「私は建築家になろうと思ったのです」。夏目漱石の言葉だ。
大正3年(1914年)東京高等工業学校(現在の東京工業大学の前身)での講演で漱石は続けてこう言っている。
「まだ子供のとき、財産がなかったので、一人で食わなければならないという事は知っていました。忙がしくなく時間づくめでなくて飯が食えるという事について非常に考えました。しかし立派な技術を持ってさえいれば、変人でも頑固でも人が頼むだろうと思いました。佐々木東洋という医者があります。この医者が大へんな変人で、患者をまるで玩具か人形のように扱う、愛嬌のない人です。それではやらないかといえば不思議なほどはやって、門前市をなす有様です。あんな無愛想な人があれだけはやるのはやはり技術があるからだと思いました。それだから建築家になったら、私も門前市をなすだろうと思いました。丁度それは高等学校時分の事で、親友に米山保三郎という人があって、この人は夭折しましたが、この人が私に説諭しました。セント・ポールズのような家は我国にははやらない。下らない家を建てるより文学者になれといいました。当人が文学者になれといったのはよほどの自信があったからでしょう。私はそれで建築家になる事をふっつり思い止まりました。私の考は金をとって、門前市をなして、頑固で、変人で、というのでしたけれども、米山は私よりは大変えらいような気がした。二人くらべると私が如何にも小(ちっ)ぽけなように思われたので、今までの考(かんがえ)をやめてしまったのです。そして文学者になりました。その結果は――分りません。恐らく死ぬまで分らないでしょう」
「変人」を自任する人間が「変人」のままで食べていくために「腕」(技術)を身に付けよう、そう漱石は思っていた。
その「腕」(技術)として建築を選んだ理由を、漱石はこう説明する。
「それと元来僕は美術的なことが好(すき)であるから、実用と共に建築を美術的にして見ようと思ったのが、もう一つの理由であった」(『落第』、明治39年(1906年))
東西の美術に造詣が深く、自らも南画山水(文人画)を能くした漱石らしく、建築に実用と美術(芸術)の2面性を見ている。
早稲田南町の夏目漱石居宅跡地に昨年(2017年)オープンした新宿区立漱石山房記念館(★1)では、漱石の書斎が復元されている。書斎は、漱石山房とも呼ばれたこの居宅の中核をなし、懐手をして文机にもたれかかる漱石を撮った写真の場所だ。
(*source:https://www.pinterest.co.uk/pin/748864244258848017/)
夏目漱石は晩年の明治40年(1907年)から亡くなる大正5年(1916年)までこの地に住み、『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』『こヽろ』『道草』、そして絶筆となった未完の『明暗』など、近代日本文学の傑作の数々はここで書かれている。
再現展示されている漱石の書斎は、広さ10畳の板敷きの部屋で、手前に同じ板張りの10畳の部屋が連続しており、こちらは畳が敷かれ弟子たちや来客が座る客間として使われていた。
部屋の寸法や内装はもちろん、書籍、書画、さまざまな調度品、愛用のオノトの万年筆などの小物まで、漱石が使っていた当時の空間が細部に至るまで忠実に再現されている(★2)。
板敷きの床、天井が高く(天井高3,100mm)縦に伸びる空間のプロポーション、白い壁と白い天井と白いドア、縦長のガラスの腰窓。当時の日本家屋とは全く印象を異にする空間だ。
いくつかの木製の書棚が置かれ、オリジナルの書画が掛けられ、床には赤いペルシャ絨毯が敷かれ、その上には小ぶりの紫檀の文机、格子柄の座布団、白磁の火鉢などが置かれている。高い天井からは簡素なペンダントが下げられ、よく見ると壁には銀杏鶴の文様のクロスが張られている。本棚いっぱいに詰められた書籍と整然と床に積み上げられた書籍の山々がこの稀有な主の職業を物語っている。
漱石自身も、当時の弟子たちも、この書斎を「伽藍(がらん)」と呼んでいた。伽藍とはもともとは、僧が集まり修行、瞑想する場所のことを指している。板敷きの床、高い天井、中国由来の書画や調度、壁が多く薄暗さが漂う空間の印象をそう表現したのだろう。
書斎と客間の外側の三方には、白い木の手摺がついたベランダのような廊下が回廊のようにまわっている。手摺の上部には、開けたてができるガラスの引き戸が設けられていた。
明治43年(1910年)の修善寺の大患から生還し、死の前年に書き継がれた随想集『硝子戸の中』(大正4年(1915年))のタイトルはここに由来している。『硝子戸の中』では、漱石がひとり山房の硝子戸の中にじっと座って、心をながめ、考えをめぐらし、さまざまな瞑想・内省にふける描写が頻繁に登場する。
