已む無い事情で鹿児島に赴いた。
空港からのリムジンバスに乗っていると、険しい山谷を縫って走る高速道路を下りて、吉野町の高原を過ぎたあたりから、海に向かって徐々に標高が下がって行くのが分かる。そして、山影が途切れ一瞬だけ視界が開け、錦江湾を挟んで桜島が現れる。
山あいの景色が一瞬にして巨大な活火山と豊かな海と海沿いに張り付いた家々の景色に転じ、「あっ、鹿児島に来た」と思う。
桜島を正面に見ながら錦江湾に向かって傾斜していく山々が海際で辛うじて平地として留まっているところ、そこが鹿児島市街だ。
それはまるで桜島を眺めるために造られた大掛かりな劇場のような街。その余りに出来すぎた風光明媚な眺めを日常の風景とするために、いつも少しばかり時間を要してしまう。
市街地の裏手一体は、たいていは山々に向かう斜面や高台になっており、その日の行き先の病院の裏手も徐々に高台になっている地勢で、そしてその高台に錦江湾を挟んで対岸の桜島と対峙するように南州墓地はあった。
またしても期せずしての西郷南州との出会い。
最初に出会ったのも思いもかけない庄内鶴岡の地であった。南州直筆の「敬天愛人」の書が鹿児島から遥か離れた、しかも今で言う反政府派だった地方の資料館に残されているとは。
それは以下の様な背景に由来していた。
戊辰戦争時の奥州征伐の責任者だったのが西郷隆盛。戊辰戦争三強といわれた庄内藩も明治9年に降伏。戊辰戦争は政府軍によって制圧され、その後明治政府の権力が本格的に確立していく。江戸市中取り締まりの任にあった庄内藩は慶応3年に薩摩屋敷の焼き討ちをした経緯があるほどの佐幕藩。ところが降伏したこの庄内藩に対して西郷は極めて寛大な処置で臨んだという。後日このことを知った庄内藩主酒井忠篤は感激し、薩摩藩主島津忠義と西郷に親書を送り、その後、庄内藩は数々の人材を薩摩藩に送り、西郷本人からの薫陶を得たという。西南戦争後、西郷の賊名が解けた明治23年、庄内藩は西郷に接した面々が記録していた内容を基に、西郷の言葉を残したものとしては唯一とでもいうべき『西郷南州翁遺訓』を刊行している。
石段を登り高台の墓地に立ち、背後を振り返ると桜島の姿がくっきりと現れる。西南戦争に敗れた2,023名の将兵の墓碑は桜島と対峙して整然と並んでいた。
その日の南州墓地は、江藤淳が『南州残影』で書いたような「今にものっしのっしと進軍を開始しそうな」というよりは、もう少し穏やかな、しかしながら無比の禍々しさをも湛えて青空のもと静まり返っていた。
西郷隆盛、篠原国幹、桐野利秋をはじめ、庄内藩からの戦死者、伴兼之(18歳)、榊原政治(18歳)などの墓標をも巡りながら、西郷南州という謎を考えていた。
福澤諭吉は西南戦争と同年(明治10年)に『丁丑公論』を書き西郷を擁護している。
外国事情や語学に明るいとして一時は幕臣に登用されながら、すぐに幕府に幻滅し暇乞いをし、とはいえ新政府にも全く期待せず、その後は在野の論客として、近代化と西洋化を主張し続けた福澤が故郷の青年不満武士にほだされて反乱を起こしたといわた西郷を擁護しているとは意外な感がするが、幕府はもちろん新政府をも当てにせず、常に社会に対する批判的立場と個人の独立独歩を希求した福澤ゆえに、表層的な文明開化が席捲するなか急速に失われつつあった抵抗精神を西郷に見ていたともいえる。
この書の結語の「然らば即ち政府は啻に彼(西郷)を死地に陥れたるのみに非ず、また、従ってこれを殺したる者というべし。西郷は天下の人物なり。日本狭ましといえども、国法巌なりといえども、豈一人を容るるに余地なからんや。」との文章に、福澤の感じた生硬な政府の態度へのいらだちと士風が滅してしまったことへの無念さが滲み出ている。
福澤はその14年後の明治24年に『痩我慢の説』を著し、江戸幕臣にありながら早々と徳川に引導を渡し、その後は明治政府に役職を得て生涯を遂げた勝海舟の身の処し方を「日本武士の気風を傷うたる」あるまじき朝礼暮改的出所進退だとして批判し、直接、勝本人に送りつけている。
