていねいなディテール、縫製の良さが魅力だった。例えば、生地を手で折って作られた故のものだと説明された、きれいな鋭角をなしたシャツの襟先などに見惚れた。
「ザ・ハウス・オブ・アルファ・キュービック」
70年代の飯倉をファッションゾーンとしていた中心はといえば、間違いなく「ザ・ハウス・オブ・アルファキュービック」だ。レノマで一世を風靡したアルファ・キュービックが1974年にロシア大使館の前にオープンさせたブティックだ。
■「ザ・ハウス・オブ・アルファ・キュービック」があった建物
アルファ・キュービックの創業者・柴田良三は、1970年にサンローラン・リヴ・ゴーシュを日本で開店させるなど、日本におけるヨーロッパファッション黎明期の立役者だ。アルマーニのコレクションを最初に紹介したのも「ザ・ハウス・オブ・アルファ・キュービック」だった。
マジストレッティがデザインした全面黒のガラス張りの偕成ビルの地下1階と1階を占めていた。外苑東通りに面した1階にはガラス張りの温室が張り出しカフェが設けられていた。その奥に広がるフロアは、上品なベージュの絨毯が敷かれ、照明が落とされ、外苑東通りの喧騒が嘘のように静かだった。混んでいることなど決してなかったカフェで過ごすひと時は、優雅で贅沢な感じがした。
くろすとしゆきも柴田良三もVAN(ヴァンジャケット)の出身だ。VANの創業者・石津謙介は、柴田がサンローランを手がける際も支援している。石津謙介はアイビーを日本に紹介しただけではなく、日本のファンション・ネットワークの起点にあたるような存在だった。
彼らが、その店の立地として飯倉を選んだ理由は想像に難くない。不便な、街はずれの、人通りが少ない、急ながけや坂道で周りから隔絶されたような、そんな孤高の岬のような場所が、むしろ知る人ぞ知るというショップのイメージやコンセプトにふさわしかったのだ。
そういばビエラの生地屋から出発し、ジョルジオ・アルマーニの才能を見出したニノ・セルッティのコレクション「CERRUTI 1881」の日本でのショップも、ここ飯倉からスタートしたはずだ。
「キャンティ飯倉片町本店」
そんな孤高の飯倉を選び、ほかのどの場所とも似ていない独自のイメージを創ったのは、間違いなく1960年に開店した「キャンティ飯倉片町本店」だ。
■「キャンティ飯倉片町本店」(「アル・キャフェ・キャンティ」の入り口)
「キャンティ」は60年代から70年代にかけて、日本唯一のサロン空間として存在したレストランだった。オーナー川添浩史・梶子夫妻を慕って、この小さなイタリアン・レストランに内外の作家、音楽家、芸術家、芸能界などの綺羅星のような人々が集った。
イヴ・サンローラン、フランク・シナトラ、マーロン・ブランドが訪れ、三島由紀夫、黛敏郎、勅使河原宏が常連で、福澤幸雄、村井邦彦、ミッキー・カーティス、かまやつひろし、田辺昭知、加賀まりこ、安井かずみらが夜な夜な集まった。石津謙介も常連だった。
かねてから知己だったサンローランを柴田良三に紹介して、アルファ・キュービックの立ち上げに手を貸したのもタンタンこと川添梶子だった。
そんな「キャンティ」伝説のことなどつゆしらず、中学生の頃、僕は「キャンティ」名物のスパゲッティ・バジリコを食べていた。1973年のことだ。
僕が生まれた山形市にあった「丸久(まるきゅう)」という地元のデパートは、1971年に松坂屋と提携し、1973年には名前も「丸久松坂屋」となり、新たな店舗に移った。そこに「カフェ・ド・パリ」という名のカフェレストランがあった。そこを運営していたのが「キャンティ」であり、そこは実質「キャンティ」の支店のような存在だった。
「キャンティ」を気に入っていた当時の松坂屋の社長が、川添浩史の死後(1970年)、店を継いだ次男の光男を応援し「キャンティ」は全国の松坂屋に支店展開したのだった。安い家賃での全国展開はその後の「キャンティ」の安定した収益源になったそうだ。
仔牛のカツレツミラノ風だったか、オーソブッコだったかのブラウンのソースとそこに添えられた緑の葉っぱのスパゲッティ。白い皿の上に広がった鮮やかなオレンジと薄いグリーンのオイルの対比が美しかった。今まで食べたものとは全く似ていない味、油までが美味しい、その料理に驚き、それがイタリア料理というものであることを初めて知った。
そのとき食べたのが、飯倉の「キャンティ」のスパゲッティ・バジリコ(とたぶん同じ)だったことは、ずっと後になって知った。
■スパゲッティ・バジリコ・キャンティ風
岬のような場所だった飯倉周辺にも、開発の波が押し寄せる。きっかけは、2000年に地下鉄南北線が開通し、「六本木一丁目」という駅ができ、利便性が上り、不動産マーケットでの価値が上がったことだ。周辺では泉ガーデンを皮切りに大規模開発が始まる。
現在、飯倉片町と呼ばれていた場所の外苑東通りを挟んだ北側では「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」が施工中だ。麻布台一丁目は六本木一丁目や虎ノ門五丁目と一続きとなり、3本のタワーが建ち、「六本木一丁目」駅は日比谷線「神谷町」駅と地下で結ばれるのだそうだ。
かつての穏やかで静かな日常が息づいていた我善坊の谷は埋められ、外苑東通り沿いの郵政省飯倉分館があった場所には地上64階建ての大規模なタワーが聳え立ち、岬のような飯倉も変わるだろう。
現実の都市が変わっても、現実の街が失われても、イメージの都市とイメージの街は健在だ。記憶は飛翔し、相互につながり、視覚や聴覚はもちろん、味覚や嗅覚においてもますます鮮やかに蘇り、リアルな感触のイメージの都市、イメージの街が現れる。
(★)Top画像は飯倉片町の坂下(麻布台三丁目)にある、上品なスパニッシュ・スタイルがなんともいい佇まいの「和朗フラット」。1936年(昭和11年)竣工。築80年を超えて集合住宅が現役で在り続けているのは日本においては真に奇跡的なこと。戦前のモダニズムの理想を今に伝える至宝だ。
(★)最後の画像は、「キャンティ」のレシピで作ったスパゲッティ・バジリコ。生のバジルが入手できなかった時代に乾燥バジル、大葉、パセリを使って開発されたレシピ。オイルもオリーブオイルではなくサラダオイルとバターを使う。
(★)参考文献
柴田良三 『ALPHA CUBIC 佳き日、良き人、そして、あなたに』 マガジンハウス 2011年
野地秩嘉 『キャンティ物語』 幻冬舎文庫 1997年
*初出:東京カンテイ「マンションライブラリー」
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