マリオ・ジャコメッリ展を観てきた。
マリオ・ジャコメッリはこんなことを言っている。
「僕が興味があるのは、<時間>なんだ。<時間>と僕の間にはしょっちゅう論争があり、永遠のたたかいが行われている」
その手触りが伝わってくるような215点に上るオリジナル・プリントを真近に観ながら、考えていたのはマリオ・ジャコメッリのいう<時間>のことだ。
マリオ・ジャコメッリの写真に感じるある種のまがまがしさ、抑えることができない胸騒ぎ、あるいはあの世や異界を垣間見たような印象、それは果たしてどこから来るのか。
写し取られた一瞬は、過去の時間の流れの中で存在した一瞬のような気がするが、はたしてその一瞬は本当に存在していたのか?
雪に戯れる若い神学生たちが垣間見せる一瞬の笑みを捉えた一枚(『私には自分の顔を愛撫する手がない』)
黒牛と黒衣の女達に混じってこちらを振り返りどこか不安げな表情を見せるイタリアの寒村の少女(『スカンノ』)
雪に覆われた山の斜面と畝模様の畑が異様なコントラストをなしている一枚(『自然について知っていること』)
見れば見るほど、その自信は心許なくなってゆく。
『時間はどこで生まれるのか』(橋本淳一郎 集英社新書 2006)によると、相対性理論は、時間性が伴わなければ空間を認識することは不可能である、と教えているという。
我々の常識に反して、静止した空間、客観的な空間、時間から独立した空間は存在しない。我々の空間認識は必然的に時間性を伴ったものになる。1メートルという距離は絶対的に存在するのでなく、1メートルを測定する時間性のなかで認識される空間単位だというのだ。
時間を<実>とすれは空間は<虚>であり、あるのは時間であり、時間とは、取り返しがつかない過去と見通せない未来とそしてその狭間にある現在のことだ。
さらに、現在という瞬間、つまり時間=0に広がっている世界は我々には認識できず、その領域は「非因果的領域」と呼ばれている。しかも、その現在の瞬間は、決して他人とは共有できないのだという。
マリオ・ジャコメッリの写真の捕らえた一瞬はあたかも、本来は認識できない「非因果的領域」の事象を空間に定着させたようなイメージなのだ。
過去でもなく未来でもない、我々が本来認識できない、そして他人とは共有できない<現在>を時間を止めて定着化させたような印象なのだ。
マリオ・ジャコメッリの写真に感じるまがまがしさや胸騒ぎ、それはマリオ・ジャコメッリが写し取った瞬間とは、本来ならば人が認識できない<現在>を初めて認識しているという感覚、あるいは本来は他人とは決して共有できない瞬間を初めて共有しているという感覚、そこから来ているのではないか。
しかしながら、物理学や数学と現実は異なる。面積=0の点が現実には存在しないように、時間=0の瞬間も現実には存在しない。写真においてもいくらカメラのシャッタースピードを上げてもそれは決して0にはならない。
ここまで書いておきながら今さら言うのもなんだが、そういう意味では相対性理論と写真とはなんの関係もないのだ。
むしろこういった方がいいかもしれない。現実において時間=0、つまり時間が止まるということは、「死」ということだ。死のまなざしによって見えないはずの事象を垣間見させてくれるもの、それがマリオ・ジャコメッリの写真だ、と。
写真とはある種の「死」であり、生の瞬間を捉えるには死をもってするしかない、とマリオ・ジャコメッリは理解していた。<時間>との論争、<時間>との永遠のたたかい、とはそういうことを意味していたのではないか。
すべての被写体は連続する時間を止められゼラチン・シルヴァー・プリントで印画紙に定着される。
それらは、決して過去の出来事ではなく、たった今、ここで起こっている出来事のような異常な生々しさと現実感を伴って観るものに迫ってくる。
「私は自分がリアリストであると感じつつも、詩が凡庸な日常性の枠から抜け出すことができる言葉なのだと考えている。空間はもう単調ではなく、私が常に同じように見ていたもの、私の町のいつもの通りや人々が、詩に思いを巡らせるとすっかり一変してしまうように思われる。新たな体験の世界に私を取り込み、心象の領域での生を私に与えてくれる、この稀有な出来事の全てを詩が知っているのだ」(マリオ・ジャコメッリの言葉。マッリエンツォ・カルリの著書より)
マリオ・ジャコメッリが写したのは、現実ではなくポエジーなのだ。
ポエジーとはとりもなおさず日常に異界を見ることである。
マリオ・ジャコメッリの写真、それらはやはりこの世では認識できない異界(「非因果律領域」)の出来事を写したものだったのかもしれないと再び思った。
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