宇野常寛『リトル・ピープルの時代』(幻冬社)は、『1Q84』で村上春樹が示した「ビッグ・ブラザーの時代からリトル・ピープルの時代へ」という認識を受け、村上春樹と仮面ライダーとポップカルチャーの作品群をその題材として、リトル・ピープルの時代とはどういう時代なのかを語ったものである。
今を考える新鮮な切り口や課題を提示してくれる論考だ。
「つい最近まで人間の生を決定する「大きなもの」としては、近代的な国民国家という装置が支配的だった。国民国家は長く擬似人格化することでイメージの共有が図られてきた。こうして擬似人格化された存在が(大きな)物語=歴史を語り、個人の生を意味づけることで「国民」としてのアイデンティティを成立させてきた」
ジョージ・オーエルは、この擬似人格化された権力の象徴をスターリニズム批判の風刺小説『1984』(1948年)でビッグ・ブラザーと呼んだ。
しかし、ここ数十年の間で世界はすっかり変わった。
「もう、ビッグ・ブラザーの出てくる幕はない」 村上春樹は『1Q84』でこう宣言した。
グローバル資本主義の成立によって、かつての国民国家のパワーが相対的に低下し、貨幣や情報のような価値中立的システムが席捲する世界が成立しているのが現在だ。
グーグルやiphoneやスターバックスにアメリカ国家の影は見えない。
村上春樹は、こうした情報ネットワークやグローバル経済といったシステムが孕んでいる力のようなものをリトル・ピープルと呼んで『1Q84』に登場させた。
「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」(村上春樹の2009年にエルサレム賞を受賞した際のスピーチ)に添っていうなら、リトル・ピープルとは、ビッグ・ブラザーが壊死した後に生成した新しい「壁」のかたちを象徴するものといえる。
リトル・ピープルの時代とは、「ブッグ・ブラザーが仮構し続けた大きな物語がその壊死とともに失効し、小さな物語が無数に乱立する世界が訪れた時代、それがリトル・ピープルの時代だ。それは偉大な父(兄弟)=ビッグ・ブラザーには誰もなれない時代であり、同時に誰もが否応なく矮小な父=リトル・ピープルとして機能してしまう時代でもある」
「ビッグ・ブラザーという擬似人格を装うことがなくなった巨大システムは、非物語的で非人格的なアーキテクチュア(環境)として世界をひとつのゲームボードの上に統合した。ゲームボードとは貨幣と情報のグローバルなネットワークのことだ。そして矮小な父=リトル・ピープルたちはゲームボードの上で、究極的には自己目的化したコミュニケーション=ゲームに興じることとなる。無限に拡張し続けるゲームへのコミットは不可避で、ゲームボードの外部は存在しない」
著者はリトル・ピープルの時代の具体的なイメージを、ヒーローでありながらお互いの正義を掲げ相互に戦わざる得ないという矛盾を孕んだヒーロー像を表現した平成仮面ライダーの世界に求める。
「資本とネットワークの下、リトル・ピープル=小さな父たちがそれぞれに正義を抱えて乱立するこの新しい世界は、仮面ライダー同士のバトルロワイヤルとして私たちの前に登場した。誰もが小さな父であり、小さな正義を抱えるこの世界を、仮面ライダーたちは永遠に殺しあうことで表現した」
こうした<外部>を喪い、無数の正義が乱立し、暴力が不可避的に誘発されるリトル・ピープルの時代において、世界を変革するために必要とされるのは、その内部に留まりながら現実を読み替えていく想像力であるとし、そのイメージをありふれた日常の街角で変身を行い「悪」立ち向かってゆく仮面ライダーの姿に求める。
「彼ら(注:仮面ライダー)が存在することで日常の風景は確実に変化する。(中略)仮面ライダーたちの「変身」、そしてその意味の更新は私たちがこの<外部>=<ここではない、どこか>を喪った世界で<いま、ここ>を多重化することを可能にするのだ。まるで、システムをハッキングして書き換えるように、私たちは<いま、ここ>に留まったまま世界を変える想像力を手にしたのだ」
その想像力とは、「存在し得ない<外部>に依存する<仮想現実>的想像力ではなく、<内部>を無限に多重化し得る<拡張現実>的想像力」と呼ぶべきものであるとする。
<拡張現実>とは「仮想現実(バーチャルリアリティー)をデジタル世界への完全な没頭であるとするならば、拡張現実(Augmented Reality)は実世界へのデジタルオーバーレイと言えるだろう。実世界をデジタルデータで補強することによって、全く作られた世界よりも遥かに興味深いものになる」(Erick Schonfeld Augmented-reality vs Virtual-reality TeckCrunch 20100106)であり、セカイカメラやレイヤーなどのモバイルアプリケーションによって出現する、例えば、スマートフォンの画面に映し出された眼の前の風景の上に近くのコンビニや駅や位置情報が重ねて表示されるような光景(状況)を指している言葉である。
