遅れてきたシネマディクトの記録。2014年に観た156本の映画の記録。<下>は2014年7月~12月に観た81本の記録です。劇場とDVDまた2回目、3回目の鑑賞などゴチャ混ぜです。<上>はこちらから。
76.アメリカン・ビューティ/サム・メンデス(1999)
この反語的意味を含意している題名どおり、さまざまな問題を抱えたアメリカのサバービアの白人家族の崩壊の物語。例えば、娘の女友達に恋をして、体を鍛えはじめて悦に入るやる気の失せた中年サラリーマン(ケヴィン・スペイシーのとろんとしたような表情がぴったりだ)など、語られるエピソードは総じて醜悪、病的、悲惨なのだが、秀逸なのはその語り口。コミカルで軽妙で突き放したような雰囲気は、問題の滑稽さや哀れさ、そして登場人物全員が抱える深い不安感と孤独感を浮かび上がらせる。父としての自分を取り戻し、安心したような笑みを浮かべた後に訪れる結末はきっとハッピーエンドなのだ。<7月4日>
77.稲妻/成瀬巳喜男(1952)
東京の下町<前近代>と山の手<近代>を対比させた構図。高峰秀子が「お母さんがずるずるべったりだがらみんなだらしないのよ」といって母をなじる。浦辺粂子が「おまえは一番いい子だと思っていたが、一番悪い子だよ」といって泣く。稲妻が光り、いいたいことを吐き出した親子は和解に至るラストシーン。前近代と近代ははたして止揚されたのか。中北千枝子を尋ねるシーンで渡るのが木場の新田橋。今の風景もさほど変わらないことは驚嘆すべきことだ。<7月5日>
78.夫婦善哉/豊田四郎(1955)
口の悪いダメ男を森繁久弥。懲りずにつくす健気な女は淡島千景。もちろん名演。森繁+大阪弁だからこそ表現できた、なんとも憎めない日本のダメ男の代表格だ。「自由軒のライスカレーはご飯にあんじょうまむしてあるよってにうまい」、「おぐらやの山椒昆布よりうまいで」など織田作之助がひいきにした名店も登場。淡島千景の父親で飄々淡々とした惣菜天ぷら屋のオヤジ(田村楽太)がいかにもそれらしい。<7月8日>
79.スナックバー・ブダペスト/ティント・ブラス(1988)
フィルムノワール的ライティング、SF的室内シーン、フェリーニ的ダンスパーティ、ゴダール的テンポなどなど、やりたい放題のテイストミックス。実はこの監督、「イタリアンエロスの巨匠」と呼ばれている人物で、ちっともエロくない本作は興行的に大失敗だったそうだ。とはいえ登場する女性が全員が裸になるというのがおかしい。トレンチコートのジャンカルロ・ジャンニーニが若造と対決するシーンが実にハードボイルド。<7月10日>
80.執炎/蔵原惟繕(1964)
戦争で無残に引き裂かれる男と女。浅丘ルリ子は夫伊丹十三の二度目の招集で精神的に追い詰められていく。浅丘ルリ子の極端な性格の背景にあるのが平家の落ち武者の子孫という出自。武家の芸術としての能が象徴的に使われる。戦争で負傷した伊丹十三を奇跡的に治癒するところなどは巫女的存在として面影も漂っている。鉄橋の上から唐傘が舞い落ちる印象的な雪のシーンは山陰本線の餘部鉄橋でのロケ。浅丘ルリ子の上半身ヌードがでてきてびっくり、意外にふくよか。伊丹十三の消極的な存在は演出なのかキャラクターなのか気になる。脚本は山田信夫。<7月11日>
81.ファニー・ゲーム/ミヒャエル・ハネケ(2001)
史上最も不快な映画といわれている作品。それもそのはず監督は観る者を不快にさせるように作っているから。虚構と判りながらでも理不尽な暴力は不快だと思うのが人間。ミヒャエル・ハネケは、それではヒーローが勝利する暴力の快楽を商品化しているような映画とそれを一喜一憂しながら観て喜ぶ観客は一体どうなのかと問う。映画産業のご都合主義を鋭く突いた類まれな作品。正直いって観るのはしんどい。<7月14日>
82.日本暗殺秘録/中島貞夫(1969)
歴代の暗殺事件を扱ったオムニバス映画。当時の保利官房長官から製作中止を求める電話が入ったとのいわくつきだ。1969年は学生運動まっさかりの時期。予告の「ゲバルト社会に叩きつける」の惹句のとおり、テロ礼賛よりもむしろ時代の反権力への親和的雰囲気が生み出した作品といえる。いろいろ盛り込みすぎて本編である血盟団事件のストーリーが中途半端になってしまったのが欠点。<7月16日>
83.彼女が消えた浜辺/アスガー・ファルファディ(2009)
カスピ海沿岸の別荘に遊ぶ3組の友人夫婦と独身男女の計8人。気軽に誘った女性エリが失踪してしまう出来事をきっかけに次々に露呈する人間のエゴ。嘘、自己弁護、言い逃れ、言い訳、責任逃れ、身勝手な行動、隠蔽。エリ自身も嘘をついていた。事件の究明ではなく、ある出来事によってさざ波のように拡がってゆく不安感を描く視点が斬新。砂浜でスタックしてなかなか抜け出せないBMWをロングで撮ったラストは仲間たちの将来を暗示しているようだ。<7月20日>
84.カポーティ/ベネット・ミラー(2006)
トルーマン・カポーティが『冷血』の取材のなかで、死刑囚との関係に苦悩し、精神的に動揺をきたしてゆく姿を描いた作品。『冷血』以降、カポーティは作品を完成させられなくなってしまう。死刑執行後、カポーティが手にした犯人の日記からカポーティを描いたポートレイトが滑り落ちる。それはカポーティに寄せた信頼の証のようではっとさせられる。繊細でかつ野心家、母親に捨てられたトラウマを抱える孤独な男を演じ切ったフィリップ・シーモア・ホフマンは本年2月に45歳で亡くなる。<7月25日>
