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トリッパを流水できれいに洗う。臭みがなくなるまで4~5回水を変え茹でる。玉葱・セロリ・ニンジン・パセリの茎などと一緒に2h茹でる。鍋にニンニクと赤唐辛子を入れオリーブオイルで炒め、微塵切りにした玉葱・ニンジン・セロリを加え飴色になるまで炒める。短冊切りにしたトリッパを入れ、白ワイン、トマトの水煮、ベイリーフ、ミント、パセリを加え2h煮込む。最後に短冊状に切ったセロリを加え、塩胡椒で味を調えイタリアンパセリを振って食卓へ。バジルペーストなど添えても可。モツ煮込旨し。
Bon appetit !
Plat du Jour vol.3
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倉俣史朗の手になる ミス・ブランチ Miss Blanche と名付けられたチェアは、テネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』の主人公ブランチ・デュボアにちなんで命名された、あるいはそのオマージュとして作られたといわれている。
倉俣史朗はこう言っている。
「一般にカタチをつくることだけがデザインだととらえがちだけれども、そして確かに結果としてあらわれた具体的なもの、目にみえるものがデザインであるにはたしかなのだが、しかし、それだけではないはずだ。結果として、具体的なカタチは過程にある抽象的な主張とか考え方をふくむ表現なのだと思う」(「倉俣史朗の世界」展 展示会カタログより)
さらにこうも言っている。
「映画を観たりや本を読んだりした後は結構長いあいだ観たり読んだりしたものについて考え続けています」(インタヴュー「浮遊へのあこがれ」 “MISS BLANCHE ET L' APESANTEUR” での発言主旨 関連記事 )
その無二の傑作チェア ミス・ブランチのイメージの原点を求めるのに『欲望という名の電車』を読んでみるというのも許される行為かもしれない。(以下引用は新潮文庫小田島雄志訳による)
「その繊細な美しさは強い光にはたえられないように見える。白い服とともに、そのどことなく頼りなげな物腰は、蛾を思わせるものがある」
「ブランチの花模様のプリントのドレスが、ステラのベッドの上にひろげてある」
「たしかに、この人生にはつかみどころのないあいまいなものが多すぎるわ。私は強い、大胆な色、原始的な色彩で描く絵描きが好き」
「フランス系の名前よ。(デュボアは)森という意味。ブランチは白、だからあわせると、白い森」
「私、強い女になれなかったの、ひとり立ちできるような女には。強い人間になれないとき --- 弱い人間は強い人間の好意にすがって生きていかなければならないのよ、ステラ。そのためには人の心を誘うなにかが必要になる」
「<嘘その一> --- あの見かけだおしの潔癖さ!知ってるか、おまえ、あの女がミッチにどんなきれいごとを言ってきたか。おかげでミッチのやつ、キス以上のことは知らない女だと思い込んじまった!だがブランチ姉さんが清純な白百合なんかであるもんか!ハ、ハ!とんだ白百合だぜ!」
「ブランチの歌声がふたたび高まる、鈴の音のように澄んだ声である --- 「嘘もまことになるものよ だだ 私を信じたら」」("Paper Moon")
「真実なんて大嫌い」
「私が好きなのはね、魔法!(ミッチは笑う)そう、魔法よ!私は人に魔法をかけようとする。物事を別の姿にして見せる。真実を語ったりはしない。私が語るのは、真実であらねばならないこと。それが罪なら、私は地獄に堕ちたってかまわない!」
「ちがうわ、少なくともこころのなかでは嘘をついたことはなかった・・・・・」
「フローレンス。フローレンス。ご供養の花はいかが。フローレンス。フローレンス」
「死の反対は欲望。おかしい?」
「この骨董品?ハハハ!これはただの模造ダイヤ」
「百万長者なんていねえんだ!ミッチがバラの花束もってきたんなんてこともねえんだ。(中略)なにもかも空想の夢物語だよ!(中略)嘘っぱちといかさまとうぬぼれだよ!」
当初から量産を前提にしていない、存在を否定したかのような椅子ミス・ブランチ。もしかしたら、倉俣史朗は、この椅子自体の消滅、存在の不在を密かに望んでいたのではないだろうか。
モノとしての椅子というよりは、記憶として人々の間に流通するために椅子として作られたイメージ。