<拡張現実>的想像力とは、「もうひとつの世界に接続するのではなく、この世界を読み替えること」であり、例えばそれは、なんでもない普通の住宅地がキャラクターアニメに登場したことをきっかけに、ファンにとっての「聖地」となり「巡礼」されるようになる「聖地巡礼」現象や自然の中での虫取りと同じようにゲーム機器の中での「モンスター狩り」に没入することや、それぞれのコミュニティごとに自身とはややずれたキャラクターとして振舞ってしまう、携帯やSNSを前にした我々の今の態度などが、その実例として挙げられる。
「新しい時代の、新しい「壁」は、私たちの世界の「中」に、<いま、ここに>どこまでも潜ることで見えてくる(中略)そして、その「壁」は、現実を打倒するのではなく、拡張することで、<革命>ではなく、<ハッキング>で変えていけるはずだ」
リトル・ピープルの時代とは、無数の小さな正義が乱立し暴力が不可避な世界である。この世界を認識し変革するためには、現実に留まったなかで現実を読み替えてゆく<拡張現実>的想像力が必要である。それは変身という行為によって日常の風景を変え、悪と戦う仮面ライダーのように、この世界を変革できるはずである、というのが本書の主張である。
著者も言うように、先に挙げられた<拡張現実>的想像力の実例(そして仮面ライダーの変身に象徴されるもの)は、すぐれて日本的/アジア的な想像力の産物と言えるだろう。
裏返せば、ビッグ・ブラザー的世界観(あるいは、ヴァーチャル・リアリティを求める感性)とは、唯一性、絶対性、正と反という発想に支配された西洋的世界観だったともいえる。
現実を読み替えて平気でいられる態度の背景には、常なることなきを融通無碍に肯定し、正と反の境を曖昧にしてやり過ごすことができる感性がなければ自家撞着を起こしかねない。
こうした無常を肯定する感性は、日本には昔からあったものだ。例えば「聖地巡礼」は永井荷風を引くまでもなく江戸の昔からあったことだし、自然の中の虫取りと同じくらいにゲームの中の虫取りに没入することや複数キャラをうまく並立させる処世術も別に新しいことだとはいえない。
こうした日本的感性を背景にした<拡張現実>的想像力が以前からあったものだとすると、<拡張現実>的想像力がはたして、新しく出現したリトル・ピープルの時代を認識し変革してゆくことにおいて、はたして有効だといえるのか?という気がしてくる。
有効ではない、といっている訳ではない。こうした日本的感性を背景にした<拡張現実>的想像力が有効なのは、「真善美」の世界でいうと「美」の世界ではないか?ということである。
和歌・俳諧・歌舞伎などに幅広くみられる、あるものを別にものとして認識・表現する「見立て」、生者と死者が同じ時空に共存する複式夢幻能、侘び茶などを生み出した「やつし」という美意識など、日本にはまさに<拡張現実>的想像力による「美」と呼べるものの例は枚挙に暇がない。
逆にいえば、<拡張現実>的想像力の有効性が語りうるのは、その題材として仮面ライダーやポップカルチャーの世界、つまり「美」の世界を題材として取り上げているからではないか?ということである。
哲学や政治のような「真」を標榜する世界や倫理や宗教のような「善」を体現する世界においても、こうした想像力が果たして現実変革の有効な武器となるりうるのかどうか、本書だけからは見えてこない。
書きながら今、気がついたのだが、この日本的感性を背景にした<拡張現実>的想像力とは、アレクサンドル・コジェーブのいう「日本的スノビズム」の一種であるとも解釈できるのではないか。
コジェーブはヘーゲルのいう「歴史が終わった」世界で人間に残された生の在りようは、与えられた環境(現実)を受け入れて生きる「動物」(動物は環境に疑問を抱いたり否定したりしない存在)としての生と形式的な価値を信じることにより与えられた環境(現実)に満足せずに(動物化せずに)生きる「スノビズム」の2つであり、前者の代表としてアメリカ的生活様式を挙げた。
そして、後者を実現した社会として日本を挙げ、日本は、政治・革命・戦争・宗教などの歴史的な価値とは無縁の形式的な価値(例えば、能楽、茶道、華道などや切腹などの規範)に基づき動物化せずに人間的な生が営まれている唯一の社会であると主張した。さらに、世界は今後、「スノビズム」が席巻するかたちで日本化するとまで断言した。
そう考えると、リトル・ピープル時代において不可避的に誘発される暴力に対して<拡張現実>的想像力が有効かどうかを問うことは、コジェーブが「歴史の終わり」における唯一の人間としての世界史的態度とした「日本的スノビズム」が、はたして「歴史の終わり」が終わったといわれる現在も有効かどうかを問うことでもありそうだ。
そしてそれは、フクシマのような現実に対しても有効なのかどうかを問うことである。
閑話休題。
本書の主張の有効性や可能性とは別の話として、本書における認識をきっかけに考えさせられたのが、3.11以降の「リアリティ」ということに関してである。