85.彼女を見ればわかること/ロドリゴ・ガルシア(2001)
仕事を持った独身女性6人を描いたオムニバス的群像劇。記憶に残るタイトルはキャメロン・ディアスの台詞にあるように「見ればわかること」など何もないのだ、という反語だろう。要所で登場する女占い師、ホームレスの女、盲目の女、小人、カナリアなど異形や巫女的存在の語りから、個人を超えた呪術的な力の存在のようなものが滲み出す。監督・脚本のロドリゴ・ガルシアはガルシア・マルケスの息子だそうだ。なるほど。<7月29日>
86.マグノリア/ポール・トーマス・アンダーソン(2000)
父と子、罪と赦し、救いや和解というお得意のテーマで描かれる2時間を越える濃密な群像劇。P.T.A.監督はロバート・アルトマンを敬愛しており、本作は『ショート・カッツ』をイメージして作ったのだそうだ。トム・クルーズはじめ奇天烈なキャラクターの設定とその独創的な動かし方には圧倒される。高まった緊張の後に訪れる空からカエルが降ってくるという前代未聞のカタルシスは、意外なほど違和感はなかった。<8月1日>
87.ミッドナイト・エクスプレス/アラン・パーカー(1978)
実話に基づくというクレジットで始まるがエピソードの多くは脚本のオリバー・ストーンの創作。麻薬密輸で収監され父親に助けてもらったという自身の体験も反映されているようだ。例によってやりすぎ、短絡、思い込みのきらいがなきにしもあらず。密告屋との素手での乱闘は主人公の狂気のレベルに達する激怒が伝わってきて迫力あり。<8月5日>
88.ザッツ・エンター・テインメント/ジャック・ヘイリー・Jr.(1974)
MGMによるミュージカルのハイライトシーン集。『踊るニューヨーク』(1940)での「ビギン・ザ・ビギン」にあわせたエレノア・パウエルとのタップダンス、『恋愛準決勝戦』(1951)の天地が回転するシーンや帽子掛けを相手のダンスシーンなど、何回観てもフレッド・アステアには圧倒される。ウエストシェイプが上方にあるタイトなジャケットの着こなしや優雅な手のひらの動きにはため息が出る。<8月8日>
89.けんかえれじい/鈴木清順(1966)
痛快にしてコミカルかつ叙情的という独自の世界観は鈴木清順ならでは。けんかに明け暮れるとぼけた味の硬派の主人公は高橋英樹。はまり役だ。桜の花びらが舞い散る夜のショット、竹林や雪の情景、障子越しに指を重ねるシーンなど、印象深い耽美的映像の数々。北一輝が登場し、2.26事件がからんでくるラストは短兵急な感じが否めない。<8月10日>
90.風船/川島雄三(1956)
画家を諦め実業界で成功したものの今の生き方に疑問を持ち始める父親(森雅之)と親だのみの無責任な息子(三橋達也)の生き方を軸にダンサー北原三枝、妹芦川いずみ、愛人新玉三千代などがからむストーリー。原作(大佛次郎)故か、善悪聖俗の構図がやや図式的な感じが否めない。むしろその後の日活アクションの悪役で名を馳せる二本柳寛がクールで如才のない男を演じており存在感がある。代官山の同潤会や出来たばかりの東急アパートメントなど当時のモダンな都市風景が記録されている。<8月11日>
91.赤線地帯/溝口健二(1956)
売春防止法公布(1956年5月)直前の吉原の特飲店を舞台にした物語。5人の娼婦の人間模様が哀れさとある種のたくましさで迫ってくる傑作。木暮実千代が所帯やつれした娼婦という難しい役どころを演じて見事。若尾文子の品のなさを漂わせた計算高い美人娼婦、三益愛子の善良だがうっとしさを振りまく年増娼婦なども真に迫る。近藤英太郎、沢村貞子、浦辺粂子など脇役陣の演技も見逃せない。反売春へと向かう時代とは一向に無縁に新たな哀しみが始まることを予感させるラストの残酷さが忘れがたい。賛否を巻き起こした黛敏郎による効果音的な音楽は、倫理や情緒に流されない硬質で突き放したようなイメージを付与しており、奥深いところで作品の本質と共鳴しているのではないか。溝口健二の遺作。<8月12日>
92.放浪記/成瀬巳喜男(1962)
林芙美子の自伝的小説の映画化。貧乏から苦労しながら這い上がってきた人物のしたたかな強さと一方でどこか人を嫌悪させるようないやらしさを過不足なく描き切るのは成瀬巳喜男ならでは。歌う、わめく、叫ぶ、泣く、酔っ払うなどの大技と猫背、上目づかい、目配せ、声色などの小技を縦横に駆使した高峰秀子の演技には脱帽。他の成瀬作品に比べるとやや一本調子に感じるのは伝記もののせいか。<8月13日>
93.そして父になる/是枝裕和(2013)
産院で息子の取り違えが起こった2家族をめぐる物語。稀有な事件の当事者としてあえて類型化された家族像が設定される。都心のタワーマンションに住むエリートホワイトカラー。地方都市の店舗併用住宅に住むブルーカラー。妻も前者は専業主婦、後者は弁当屋のパートといかにも。双方のキャラクターの生活のディテールの違いが丁寧に積み上げられる。整然としたイメージの福山雅治が徹底した「負け」を強いられ、それがきっかけとなり、変貌していくという周到な配役と構成が共感を生んでいる。それに応えた福山雅治も好演。<8月14日>