倉俣史朗が求めたのは、椅子の存在が消えた後に残る、物体を通過することにより対象化され純化され結晶化され、より鮮明になったイメージそのものだったのである。
幕切れに到来するミス・ブランチ・デュボアの不在とその余韻が、我々のなかで、彼女の現実との格闘とその悲劇性を人間の崇高さにまで昇華させるように。
* ミス・ブランチが4脚展示されている『倉俣史朗とエットレ・ソットサス展』は2011.07.18ま
で会期延長しています。
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投稿情報: 22:57 カテゴリー: アート&デザイン | 個別ページ | コメント (2) | トラックバック (0)
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集合住宅のデザイン論「マンションという風景」シリーズ。
vol.2は広尾ガーデンヒルズイーストヒルを取り上げる。
西麻布から広尾方面へ向かい外苑西通りを通りながら、西側の高台の上方に広尾ガーデンヒルズイーストヒルの上層階あたりが見え隠れするのを目にする一瞬は、日本にはしてはなかなか悪くないな風景だと思う。
少しずつ形態を変化させながら雁行した3棟が並ぶ配棟。表情のあるレンガカラーの外壁とホワイトカラーのサッシュのコントラストが美しい。横に連なるように続いているペントハウスの存在が軽やかだ。
遠めにも表情のあるこの広尾ガーデンヒルズイーストヒルの外観を作り出している最も大きな要因は、せっ器質タイルを躯体コンクリートに直接打ち込むことによって、通常の躯体打設後のモルタル貼りでは到底貼ることが不可能な重量とヴォリューム感のあるタイルによる外壁と濃い陰影をもたらす深い目地を実現したことにある。
厚さ約35㎜の割肌調のレンガカラーのボーダータイルと水平に連続する深く穿たれた目地のラインが、通常の薄っぺらいタイルを貼ったマンションにはない、ランダムさや土っぽさを留めた自然な風合いと彫の深い立体感のある表情とをこの建物にもたらしている。
バルコニーが設けられるのは、リビングルームの前だけである。他の居室の開口はプロポーションを統一した腰窓としている。
バルコニーは、大きな段差が施された厚みのあるRCスラブの水平ラインの上にオリジナルデザインのアルミ縦格子手摺を乗せた、安定感と透過性をうまく組み合わせたデザインとしている。
こうした要素の総合として、レンガカラーのリジッドでマッシブなヴォリュームを背景に独立エレメントとしてデザインされたバルコニーが要所要所に配された、構造とエレメント、躯体とアクセント、重さと軽さ、内と外などが絶妙にバランスされたファサードが生み出されている。
躯体の周りをバルコニーがだらだらと連続するよくありがちな建物にはない緻密に計算された堂々として美しいファサードだ。
最上階は外壁躯体がセットバックし、縦格子手摺が連続するテラス風のバルコニーが廻り、その上にオーバーハングした庇が架けられるいわゆるペントハウスとしてのデザインがなされている。コンサバティブなハイライズにおける最上階デザインの王道といえる。
見上げるように育った大ケヤキのプロムナードと歩道の上で華麗な光のダンスをみせてくれる木漏れ日。都心とは思えない森の中に佇んだ、と思わず形容したくなるようにまで見事に育った樹木とその緑に映える表情豊かなレンガカラーの住棟の存在は、確かに他のマンションにはない集合して住むことで始めて得られるメリットを改めて実感させてくれる価値ある風景だ。
意外にも圓堂政嘉による広尾ガーデンヒルズの最初のプロポーザルは超高層タワー4棟による計画であった。
ヤクルト本社、日本コカコーラ本社、京王百貨店新宿店など、それまで圓堂が手掛けた建物の殆どはアメリカナイズされた合理的な構造やシステムを特徴とする建物であり、広尾ガーデンヒルズの最初のプロポーザルもその作風に沿ったアメリカンデザインの超高層計画だった。
しかしながら、当時の技術とコストの制約により、この超高層計画は中高層連棟方式へと転換を余儀なくされる。この要請を受けて圓堂が再設計したのが現在の計画だ。イメージの源泉はイギリスのタウンハウスだったらしい。
圓堂がそれまでの自らの作風をあえて変え、広尾ガーデンヒルズの再設計に臨んだという話は、そのひと一倍高いプライドを思うとなかなか興味を惹かれる。
中高層の連棟計画となった段階でも何故、当初からのアメリカンデザインで押し通さなかったのか?