「福島の原発は、私たちの世界の内部に存在して、それを下支えしていたものだ。(中略)この世界の「内部」から発生したものでありながら、私たちの理解と制御を拒む存在を、どうも日本社会はうまく(イメージのレベルで)処理できていない。このことに対する苛立ちが、今の日本社会の混乱の根底にあるように思える」
「あの日(注:東日本大震災の起こった2011年3月11日)からずっと、私たちはリトル・ピープルの時代の「壁」をイメージすることができずに焦り、苛立ち、混乱している。<分からないもの><大きなもの>の存在は、人を不安にさせる。それが私たちの世界の「中」(たとえば福島)に存在すればなおのことだ」
「そう、私たちはあの日からずっと、日常と非日常が混在している ― 日常をベースに非日常が覆いかぶさる、ほとんど<拡張現実>的な世界を生きている」
日常と非日常の混在は、なにも被災地とそれ以外の地域が混在している現実という問題ばかりではないのだろう。
陽の光が柔らかな気持ちのよい秋晴れの目の前の風景は、同時に放射線の降りそそぐ地獄の光景なのかもしれないし、落ち葉が積もって秋の空気が清冽な公園の空間は、実は放射線が堆積する汚濁の大地であるかもしれない、日常/非日常という言葉からそんなことをイメージしてしまう昨今。
あの日以降、目の前の現実の風景には、そういう可能性もあるのだ、というということを我々は知ってしまった。
現実とは何か?リアリティという感覚の不全の予感。「現実」とは決して目の前に感得できる現実だけではないという不安。<拡張現実>的想像力とは、好むと好まざるとに関わらず、こうした目の前の現実への信頼への疑念をも惹起する可能性を孕んでいるのではないだろうか。
現実の風景にその場で測定された放射線量を示す数値が重ねあわせれて映し出される映像は、悪夢の<拡張現実>以外の何ものではないではないか。
本書は3.11後のリアリティということへの問題提起の書でもある。
そして本書をきっかけに考え続けているもう1つのことは、リトル・ピープルとは一体何なのか?ということ。
村上春樹自身はこう語っているが、その意味するものは依然混沌としたままだ。
「神秘的なアイコン(象徴)として昔からあるけれど、言語化できない。非リアルな存在としてとらえることも可能かもしれない。神話というのは歴史、あるいは人々の集合的な記憶に組み込まれていて、ある状況で突然、力を発揮し始める。(中略)あるいは、それは単純に我々自身の中のなにかかもしれない」(村上春樹インタヴュー「1Q84」への30年 読売新聞 2009年6月16日)
リトル・ピープル、あるいはリトル・ピープルの生みだす「悪」は、本書でも様々に語られている。
システムの生む「悪」(例えば、フクシマ)、歴史から切断された人々の自らの人生を意味づけようとする欲望(例えば、連合赤軍)、ビッグ・ブラザーなきあとの無秩序な、そして自由な世界に耐えられない人々の<弱さ>が生む暴力(例えばオウム真理教)、「父」たちが無数に溢れかえる世界で不可避的に発生する衝突(例えば、9.11)などなど。
いずれも新しい「壁」は「卵」から生成していることが暗示されている。
リトル・ピープルもビッグ・ブラザー同様に擬人化されたもの言いだ。
ビッグ・ブラザーが独裁や弾圧や洗脳の時代を象徴しているとすると、リトル・ピープルとは民主主義や自由や個人の時代を象徴するのではないか。ビッグ・ブラザースが一見した「悪」を象徴しているとすると、リトル・ピープルは一見したところの「無垢」を象徴しているといえなくはないか。
ひとりひとりの人間のもっているイノセントさ。重しとなっていた国家の権力や旧弊な社会の制約から自由になった人間が如何なく発揮するイノセントさ。イノセントさは、「悪」ではないことに自足し自省を忘れ、いつの間に頑迷、独尊、盲信、非寛容、容喙に陥る。イノセントさはイノセントさ故に暴力や悲劇を生成してしまう。さらにその暴力や悲劇は、イノセントさから発しているが故に現実となる前には決して止めることはできない。イノセントな者同士の争いほど悲惨な結末を生むものはないのではないか。
なにも事故や事件だけが「悪」なのではないだろう。例えば、貨幣をベースにする信用システムが本源的に内包しており、事後的に取り返しがつかない状態でしか認識できないバブルという現象、破綻が目に見えているのに既得権に阻まれて改革が出来ずに危機に直面する国家財政や各種社会システムなど、昨今の先進国に共通する事態もいわば人々のイノセントさが生み出した暴力や悲劇といえるのではないか。
ビッグ・ブラザーなきあと、世界は民主主義と自由と個人を謳歌してきた。しかしながら、その結果、行き着いた先は、ひとりひとりが知らず知らずのうちに「悪」を生成してしまい、それを止めることはできないという、かつて以上にやっかいで憂鬱極まりない世界であるのかもしれない。
今、こうした世界を捉える想像力が必要とされていることは間違いない。
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