94.真昼の決闘/フレッド・ジンネマン(1952)
自助の精神、無敵のヒーロー、男の友情などそれまでの神話化された西部劇に異議を申し立てた作品。ことなかれ主義に傾いてゆく町の世論、悪漢に1人で立ち向かう孤独で不安げな保安官ゲーリー・クーパー、最後は妻グレース・ケリーに助けられて命拾いするなどヒーロー不在の現実を象徴するようなストーリー。マッカーシズムの時代のペシミスティックさが全編に漂う。脚本のカール・フォアマンはこの後イギリスに亡命を強いられている。<8月15日>
95.シェーン/ジョージ・スティーヴンス(1953)
西部の歴史は、開拓初期の放牧民の時代から南北戦争後の入植農民が定住する時代への変化する。同時に、銃の腕前を競ったカウボーイたちの居場所も徐々になくなっていく。農民のジョン・ヘフリンがいう「銃の時代は終わった」との台詞は象徴的だ。本作は開拓民どうしの土地所有をめぐる軋轢をきっかけに、銃の名手アラン・ラッドが再び銃を抜くにいたるプロセスをじっくりと描いてみせる。ジャック・パランスとの対決に勝利したとはいえ、時代のなかで居場所がないことには変わりがないシェーンは、根無し草のようにいずこへかと流れてゆくしかないというラストは哀切極まりない。あっけなく終わる早撃ち対決よりも、殴り合いのシーンでの小柄なアラン・ラッドの鞭のようにしなやかな身のこなしが印象に残る。<8月16日>
96.下町の太陽/山田洋次(1963)
曳船駅付近にあった資生堂の石けん工場を舞台に高度成長期の下町庶民の生活を描いた作品。木造だった堀切橋、旧あらかわ駅(現八広駅)、小松川閘門、業平橋の貨物駅など失われた風景の貴重な記録ともなっている。日当たりやプライバシーなどの面で下町よりも山の手の暮らしが憧れられた時代。光が丘団地の倍率が200倍とのエピソ-ドが出てくる。もちろん監督が共感を寄せているのは近代化・工業化の負を負わされた下町の方だ。倍賞千恵子がかわいい。<8月23日>
97.ゼア・ウィル・ビー・ブラッド/ポール・トーマス・アンダーソン(2007)
石油と宗教というアメリカを象徴する2大テーマを軸に描かれる父と子を巡る叙事詩。まるで狂ったかのごとく石油採掘に向かう山師の男。他人に嫌悪しか抱かず、負けることを極度に恐れ、押しが強く、冷酷で直情的で孤独な男、そんな強烈なキャラクターをダニエル・デイ・ルイスが演じる。自らの弱さに復讐するかのように石油王に成り上がった人物のすさまじさが十二分に描かれる分、伝道師との敵対の構図がやや手薄になった感は否めない。冒頭15分の石油採掘に苦闘する音声なしの映像に引き込まれる。<8月26日>
98.めし/成瀬巳喜男(1951)
実家に出戻った原節子の心境を、取り巻く家族の日常とともにきめ細かく描いた作品。戦争未亡人の中北千枝子の境遇を垣間み、二本柳寛から同情されて、甘さの残るどっちつかずの自らの惨めな立場を自覚するに至る。迎えに現れるダメ夫の上原謙との食堂のシーンは妻の諦観が静かに描かれた名場面。ロケ地は南武線の矢向。成瀬作品での原節子は小津作品より本来の頑固さや無骨さがストレートに現れて馴染める。<8月29日>
99.山椒大夫/溝口健二(1954)
すすきの原の逆光のシーンや香川京子の入水する竹林の湖のシーン、太夫屋敷での下人たちの大騒ぎシーンなど名場面の連続。ラストの海岸のシーンで海にパンするショットは、ゴダールが『気狂いピエロ』のラストで引用しオマージュを捧げたことで有名。国分寺のシーンは広隆寺金堂と唐招提寺で撮影された。拷問などの残酷シーンを復活させ、最後は太夫を追放するなど、ヒューマンなイメージの鴎外作品を現代的な視点で改変している。田中絹代はちろんだが、太夫役の近藤英太郎が憎らしげでなかなか。<3月13日>
100.あした来る人/川島雄三(1955)
その後の日活の都会的なスタイルを決定づけたといわれている川島雄三のモダンな作風が良く現れた作品。登場する男女5人が誰も予定調和的な幸せで終わらないというところなども今、観ても十分納得がいく。三橋達也と月丘夢路のおしゃべりと演技のかけあいが見もの。原作(井上靖)に忠実な展開が映画的にはやや盛り上がりに欠ける感がなきにしもあらず。山村聡の東京での常宿は今はなき日活ホテル。<9月1日>
101.ジュリア/フレッド・ジンネマン(1978)
ヨーロッパに渡り反ナチス活動している幼馴なじみのジュリア(バネッサ・レッドグレーブ)や夫のダシール・ハメット(ジェイソン・ロバーズ)との交流を通じて反骨の劇作家リリアン・ヘルマン(ジェーン・フォンダ)の生涯を描く。芸達者な3人が抑制された演技で一本筋が通った人物を演じる。窓から見える海、タイプライターでの創作、砂浜での焚き火、セーター、ウイスキー、煙草などナンタケット島の海辺の家とそこでのハメット夫婦の日常を描いた一連のシーンが魅力的だ。少女時代の回想シーンはイマイチ。<9月3日>
102.西鶴一代女/溝口健二(1952)
