失われつつある東京の坂と路地を訪ね歩く「東京坂路地散人」シリーズ。
前回のvol.19では呑川の源流のひとつを辿ったが、今回は蒲田から呑川河口周辺と羽田を訪ねてみよう。
呑川が京急蒲田駅の下を潜るあたり近くに柳通りという路地がある。「柳」とは「花柳」の柳に由来するのだろう。城南エリアでは川沿いに花街が形成されることが多かったらしい。西小山の立会川沿いなどもそうだ。
適度に入り組んだ道路がラビリンスの雰囲気を醸し出している。スナック、パブ、小料理屋、ファッションヘルス、連れ込み風ホテルなどなど、狭い路地に店、店、店の集積。
店の名前を見ているとこの街の歴史が偲ばれる。
驚くほどの数の今や死語に近い和風スナックと銘打たれた店。「スナックいわて」、「青森」、山形郷土料理「紅花」など県名や郷土を連想させる店、ずばり「スナック演歌」、「スナック祭り」というのもある。お決まりの「しゃのあーる」、「スナックばらーど」、「ぱっしょん」などのしゃれた(!)命名も健在だ。「スナック愛ラブ」、「パブニュー愛」、「和風スナックほろよい」など、店名からして既にフライング気味で思わず嬉しくなってしまう。「ホテルひろみ」、「ニュ-美恵」などは、その怪しい雰囲気に思わず引き込まれてしまいそうだ。極めつけは「ファッションヘルス京浜クリスタル」。日本の高度経済成長を担った京浜工業地帯の要、ここ京急蒲田にその名も「京浜クリスタル」あり、という強いメッセージを感じる傑作だ。
そうここはかつての昭和とともに歴史を歩んできた街なのだ。
つわものどものゆめのあと。既に人もまばらな静寂のラビリンスは、取り残された昔、という趣だ。
かつての花街が軒並み姿を消すなか、ここ柳通りは、そうした貴重な姿のまま今もなお健在だ、と書きたいところだが、良く見ると再開発により立ち退きが迫っているらしい。閉店・廃業の張り紙があちこちに張られている。
都市と地方の賃金水準差異を利用した資本による利潤創造の恩恵が当の賃金労働者にもそれなりに行き渡っていた構造、あるいは、田舎の農家の次男三男が東京の町工場に出てきて高度成長を担う原動力となり、同時にそうした人々が消費の主役となり、さらなる成長が生まれるという循環の構図、そうしたものがもはや失われてしまった日本において、その舞台となった街だけが生き残ることはないのだ。
「取り残された昔」などという勝手な感傷はすでにとっくの昔にお払い箱だ。
このあたりの呑川は、すでに海が近いせいか、久が原や池上あたりに比べ、川幅が広がり、ゆったりと蛇行しながら流れている。
宝来橋あたりで本来は北に流れていた流域がそのまま東に流れるように付け替えされており、今の流れは新呑川と呼ばれている。昔の流域は旧呑川緑地として暗渠緑道化され、現在は、河口に呑川水門だけが残されてる。
かつてこのあたりには東京湾(今は海老取川の河口付近)から引き込んだ掘割が何本かあった。海運の便はもちろんだが、港がない羽田では船を内陸部に係留して守る必要があったのだろう。今の新呑川の流域もそのひとつを利用したものらしい。
堀の跡は埋め立てられ緑地や私有地になっている。新呑川の一本南を流れていた北前堀の跡地。昔の護岸のコンクリートが残されており、右側の住宅が建っているところはかつて水面だったことが分かる。
新呑川の河口付近の河岸は、工場や倉庫の敷地に占められており、近づくことは出来ない。
工場の一角にあったクレーン。なにか特定の荷揚げのためのものなのか。機能を追及した結果の造形が澄んだ空を背景に寡黙に佇む姿はどこかシュールで美しい。
呑川河口には近づくことはできなかったが、北前堀跡の水門付近に普段なかなか見られない風景を発見して思わず息を呑む。
水門から少しだけ内陸に入ったところまで水路が残っており、何艘かの船が係留されている。水面の先はスロープ状に陸地が現れ、水の中からレールが延びている。修理中なのか、あるいは放置されているのか、一艘の船が陸揚げされている。薄暮の空と水面は、まるで溶け合いそうな同じ輝きを宿して静かだ。
時間が止まってしまったような静寂。空間と時間の境が曖昧にされたような風景。
ここも生活と海が密接だった時代の記憶を留めた「取り残された昔」なのだろうか。
水門の先は海老取川だ。
北前堀の南に掘られた南前堀は、水門からしばらくの区間が高速1号羽田線の下に今も辛うじて存在している。
南に歩き、環八を越えると穴守稲荷神社に出る。鳥居が名物なのか、やたらと鳥居がある。これは千本鳥居というそうだ。
この穴守稲荷はかつては今の羽田空港の敷地内あった。昭和20年(1945)にアメリカ軍による羽田空港接収とともに強制退去させられ、現在のところに移転した。
かつて羽田は猟師の町であるととともに、海水浴場や温泉などがある海辺のリゾート地だった。
穴守稲荷神社のサイトに明治12年頃の羽田周辺の地図が掲載されている。右中央部に穴守稲荷の名前が見える。稲荷の周りには建物が密集している様子が描かれており、歓楽街を形成していたことが伺える。鴨狩場、海水浴場、釣堀、プール、梅園などの名前も見られる。地図左上には先ほどの北前堀と南前堀がまだちゃんと残っている。
夕暮れが迫る京急穴守稲荷駅前。駅前にもちゃんと鳥居があるのだ。
日を改めて次回は羽田を探訪することにしよう。
to be continued.
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