この著書は、勝海舟とは咸臨丸に同船し渡米した万延元年以来そりが合わなかったといわれ、物事をはっきりさせないと済まない福澤の性格が良く出ている、いわば内角ぎりぎりの直球ボール玉のような著書だが、これに対する勝自身の返答の書が、先日の国立博物館での福澤諭吉展に出展されていた。こちらの方もこれまた勝海舟らしい、デッドボールまがいのボール玉を飄々としてファールにして泰然として自若な様子が伺える痛快な返答だった。
西郷その人との談判により江戸無血開城を成し遂げた勝海舟もまた、西郷が西南戦争に敗れた後、さまざまなかたちで西郷南州を追慕していたという。
墓所の手前に石段を登りきったところが平地になっており、そこには勝海舟書の碑がある。
「ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがまにまに 果てし君かな」
そうなのかもしれない。だが本当にそれだけなのだろうか。
政治的成功者の「勝海舟が、政治的人間としては大失敗者ともいうべき西郷南州を、却って追慕してやまなかったのは、どういうわけか。」という疑問から、江藤淳の『南州残影』は書き始められる。
それは、「西郷と私学校党の面々がことごとく滅び去ったいま振り返ってみれば「苦学」して瓦全したはずの現実そのものが、ぼろぼろに崩壊しているではないか。」「ひとつの時代が、文化が、終焉を迎えるとき、保全できる現実などないのだ。玉砕を選ぶ者はもとより滅びるが、瓦全に与する者もやがて滅びる。一切はそのように、滅亡するほかないのだ。政治的人間の役割を離れて、一私人に戻ったとき、海舟の眼に映じたのはこのような光景であったに違いない。」と推論している。
そして、その滅亡へと向かった西郷と私学校党の面々の心境を「(国の)崩壊と頽落を、死を賭して防がねばならない。そして滅びへの道を選び、死を賭してそれを防ごうとした者どもがいたという事実そのものによって、国の崩壊を喰い止めなければならない。何故なら、このようにして死んでいった人々の記憶は、必ず後世に残るからである。死者たちの記憶を留めた後世が、何らの記憶すら持たない後世とは違うことはいうまでもない。」と薩軍に加わった永山弥一郎に代弁させている。
3年後、自らも死を迎える江藤淳は、「マルクス主義もアナーキズムもそのあらゆる変種も、近代主義もポストモダニズムも、日本人はかつて「西郷南州」以上に強力な思想を一度も持ったことはなかった。」と結んでいる。
西郷は、維新後は一転して、江戸の屋敷に閉じこもりがちだったといい、帰鹿後も狩や湯治に浸る隠者のような暮らしぶりだったといわれている。
また、維新後の現実に対して「方今の事物の有様なれば倒幕の師は畢竟無益の労にして、今日に至りては却って徳川家に対して申訳なしとして、つねに慙羞の意を表したり」といわれている。
徳川を滅ぼし、島津を滅ぼし、そして武士としての自らも滅ぼした西郷南州。
西郷には自らを否定する冷静で強靭な自分と自らと自らがよって立つ世界を純粋に愛する別の自分があったのだろう。
明治維新以来、近代日本が内包するこの宿命的な矛盾を抱えた最初の日本人が維新の張本人の西郷南州だったという事実。
そして、その宿命的矛盾を西南戦争という自らと自らのよって立つ世界の滅亡を目指した記録として将来に投げ企てて斃れていった西郷南州という存在。
謎は謎のままに受け止めたいと思った。なんとも分からない大いなる謎を孕んだ西郷南州という存在とその記憶がある限り、日本人はこれからも自らを考えることを放棄せずに生きることが出来るのではないかという気がする。
答えよりも問いを発することが重要であり、結果よりも志のほうが強いのだろう。
「おはんも、ようやっと、おじゃったもしたな」
静まり返った薩軍の墓標は全軍桜島に向かって整列して穏やかだった。
copyright(c) 2009 tokyo culture addiction all rights reserved. 無断転載禁止。