女の一生という主題がまさに絵巻物のような映像美学に結実した傑作。身分違いの恋に破れ、側室、郭、愛人、物乞い、夜鷹と転落していく女お春。演じるのは田中絹代。まさに一世一代の名演。その流されながらも動じない、翻弄されながらも屈しない姿はカミュのいう「運命を俯瞰する眼差し」そのものにも思えてくる。お春が尼僧となって門付けしながら巡礼する不思議と澄み切った余韻を残すラストは、その眼差しがついに勝利した姿でもあるのだ。移動とパンを組み合わせた流れるようなカメラワーク、長回しによる緊張が漂う画面など世界が驚嘆した映像が存分に楽しめる。<9月5日>
103.暖簾/川島雄三(1958)
昆布屋の丁稚からたたき上げた大阪商人の親子ニ代の物語。森繁久弥が親子を一人二役で演じる。タイトルバックで丁稚時代と暖簾のもつ意味をさりげなく語ってしまうところや心の通い合わない新婚夫婦が夜なきうどんのだしの悪さから昆布の切れ端を売ることを思いつき一挙に打ち解けるところの根っから商売人2人を暗示するシーンなどが小気味良い。森繁は相変わらず、小ずるさ、一途さ、調子良さ、たよりなさをミックスした人間味あふれる大阪商人を演じて見事。途中の親子の話の展開に中だるみがあり、もう少し刈り込んでも良かった。<9月7日>
104.ブギーナイツ/ポール・トーマス・アンダーソン(1998)
人生流転の哀しさを最高に「くだらない」題材で描くふてぶてしいほどの才能。ポルノ業界版『アメリカの夜』と称される。父と子、罪と赦しというP.T.A.のいつものテーマが2作目の本作ですでに顔を出している。”God only know”とともに各人のその後が描かれるシーンは、自信に満ちあふれた(そしてイタい)70年代・80年代を経た現在を象徴するようで愛惜の情を禁じ得ない。父的存在役のバート・レイノルズははまり役。冒頭やパーティーシーンでの移動長回しの臨場感は見逃せない。<9月11日>
105.脱出/ハワード・ホークス(1944)
ローレン・バコールのデビュー作にして競演したハンフリー・ボガートと恋に落ちたという伝説の作品。ハワード・ホークスは、生涯のテーマであった「抑圧下の優雅さ」(ヘミングウェイ)を実現するために当時19歳のローレン・バコールを見出しThe Look と呼ばれる上目遣い、ハスキーボイス、クールな態度というそれまでにはない女性像を創造した。その魅力は今も輝きを失っていない。ボギー&バコールのつっぱった会話の応酬とウォルター・ブレナンのアル中ぶりが見もの。ローレン・バコールは本年8月12日に亡くなる。<9月12日>
106.杏っ子/成瀬巳喜男(1958)
この映画の木村功のダメ男ぶりはすさまじい。嫉妬、劣等感、自虐、あせり、煮え切らなさなどダメ要素の集大成だ。妻香川京子の献身と忍耐強さも義父山村聡の理解と寛容さも、才能の限界と嫉妬心という現実の前には木村功を立ち直らせはしない。現実はそういうものだろう、という冷徹な視点。木村功が山村聡の家の庭を灯篭をなぎ倒しながらメチャクチャにするシーンはすごい。<9月14日>
107.おかあさん/成瀬巳喜男(1952)
登場人物の全員がまだ戦争の影を引きずっている時代。クリニーング店を営む家族を通じ、時の移り変わりと家族の離散を描く。おかあさん役はもちろん田中絹代。長男が病で亡くなり、夫も戦争が遠因の病に斃れ、末娘も生活苦から叔父のもとに養子として引き取られてゆく。現実を受け入れる諦観と淡々と生きる矜持。末娘が養子に行くことが決まり最後にみんなで遊びに行くのが向ヶ丘遊園。家族の楽しげな様子が逆に無常さを漂わせる。モデル役として花嫁衣裳を着せられた香川京子の姿に娘の成長を気づかされ、はっとする母。香川京子がおちゃめに舌を出すのが実にかわいい。<9月14日>
108.三つ数えろ/ハワード・ホークス(1946)
レイモンド・チャンドラーの『大いなる眠り』の映画化。3つの脅迫事件が錯綜する複雑極まりない筋書きで有名。ハワード・ホークスが、運転手を殺した犯人をチャンドラーに問い合わせたところ、チャンドラーも知らないと答えたとの伝説もあるほど。そんなこととは全く無関係に面白いというのがこの作品のすごいところ。ボギー&バコールによって作り上げられたイメージは、映画におけるフィリップ・マーロウ像を決定づけた。リー・ブラケットの初脚本作品。<9月15日>
109.ローマ環状線、めぐりゆく人生たち/ジャンフランコ・ロッシ(2014)
ドキュメンタリーで初めてヴァネチアで金獅子賞を受賞した作品。登場人物の人生はまるで物語のようであり、都市はまるで息づいているかのようだ。車のテールライトが連なる夜の高速道路、墓地に降りつむ雪、朝焼けのテヴェレ川の暗い水、薄暮の空に屹立する高速道路など、都市はかくも詩的映像に満ちあふれていることに改めて気づかされる。イタル・カルヴィーノの『見えない都市』にインスパイアされているそうだ。<9月18日>
110.乱れ雲/成瀬巳喜男(1967)
成瀬巳喜男の遺作。『乱れる』と同じ許されざる恋の物語。不幸になり貧しくなるにしたがって美しさを増す司葉子を描く冷徹な眼差し。司葉子が加山雄三の下宿を訪ねるまでの逡巡、そして訪問した下宿での緊迫した雰囲気は見事。『乱れる』のラストの鮮烈さはないが、加山雄三が最後に司葉子の前で津軽民謡(実際は岩手の南部牛追い歌)を歌うシーンは改めて運命の皮肉さを思い出させて哀切さを誘う。行きつ戻りつする心情を察するかのような武満徹の音楽も傑出している。脚本は山田信夫。<9月20日>