当時としては(あるいは現代においても)やや風変りな意匠のこの建物は、もともとはアメリカ帰りの医師が建てた家で、書斎の部分は、住居兼診療室として建てられた家の診療室部分だったと言われている。コロニアル様式を思わせる印象はここからきている。
この無国籍風の不思議な居心地の良さに既視感を覚えた。
ウィリアム・モリスは1860年に友人のフィリップ・ウエッブの設計で自邸<レッド・ハウス>を建てる。
(*Photo by Tony Hisgett - Red House2/CC BY 2.0)
モリスはこの自邸のための家具をロンドンで探しまわるなかで、機械生産による安物ばかりになってしまった家具に絶望し、手仕事の復権を決意し「モリス・マーシャル・フォークナー商会」(後の「モリス商会」)を設立し、オリジナルの家具の製作などを始める。後にアーツ・アンド・クラフツ運動と呼ばれる、モダンデザインの源流となるムーブメントが生まれるきっかけになったのがこのゴシック風(中世風)の<レッド・ハウス>だった。
下の写真は<レッド・ハウス>のドローイングルーム(★3)の写真である。
(*source:https://braydentomlinson.wordpress.com/2010/09/19/art-history-william-morris-red-house/)
ペルシャ絨毯が敷かれた飴色の木の床、オリジナルなアート、天井が高い白い空間、小さな窓、木製の本棚、パーソナルな家具、繊細な柄のクロスやファブリック、簡素なペンダント。
漱石山房の書斎とモリスの<レッド・ハウス>のドローイングルームはそっくりではないか。
漱石がロンドンに留学するのは1900年(明治33年)。モリスの死去(1896年)から4年後だ。漱石のロンドン留学日記にはモリスの書籍を購入したこと、モリスと関連が深かったヴィクトリア&アルバート美術館(モリスがインテリアを手掛けたカフェ「グリーン・ダイニングルーム」(今の「モリス・ルーム」がある)へ足を運んだこと、ジョン・ラスキンやロセッティの絵画を観たことなどの記述があり、現在、東北大学図書館に「漱石文庫」として収蔵されている漱石山房の蔵書のなかには複数のモリスの書籍が確認されている。
漱石はモリスの思想や美学、ラファエル前派の美術作品、さらに、建築や美術を志向する漱石は、「モリス商会」による家具やインテリアや建築などにも親しんでいたずだ。
漱石の明晰な頭脳と鋭敏な感覚は、前近代の日本から近代を学ぶ使命を帯びて渡ったイギリスにおいて、近代の具体的成果を見聞すると同時に、近代が新たな悪弊を生み出しつつあるという矛盾をも感得していたに違いない。そして、モリスにおけるゴシック(中世)的世界観や「生活の芸術化」という運動は、そうした近代の悪弊への異議申し立ての一環であることを、正確に理解していたと思われる。
漱石が<レッド・ハウス>を訪れた記録はないし、漱石山房の書斎がモリスの<レッド・ハウス>のドローイングルームを模して作られたとも思えない。
西洋的でもありアジア的・日本的でもある、近代的でもあり中世的(南画的・江戸的)でもある、漱石山房の書斎に漂う不思議な無国籍のイメージとそこからくる親密な居心地の良さは、英文学と漢文学の違いに煩悶し、前近代と近代のはざまで引き裂かれ、生活と芸術の葛藤に最後まで苦悩した、夏目漱石自らが独自に創り上げた「生活の芸術化」の実践であった。
そこには、モダンデザイン誕生の始まりとして記憶されるウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動との正確なシンクロニシティがあったことが直感できる。
(★1)新宿区立漱石記念館/〒162-0043東京都新宿区早稲田南町7/TEL:03-3205-0209/http://soseki-museum.jp/開館時間:10:00-18:00(入館は17:30まで)/休館日:月曜日/観覧料:一般300円、小中学生100円。
(★2)漱石山房の書斎空間は、専門家による考証や漱石の遺愛品を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館、蔵書を「漱石文庫」として所蔵する東北大学附属図書館などの協力を得て再現されている。
(★3)19世紀のイギリスの住宅におけるドローイングルームとは、居間兼応接間、後のリビングルームと呼ばれることになる空間のことである。
*初出:zeitgeist site
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