内外を問わずロックは喪失の時代にさしかかっている。
ジョー山中といえばなんといってもフラワー・トラヴェリン・バンドのジョーであった。
フラワー・トラヴェリン・バンドは1972年2月に約1年半ぶりにカナダから帰国し、同時にカナダのライトハウスという当時人気のグループのポール・ホファートのプロデュースによる《MADE IN JAPAN》を発売し、帰国凱旋ツアーを全国で展開する。
フラワー・トラヴェリン・バンドとジョー山中を知ったのはこの頃だったと思う。唯一無二の傑作《SATORI》は既に1971年4月にセカンドアルバムとして発売されていた。
石間秀樹の金属音のようなあるいは人間の呻き声のようなギター、上月ジュンの野太いうねるベース、和田ジョージの力強いタイコ、そしてまるで楽器のひとつのように要所要所に絡むこの世のものとは思えないジョー山中の3オクターブをカヴァーするヴォイス。それらが一体となって創り出されるオリエンタルでヘヴィなサウンド、独特のグルーヴ、無国籍な雰囲気、強烈な存在感。
ブリティッシュ・ロックに深くはまっていた当時のロック少年は一発で魅了された。
レッド・ツェッペリン、ディープ・パープル、ブラック・サバス、キング・クリムゾン、ピンク・フロイドなどの当時の先進的なロックバンドと同じレヴェルのものとして聞ける日本のロックバンドはフラワー・トラヴェリン・バンドをおいてなかったと断言できる。日本のロックの創始にしてかつ世界のロックバンドの中でも見劣りしない実力とオリジナリティーを誇れるバンド。
ジュリアン・コープ著『ジャップロック・サンプラー』(白夜書房)という本がある。一体どこで調べたの?こんなこと日本人も知らないヨ!と思うぐらいマイナーでマニアックなグループやトリビアルなネタに言及しているかと思うと、こりゃ明らかに誤解・独断・誇張だ、というような記述がごちゃ混ぜになっている不思議な本だ。ただ375ページに渡り日本のロックの歴史と評価を語る、その語り口には不思議な情熱がこもっており、まさに、帯の惹句にあるように「日本のロックの創世記の空白を埋める奇書!」といえる本だ。ジュリアン・コープはイギリス人でミュージシャンでもある人物らしい。
この本の巻末に近田春夫やマーティー・フリードマンによる対談(これがまたが外国人が見た日本を話題にして語る日本、という感じでなかなか面白いのだが)とともに、当時のワーナー・パイオニアでフラワー・トラヴェリン・バンドを担当していた音楽プロデューサーの折田育造へのインタヴューが掲載されている。
内田裕也(いわずと知れたフラワー・トラヴェリン・バンドの結成からのプロデューサー)から初めて《SATORI》のテープを聴かされた時、どう思ったかという問いに、
「これは何かあるなと思ったね、石間のシタール奏法も独特で、ジョージ・ハリスンとかロバート・プラントがインド音楽に行ったようなやり方じゃないんだよ。もっと深く研究していてね。(中略)やっぱりすげえなと思ったよ。あとやっぱりジョーの声。石間の曲をジョーが歌うためにああいうアレンジにしてあるし」
「要するに俺たちもできねぇか?っていう感じなんだよ。ツェッペリンの<移民の歌>みたいなの、ちょっとかったるいけど、<胸いっぱいの愛を>とかね。あれぐらいだったら俺たち日本人でも、本当にタフなプレイをできるタイコがいてね、ギターの細かい、ジミー・ペイジほどリフがうまい必要がないけど、あれに近いのがいればできるんじゃないかっていう」
タフでステディなリズムを背景にヘヴィーでキャッチャーなギターリフを中心に据え、広音域をカヴァーするのヴォーカルをトータルサウンドのひとつして絡めるコンセプトは、まさに当時のレッド・ツェッペリンのコンセプトそのものだ。
ツッペリンの根底にケルト感覚があったように、フラワーの根っ子にはオリエンタル感覚が横たわっていた。
そして、ツェッペリンのサウンドのトータリティにはロバート・プラントのヴォイスが不可欠だったように、フラワー・トラヴェリン・バンドにはジョー山中の存在が不可欠であった。