111.鰯雲/成瀬巳喜男(1973)
農地解放と都市化のなかで崩れゆく農村の旧秩序と家族を描く。時代に取り残されてゆく老家父長を中村雁治郎が演じる。この上方歌舞伎の大御所は、京都のお気楽な旦那(『小早川家の秋』)はもちろん、厚木の農家の頑固な惣領もできるという稀有な存在。昔流のやり方で家と家族を守ろうとすることが逆に家族から疎まれていくところに悲哀と老いの寂寥感が滲み出る。後半、中村雁治朗自身が家制度の犠牲者だったことが判明する。嫁いだ先の農家で未亡人となっている長女淡島千景がそれに気がつき、家長としての自覚を深めていくところで幕が閉じる。お金にまつわることをしっかり描いたことでぐっと作品に深みが増した。<9月20日>
112.リオ・ブラボー/ハワード・ホークス(1959)
冒頭の酒場のシーンでの巧みなつかみ、へらず口の掛け合いの会話など見事な脚本(ジュールス・ファースマンとリー・ブラケット)、まるで本物のアル中のディーン・マーティンやはまり役スタンピーで絶好調のウォルター・ブレナンなど強力な脇役陣、「ライフルと愛馬」や「皆殺しの歌」などぜいたくな劇中曲(ディミトリオ・ティオムキン)など書くことはいくらでも探せそうな傑作西部劇。『真昼の決闘』への嫌悪感からそのアンチテーゼとしてハワード・ホークスとジョン・ウェインが作ったといわれている。<9月22日>
113.物語る私たち/サラ・ポーリー(2014)
監督自身の本当の父親は誰かをめぐるドキュメンタリー。とはいえ、誰が父親か?育ててくれた父親が事実を知ったときどうするのか?など肝心のところはフィクション映像として再現される。正確にいえば本作は、本当の父親を探すドキュメンタリーではなく、本当の父親を探す物語を作るドキュメンタリーなのだ。それはサラ・ポーリーとその育ての父親の2人が現実と和解していくプロセスの映像化である。ドキュメンタリーを拡張するようなその試みに才気を感じる一方で面白いかというとそれほどでも・・・。<9月23日>
114.女が階段を上る時/成瀬巳喜男(1960)
主人公は未亡人で実家を支える必要からやむを得ず銀座のバーの雇われマダムをしている。プロ意識は高いが、男に媚びてまで営業はしないという一本筋を通す女性を高峰秀子がまさにはまり役で演じる。母加原夏子と実家で罵り合うシーンは、娘の背負っているものの重さとそれとギリギリに対峙している現実を垣間見せる名場面。実家はその重荷のなんたるかを象徴するように昔ながらの佃島にある。ラスト、階段を上りきって店に入った高峰秀子が満面に浮かべる営業の笑みは、ままならない人生をそれでも生きるというニヒリズムとリアリズムの凄みを感じさせる。華やかな雰囲気の淡路恵子、昭和の現代っ子団玲子、今見てもモダンな若林映子など、ホステスを演じる女優陣も豪華。<9月24日>
115.近松物語/溝口健二(1954)
冒頭で登場人物の関係性とその背景を一気に説明してみせる脚本と演出に感嘆させられる。長い廊下や狭い空間を移動とパンで柱や障子や梁を跨ぎながら縦横に展開するカメラワークは、壁のない日本家屋の空間特性を深いところで理解した上で独創的な映像表現を作り出している。琵琶湖の船上でのシーンをきっかけに、その前後で変容する女を完璧に表現する香川京子。長谷川一夫のいやでもにじみ出る洗練された立ち振る舞いが、どうみても田舎出の職人にはみえないという注文は贅沢過ぎか。<9月25日>
116.キーラーゴ/ジョン・ヒューストン(1948)
キーラーゴの海辺のホテルを舞台にしたギャングとの活劇。冒頭、海を渡る長い橋、到着したホテルのがらんとした様子など、島特有の孤立感と不穏な雰囲気で引き込むが、それ以降はギャングの親玉エドワード・G・ロビンソンの一人舞台に終始してしまう。やたらと饒舌だと思うと一転して冷酷な性格に豹変する感情のコントロールが効かないキャラクターがなかなか怖い。ボギー&バコールの3作目だが2人とも存在感は薄い。低予算なのでスタジオセットでの嵐のシーンなど情けない。<9月27日>
117.女は二度生まれる/川島雄三(1961)
若尾文子が自由奔放な九段の三業地の不見転芸者小えんを生き生きと演じる。明るくノンシャランでいてどこか投げやりな虚無の影を感じさせる演技は、いたるところに散りばめられた戦争の影と相まって作品の本質を象徴している。若尾文子も戦争孤児という設定。俯瞰、抑角など変則的なカメラアングルやテンポの良いカッティングに意欲を感じさせる。若尾文子の多彩な着物の着こなしは必見。フランキー堺のすし職人とのカウンター越しのぎこちない会話がおかしい。山村聡がエプロン姿ですき焼きを作るところなども珍しい。唖然とするほど唐突なラストは、生まれ変わる小えんを暗示しているのか。テンポの良さが災いして個々のエピソードに深みが欠けるのがやや難点。<9月30日>
118.祇園の姉妹/溝口健二(1936)