それははっきりしている。中高層連棟でのモダンデザインは日本では公団住宅の団地住宅、いわゆる大衆商品でしかなくなってしまうから。
アメリカ的な合理主義を信奉しながらも、一方で(あるいはそうだからこそ)エリートとしてのプライドを持った贅沢好きの圓堂には自らが「団地住宅」の設計を手掛けることは断じて許容できなかったに違いない。
イギリスのタウンハウスへと行き着くきっかけとなったのはニューヨーク好きの圓堂のことだから恐らくはマンハッタンのコンドミニアムにあるのだろうと容易に推察できる。どうせだったらそのルーツたるイギリスにさかのぼろうという発想だったのだろう。
そういえば圓堂はその当時、「建築というよりは、カルチュラルな問題だが」と前置してこんな風に語っていた。「住宅は豊かになればなるほど、その帰属性と民族性を表現しはじめる。英国系の金持ちの住宅はすべからく英国調になってくる。アメリカの権力の中枢をになうアングロサクソンのルーツは英国であり、英国のレンガにホワイトサッシュこそが集合住宅の原型である」と。さらには「帰属する祖国のないユダヤ人がモダンデザインに走るのだ」とも。
再設計によって作られた広尾ガーデンヒルズイーストヒルのデザインは、それまでに作風とは別の意味で、圓堂のコンサバで堂々とした男性的なスタイルが英国調のカラーやテクスチャーとうまくマッチして、結果的に正解だったと思う。
このイーストヒルを第1期とする広尾ガーデンヒルズは、日本における都心高級住宅の代名詞となり商業的にも成功を収める。
評価すべきはデザイン面にとどまらない。このイギリスをお手本にして作られた集合住宅は、一方で十分に試行錯誤され吟味された現代日本における先駆的なモダンハイライズでもあった。
広尾ガーデンヒルズイーストヒルは、欧米派エリートのイギリス回帰による自らのプライドの保守であったのと同時に、ろくな集合住宅を持たない日本の住宅への保守派からの異議申し立てでもあったのだ。
例えば、バルコニーの軒下のスラブ懐に全居室に対応したマルチ空調室外機を収め、住戸別空調方式の際の大きな課題である室外機置場の問題の解決を図ろうとした試み(この空調室外機のシステムのおかげで前述のファサードデザインが可能になった)、室外機と同様に室内機に関しても剥き出しの壁掛けエアコンなどインテリアとしてナンセンス極まりないという発想による天井内配管と天井埋込空調室内機を可能にする階高3,150㎜の確保、廊下側に開口を有するマスターベッドルームなんぞは欠陥商品以外のなにものでもないとの主張に基づく全居室にプライバシーを確保した3戸1エレベーター方式による住戸アクセスなど、その「真っ当さ」は竣工約30年を経た今をもってしても、その水準に届いている集合住宅が殆ど見つからないほどに「先駆的」な計画だったのだ。
広尾ガーデンヒルズのなかでも直接、圓堂が手掛けたのはこのイーストヒルだけだった。それ以降の住棟の凡庸さをみるにつけてそのデザイン性と計画性の質の高さは一目瞭然だ。言ってしまえば、イーストヒル以外の広尾ガーデンヒルズは普通の高層マンションでしかないのだ。
この広尾ガーデンヒルズイーストヒルには「真っ当な」集合住宅を作ろうという志があった。
後に続くものはなかった。その後に続く時代は「真っ当な」集合住宅などにこだわらなくとも、市場とそれをトレースするマーケティングに従っていればそれで十分だったのだ。
皮肉なことに完成した広尾ガーデンヒルズは、そのステイタスや資産性へのやっかみもあって一時「広尾の団地」と呼ばれていた。
もしこのことを圓堂が聞いていたらどんな反応を示したか興味深いところだ。肯綮に中る指摘に激怒しただろうか。
いや、むしろ圓堂政嘉はよく分かっていたに違いない。イギリスのタウンハウスとはもともとは英国の中産階級向けの集合住宅の形式であり、それをルーツと称し、さらに高級住宅にまで仕立て上げる日本の住宅自体に潜むおかしさをこの言葉はよく言い当てている、と。