ちなみに、この『ジャップロック・サンプラー』の表紙はフラワー・トラヴェリン・バンドのファーストアルバム《ANYWHERE》のジャケット写真が使われており、なにより、著者のジュリアン・コープは、《SATORI》を「この地上に放たれたハード・ロックの狂乱のなかで、史上もっとも素晴らしいもののひとつ」と呼んで絶賛し、アルバムNO.1に選んでいる。
日本での報道は当時も今もほとんどなく、あまり知られていないが、1年半のカナダでの活動を通じ、海外でのフラワー・トラヴェリン・バンドの認知と評価は相当高かったようだ。事実、ジョー山中はフェリックス・パッパラルディ(クリームのプロデューサーで後にマウンテンのベーシスト)やデビット・ボウイらに高く評価されていたし、フラワー・トラヴェリン・バンドが1973年に予定されていたローリング・ストーンズの初来日の際のサポーティング・アクトにアサインされたのも、ストーンズから直接指名されたものだと、ジョーがインタヴューで語っている。(ただし、このストーンズの初来日自体がミック・ジャガーの大麻問題で結局中止となってしまい、このコンサートは実現しなかったのだが)
しかしながら こうした海外での評価の高さとは裏腹に、日本での認知はほとんど広がらず、フォークブームまっただ中、フラワー・トラヴェリン・バンドは1973年2月にライヴ音源も含めた2枚組《MAKE UP》を発表してその後、活動を停止してしまう。
《MAKE UP》のA面に収められたMAKE UP ~ LOOK AT MY WINDOW ~ SLOWLY BUT SURELY ~ SHADOWS OF LOST DAYS(WOMAN)の展開は、ロックアルバムでも屈指のスピード感と緊張感あふれるシークエンスであり、なかんずくジョー山中のヴォーカルは聞くものを間違いなく圧倒する。
活動を停止した1973年から35年後の2008年、フラワー・トラヴェリン・バンドはオリジナル・メンバーで始動を再開し、カナダ録音のニューアルバム《WE ARE HERE》がリリースされる。
2008年10月の日比谷野音で再会したジョー山中とフラワー・トラヴェリン・バンドについては以前書いたのでここでは繰り返さないが、35年前と同じ5人による、あのフラワーの、あのサウンドとグルーヴを生で体験できたことは、今から思えば、まさに奇跡と呼んでもよい出来事だったように思える。
ジョー山中は、近年いくつかのインタヴューやトークショーに出演し、かつてのエピソードについて話をしていた。例えば、ボクサーを辞めた後にシンガーになったのは偶然がきっかけだったこと、世界に打って出るバンドを作るからと内田裕也にフラワー・トラヴェリン・バンドに誘われたこと、日比谷野音のステージに雪崩れ込んだ全共闘を逆に返り討ちにした有名な事件のこと、『人間の証明』の時の麻薬逮捕事件のこと、ボブ・マーリー亡き後のウエーラーズとのレコーディングのことなど、興味深い逸話が目白押しだ。
そうしたエピソードを朴訥にそして丁寧に語るジョーは、キャリアやステージから受けるワイルドで武闘派の印象とは裏腹に、シャイで控え目で気遣いに心を配る人柄のようにみうけられる。
もっとジョーの話を、そして何よりももっとジョーの歌を聞きたかったと思う人は多いに違いない。本人が語るには、活動再開後にその過程を追うドキュメンタリー作品を制作する予定でヴィデオが回されていたらしい。これはぜひ作品化して欲しい。
ジョー山中の死とともにフラワー・トラヴェリン・バンドは今度こそ完全に伝説となり歴史となってしまった。
Death is made by the Living, Pain is only intense to you.
<SATORI PARTⅡ>
それにしても64歳でのジョー山中の死は悔やまれてならない。
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