空間に時間性を内包したかのような横移動長回しで商家の空間をとらえた冒頭ショットから引き込まれてしまう。まさに巻物のようだ。男につくし裏切られる姉、男に対抗し出し抜こうとしてしっぺ返しを喰らう妹。その男たちがことごとく情けないというところが姉妹のおかれている世の中の理不尽さを浮かび上がらせる。こうした悲惨とでもいうべきテーマを描きながら、喜劇的妙味とでもいうべき不思議な明るさを漂わせているところが本作の秀逸なところ。妹のおもちゃこと山田五十鈴のどこかつきはなしたような京都弁による手練手管が見もの。シュミーズ姿も悩ましいコケティッシュな魅力を振りまく山田五十鈴は当時19歳。身上をつぶした甲斐性なしの志賀廼家辨慶とおもちゃに鼻の下を伸ばし手玉に取られる呉服屋の近藤英太郎はいかにも上方の旦那衆だ。<10月1日>
119.女の中にいる他人/成瀬巳喜男(1966)
裕福なサラリーマン家庭を舞台にしたサスペンスもの。不倫相手のサディズム嗜好に誘われて相手を殺してしまう夫。気弱な夫は神経衰弱になり、自首することを決意し妻に告白するが・・・。それまでの平凡な妻から、思い詰めた狂気の女へと変貌する新玉三千代の演技が見もの。夫役の小林桂樹はどうみても若林映子と不倫をするようには見えないのだが。<10月2日>
120.残菊物語/溝口健二(1939)
歌舞伎の世界を舞台に描く身分違いの悲恋物語。確かにメロドラマではあるものの、女中お徳(森赫子)が歌舞伎への見る眼を有し、三流役者の菊之助(花柳章太郎)を支え叱咤する役回りという設定が斬新。楽屋裏の立体的な空間を人々が縦横に行きかうシーン、お徳が間借りの2階の部屋の暗がりに座り込んでいるところに家の娘が帰ってきてランプを灯すと光が空間に満ちるシーン、繰り返し登場する階段を上下から撮ったショットなど空間性を意識した映像に古さは微塵もない。お徳が最期に菊之助を舟乗り込みに送り出すのは自らの自己実現の完成でもあったのだ。<10月4日>
121.勝手にしやがれ/ジャン・リュック・ゴダール(1960)
不可解で宙吊りにされたような結末は、「ただ人はやろうとしていたものを決してその通りやりとげるものではない。ときには逆のことさえしてしまう。いずれにしてもわたしにはそれが真実なのです」とのゴダール自身の言葉が説明してくれそうだ。改めて観て、いかに長回しが多いか、ジャンプカットが多いかがわかった。単にカットを割るほど予算がなかったからだろうが、皮肉にもそれらが世界に衝撃を与える作品として結実したのだった。ジャン=ポール・ベルモンドとジーン・セバーグが夜の左岸で乗り回すコンバーチブルはキャディラック・エルドラド・ビアリッツ1954。<5月4日>
122.イヴ・サンローラン/ジャリル・エスペール(2014)
本物のYSLの衣装を使っているので登場する一着一着が実に美しい。コレクションやランウェイのシーンもありきたりではない臨場感がある。性欲や嫉妬が創造の原動力となり、困難や確執が新しいことを生み出し、そして依存と支配は表裏一体だ。サンローランを演じたピエール・レナは中年に差し掛かった頃が一番似ている。<10月11日>
123.生まれてはみたけれど/小津安二郎(1932)
自分は重役の子よりえらいのに父が重役にペコペコしているのは何故?とユーモアとそこはかとないペーソスを湛えたサイレントの名品。次男役の突貫小僧(この芸名もすごい)の要所要所でハズしを披露する演技がおかしい。子供の寝顔を見つめる両親のショットは素直に美しい。かつての蒲田撮影所の近くということで大田区の東急線沿線でロケが行われている。出てくる電車は池上線との証言もあるが真実は目蒲線で蒲田と矢口渡の間あたりらしい。こちらのサイトで詳しく探求されている。原案のゼェームス・槇も脚本の燻屋鯨兵衛もともに小津安二郎のこと。<10月12日>
124.NANA/大谷健太郎(2005)
矢沢あいの漫画を映画化して大ヒットした作品。キャピキャピ系お嬢さんのハチ役の宮崎あおいの演技はもちろんうまいが、ナナ役の中島美嘉もヘタながらクールなロックミュージシャンの感じがよく出ていた。2人が借りる、入ったところがリビングになっている白い内装の古いオフィスのような素っ気ない感じの部屋が大いに注目の集めたのだそうだ。日本のマンションの過剰な意匠や仕様の退屈さを象徴するかのようなエピソードだ。<10月15日>
125.ブレード・ランナー/リドリー・スコット(1982)
公開当時人びとが薄々感じ始めていた、ぴかぴかの未来への懐疑を見事に映像化してみせてくれた傑作。デッカード(ハリソン・フォード)のアパートはF.L.ライトのロス郊外にあるエニス・ブラウン邸。J.F.セバスチャン(ウィリアム・サンダーソン)のアパートはダウンタウンにあるブラッドベリービル。マヤの意匠やロマネスク様式など未来は過去的であるかもしれないというコンセプトを体現している。終始困り顔のハリソン・フォードよりもレプリカントのロイ(ルトガー・ハウアー)の方が感情をあらわにし、人間らしく描かれるというのも象徴的だ。ラスト近く、雨の屋上でロイの最期と鳩の飛翔シーンも傑出している。<10月17日>
126.アメリ/ジャン・ピエール・ジュネ(2001)