「私はこのような日本の都市が好きであり、また嫌いでもある。」(『記憶の形象(上)』槙文彦)
*広尾ガーデンヒルズ イーストヒル(A・B・C棟)
所在地 東京都渋谷区広尾
事業主 三井不動産 三菱地所 住友不動産 第一生命
設計 圓堂建築設計事務所・三菱地所
構造・規模 SRC造 8F・9F B1F
総戸数 227戸
竣工 1983年
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投稿情報: 00:38 カテゴリー: マンションという風景 | 個別ページ | コメント (3)
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食にまつわる書籍を紹介する“食のエクリチュール”シリーズ。
第5回はブリア・サヴァラン『美味礼賛(上・下)』(岩波文庫)。
サヴァラン師曰く、
「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人間か言いあててみせよう」
「新しい御馳走の発見は人類の幸福にとって天体の発見以上のものである」
「チーズのないデザートは片目の美女である」
「料理人にはなれても焼肉師のほうは生まれつきである」
「だれかを食事に招くということは、その人が自分の家にいる間じゅうその幸福を引き受けるということである」
本書は、こうした肯綮に中るアフォリズムに思わずニヤリとすることもさることながら、今当の日本においてもますます隆盛を誇るグルメという価値観の始祖の記録として実に興味をそそられる書なのです。
ブリア・サヴァラン(1755-1826)は、ちょうどフランス革命(1789)からナポレオン帝政(1804-1815)を経て王政復古(1815)、7月革命(1830)の前までを生きた人です。
本書が書かれた1825年当時のフランスは社会の実権が貴族からブルジョワジーへと移り変わる時代でした。
ひとり分ずつの料理が定価で提供されるといういわゆるレストランという仕組みが考え出されたのはこの時代のパリでした。
「料理店主は、大都市の住民中、外国人や勤め人などからなるこのたいせつな部分に対して、すばらしい貢献をしたことになる。かれらは利益から出発したのだが、かえって利益とは反対に見えるひとつの問題、すなわちころあいの値段どころか安い値段で御馳走を食べさせるという問題を、解決する結果となった。(中略)このおかげで御馳走が民衆のものとなったのである」
こうしたレストランの店主レストラトゥール(料理店主)の多くは、革命前は王侯貴族お抱えの専属料理人だったことは想像に難くありません。
貴族からブルジョワジーへの権力の移行は、貴族の持つ価値の奪還という意味合いもあったのです。貴族の邸宅内での存在だった「御馳走」が、フランス革命を機にレストランという仕組みを通じて都市のブルジョワジーの間に普及していきます。
ガストロノミー gastronomie (美味学)やグルマンディーズ gourmandise (美食愛)という概念とそのエクリチュールの出現は、まさにこのブルジョワジーの台頭と軌を一にしていました。
ブリア・サヴァアンは新たな時代の美食の主人公をこう活写しています。
「金融家はグルマンディーズの英雄である。それは文字通り英雄なのである。まったく、そこには戦闘が行われたのである。もしかれが贅を尽くした食卓とドル箱とをもって対抗しなかったら、かれらは貴族階級の肩書と紋章とのしたに押しつぶされてしまったにちがいないのである」
金融家を始めとする資本主義の担い手たちが、貴族の持っていた価値を奪還しその「英雄」となっていく世界。今日のグルメブームはまさにここからスタートしたのでした。
約200年前に書かれた本書が今なおヴィヴィッドである唯一の理由は、食という甘美で底なしの人間の欲望が記録され宣言された最初の書であるからなのです。
本書(原題は『味覚の生理学』)の再販に際して附録としておさめられた『近代興奮剤考』と題された小品の作者オノレ・ド・バルザック(1799-1850)が後に、美食の果てに破滅する主人公の物語『従兄ポンス』を書いたことは、なにやら暗示的なことのようにも思えてきます。
ブリア・サヴァアンの手になる、食の欲望を刺激して止まない描写のいくつかをご紹介いたしましょう。
始めは「ヴァリエテ(雑録)」の12「雉」と題された章。
「雉は一つの謎であって、その秘密は特別の人たちにしか明かされていない。(中略)物にはそれぞれに食べごろというものがある。(中略)この雉は死後三日以内に食べたのでは何のことはない。(中略)このころあいの時というのは雉が分解し始める時である。その時、油の中に何とも言えない香味が出てくるのだが、それには油が少し発酵してこなければならないのである。(中略)この時期はふつうの人にはごくかすかなにおいと腹の色の変化によってわかるのだが、その道の人にはただ勘でわかる。(中略)雉を横たえて両端が2インチばかりあまるほどのパンをべつに一片用意する。それから先ほどの山しぎの臓物を大きなトリュフ2個、アンチョビー1匹、少量のきざんだベーコンおよび適当なバタのかたまりとともにすりつぶす。それからさきほどのパンを焼いたものの上にそれを一様にならし、その上にしたくしてある雉を置き、焼ける間に全体がまんべんなく流れる肉汁にうるおうようにする。雉が焼けたら、その焼きパンの上に寝かせたままで供する。回りに苦いオレンジを置くとよい。この風味高い御馳走は何よりも上部ブルゴーニュの地酒をのみながら食べるにかぎる。これはわたしが長年の研究のすえ発見した真理である」
サヴァラン先生に「長年の真理」(!)と大見得を切られても素直に頷いてしまいそうな迫真の描写です。
お次は、これも思わずおっしゃる通り!と膝を打つ屋外での食事の快楽を描写した「瞑想15 狩猟の中休み」と題された章。
「食べるということが若干部分を占める人生もろもろの行事に中で、いちばん愉快なものの一つは、おそらく狩猟の中休みであろう。(中略)涼しそうな木陰がかれを引きつける。緑の草原がかれを迎える。近くに涼しい泉のせせらぎでも聞こえると、渇きをいやすために携えてきたびん(わたしは仲間に特に白ぶどう酒を持っていくいおうにすすめる)をそこの清水にひたしたい気になる。そこでかれは静かな喜びをもって金色に焼けたプチ・パンを取り出し、優しい人の手がリュックの中に入れておいてくれた若鶏の冷肉の包みを広げる。そして、そのすぐ側にデザートのためのグリュイエールだかロックフォールだかのチーズの箱を並べる。(中略)われわれは妻や姉妹やいとこやそして彼女らの女友だちまでが、招待されてわれわれと楽しみをともにする日もあるのだ。(中略)人は決してシャンパンを忘れなかった。皆は青草の上にすわり、食べてはまたシャンパンを抜く。語り、笑い、遠慮会釈なくふざける。まったく、そこでは宇宙がサロンであり、太陽がその照明なのだ。それに天から放射されるその食欲が、この食事にいかなる豪奢な食堂でも見られない活気を与える」
最後は、呑み助ならばいつかどこかで嘯いてみたくなる名(迷?)台詞。
「ある酒飲みが食事をしていたが、デザートになってぶどうを勧められると、いきなりその皿を押しやって、「せっしゃはぶどう酒を丸薬にして飲む習慣は持っとりません」」
食という欲望の怖さ、お分かりいただけましたでしょうか。
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投稿情報: 00:09 カテゴリー: 食のエクリチュール | 個別ページ | コメント (2) | トラックバック (0)
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