フランスでも日本でもカルト的人気を博したシュールな味わいのおとぎ話。緑と赤によるアーティスティックな美術と自由なカメラワークが印象的。最後、閉じこもっていた自分の殻をやぶり、恋人とスクーターでパリの街を疾走するアメリ(オドレイ・トト)は、もうあの居心地の良い赤い壁紙のアパルトマンへは戻らないだろう。カフェの常連客や近所(18区)の住人など、癖のある連中のエピソードは何回観てもおかしい。クリーム・ブリュレを割ることが好きで豆の山に指を入れる感触に喜びを感じる、このナイーブで孤独な変わり者の少女に共感を覚えた人も多いのでは。<10月21日>
127.百万長者と結婚する方法/ジーン・ネグレスコ(1953)
高級アパートメントを借り、金持ちの振りをして海老で鯛を釣ろうとする女3人組のコメディ。マリリン・モンローがど近眼のコケティッシュな女性を演じて注目を集める。実は庶民のローレン・バコールがダイナーでハンバーガーにコールスローとピクルスを山盛りにして、ケチャップとマスタードをたっぷりかけて、あの魅力的な大きな口でガブリとやるシーンがおかしい。大きなテラスのある家具つき高級アパートメントやファンションショーやパーティーのシャンパンなどはもちろんのこと、ハンバーガーでさえ当時の日本にとってはきっと眩いばかりの存在だったのだ。<10月22日>
128.ゴースト/ニューヨークの幻/ジェリー・ザッカー(1990)
90年前後はこんなにもダサかったのかと自己反省させられる映画。唯一の救いはウーピー・ゴールドバークの名演。<10月24日>
129.ファイブ・イージー・ピーセズ/ボブ・ラフェルソン(1970)
芸術家一家からドロップアウトして投げやりに暮している主人公ジャック・ニコルソン。タイトルはピアノの教則本の初心者向けの練習曲のことで、そこで投げ出した主人公を暗示している。「プレリュードEマイナー」を弾く主人公、カメラがパンしながら壁に飾られた一家の古い写真を映し出す象徴的なショット。自分の出自に激しく反抗する一方、市井のことどもにも嫌悪感を覚えるやっかいな心性と逃れられないシニシズム。ラストで財布すら打ち捨て、恋人にも黙って唐突に失踪する主人公。ここではないどこかなどないことはわかっているのだが・・・。煙ったような空気のなか道路とガソリンスタンドをロングでとらえた荒涼たるラストショットは心に残る。監督のボブ・ラフェルソンは日本駐留中によく小津安二郎を観ており、父と子、説明のない淡々とした語り口など本作はその影響下にあるとのこと(町山智弘)。アメリカン・ニューシネマと小津安二郎、奥は深い。<10月27日>
130.リスボンに誘われて/ビレ・アウグスト(2014)
「人生は意図せずに始められてしまった実験旅行である」(『断章』)とのペソアの言葉通りの映画。そしてジェレミー・アイアンズはまるでアントニオ・タブッキの『レクイエム』の主人公のようにリスボンの古くて美しい街をさまよう。探すのはかつて青年時代に抵抗運動にかかわったアマデウという名の人物。老境で今を生きるかつての知人たちは一様に口を閉ざす。政治の季節の深い傷痕が明かされてゆく。アマデウの姉役はシャーロット・ランプリング、この人が出てくると画面の空気が一変する。ポルトガルは1974年までサンラザール政権の独裁下にあって弾圧・拷問・密告などが行われてきたという事実を知らなかった。<10月28日>
131.ビッグ・アメリカン/ロバート・アルトマン(1976)
西部の伝説的英雄バッファーロー・ビルの実態を辛らつに笑い飛ばす裏西部劇とでもいうべき作品。ワイルド・ウエスタンショーと称する見世物ショーは実話だそうだ。日々虚勢を張りながらも独りになると鏡に向かって自らを鼓舞し続けなければならない作られたヒーローを演じるのはポール・ニューマン。作り物の勝利に満面の笑みで応えるバッファロー・ビルの姿をとらえるラストは苦く哀しい。製作されたのはベトナム戦争が終結した翌年。真実に眼をそむけたくなるアメリカの心性を象徴しているかにもみえてくる。<10月29日>
132.雁の寺/川島雄三(1962)
孤峯庵と呼ばれる京都の禅寺の生臭坊主の慈海とその妾里子。里子がその捨て子だった悲惨な境遇に同情し、殻に閉じこもる小坊主の慈念を誘惑したところから事態はまさにオイディプス的展開となる。その完全犯罪の素朴な仕掛けが面白い。里子役は無防備な女の魅力が全開の若尾文子。押入れや仏壇の中からの盗み撮りのようなショット、汲み取り口の中や墓穴の中からの撮ったショットなど挑戦的なカメラワークも見どころだ。撮影は村井博。最後、画面はカラーに変わり、すっかり観光地化した孤峯庵が描かれる。外人を案内する調子のいい係りはお決まりの小沢昭一。<8月9日>
133.眺めのいい部屋/ジェイムズ・アイヴォリー(1986)
このアメリカ西海岸出身の監督が描く古いイギリスの風景や衣装は美しい。新旧の道徳が混在する時代の恋愛が描かれるが、同じE・M・フォースター原作の『ハワーズ・エンド』などに比べてもストーリーは恋愛に終始して穏やかでかつ起伏に欠ける。むしろマギー・スミスやダニエル・デイ・ルイスが演じるヴィクトリア朝時代の堅苦しさ(あるいは偽善的な道徳)を残した人物の振舞いなどの方が興味深い。ヒロイン役のヘレン・ボナム=カーターはどこが良いのだろうか。<11月2日>
134.オリエント急行殺人事件/シドニー・ルメット(1974)
まさにオールスターキャストの作品。長回しで撮られたイングリッド・バーグマンへの尋問シーンは圧巻。アカデミー助演女優賞を受賞。このみすぼらしく神経質な女性役を自ら選んだそうだ。ジャクリーン・ビセットは出番は短いが周囲の注目を集める華やかさを放っている。ローレン・バコールも豪奢ででしゃばりでおしゃべりな役がぴったりだった。<11月4日>
135.アパートメント/ジル・ミモーニ(1996)
恋愛を題材にしたサスペンスもの。入り組んだ人間関係と時勢を一度観てそれなりにわからせる脚本と演出はなかなかの腕前。特に主要人物4人がすれ違いながら絡んでくる後半部など。偶然の取り入れ方も上手い。なんともいえない複雑な思いを残して終わる空港でのラスト。よくよく考えると冒頭の指輪のシーンを受けているのに気がつく。ヴァンサン・カッセルの優柔不断さと偶然というのは本作のメインテーマなのだ。その彼がモニカ・ベルッティと良く待ち合わせるのがパリ6区のフュルスタンベール広場。こじんまりとして居心地が良い。映画のようにベンチはないですが。<11月6日>
136.人生劇場 飛車角/沢島忠(1963)
その後の東映任侠路線の嚆矢となった記念碑的作品。全編に低迷から脱しようとする必死のエネルギーのようなものが感じられる一作。着流しやくざスタイルを確立した鶴田浩二、切羽詰ったような体当たりの演技をみせる佐久間良子など役者陣も見事。そして高倉健。屈折や思いを内に秘めたストイックさにはじけたようなノリの良さを併せ持った魅力はこの頃ならでは。前半で人情が十分語られるので最後の義理が際立つというバランスも良い。高倉健が亡くなったのは2日後だった。<11月8日>
137.パンチドランク・ラブ/ポール・トーマス・アンダーソン(2003)
日常に潜む突発的な暴力やどこか不穏な雰囲気をシュールな映像で描き、一気に映画に引き込む冒頭のシーン。道路に残されたハーモニウムは何なのと問うなかれ。つかみに過剰な意味を求めてしまうと楽しめない。彩度の高いコントラストを効かせた映像はまるでファンタジーを観ているようだ。なかでもキスをする2人のシルエットに行き交う人々の姿が影絵のように重なるシーンは美しい。陳腐なラブストーリーをいかにヘンテコな感じで描けるか、とうことなのでスト-リーの必然性は希薄。<11月7日>
138.二十四の瞳/木下恵介(1954)
おなご先生は戦時下の現実を前に生徒と一緒に泣くことしかできない。一番出来の良い子が進学を諦めて大阪の女中奉公に出て肺病を患う。先生が先の長くない彼女を見舞うシーン。2人の無念の涙は胸を突く。「幸せになれる人などほんのひと握りよ」。川本三郎は、この一緒に泣くことに「子供にしてやれるかろうじての励ましであり、時局に対しての女性としてかろうじての抵抗であり、自分のために先生が泣いてくれたという事実がかすかな支えになる筈である」という意義を見出している。国破れて山河あり。ロングで自然の中の小さな人間をとらえるショットが要所で登場する。桜の咲く丘の上での電車ごっこを横移動で追うシーンは名場面。高峰秀子は当時29歳。翌年助監督の松山善三と結婚する。<11月20日>
139.善き人のためのソナタ/フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク(2007)
東ドイツの秘密警察の大尉(ウルリッヒ・ミューエ)が劇作家の盗聴を命じられる。大尉は盗聴行為を通じて腐敗した上司や組織の実態を知り、それに呼応するように、劇作家の人柄や職業人としての矜持に共感を抱いていく。劇作家もまた友人の自殺をきっかけに、体制内で成功した作家という地位から一歩踏み出すことを決心する。この2人に劇作家の恋人が絡み見応えのあるドラマが展開する。大尉がその職務を通じて劇作家を救ったことを知り、劇作家は映画題名の本を上梓し、その一部始終を公にする。終盤、ベルリンの壁が崩壊し元大尉はチラシ配りに身を落としている。元大尉が書店でその本を見つけて購う。「贈り物ですか?」「これは私のための本だ」。初めて信頼できる友を得たようなウルリッヒ・ミューエの笑みがすばらしい。<11月23日>
140.大脱獄/石井輝男(1975)
石井輝男と高倉健コンビの最後の作品。前半の網走からの雪中の脱獄劇、中盤のストイックな恋愛が絡む逃亡劇、後半のど派手なアクションの復讐劇と盛りだくさんの内容の一本。どさ廻りの踊り子を演じる木の実ナナの壊れそうな美しさが実にいい。菅原文太はフランス映画に出てきそうな、打算的な態度の陰に本心を隠しているようなクールな役。青山八郎のモダンな音楽もどこかフランス映画を思わせて秀逸。これを観た次ぎの日、菅原文太が亡くなる。嗚呼。<11月27日>
141.幸福の黄色いハンカチ/山田洋次(1977)
高倉健が出所した後、食堂で一杯のビールを飲むシーン。2日間食を断ってカメラの前に立ったことで有名だ。倍賞千恵子が高倉健を待ち続けているというのは、ある意味、自己犠牲による身勝手なヒロイズムの否定だ。ただしその否定は自身も自己を犠牲にしながら男を待っているような女によってしかなし得ないというトートロジー。1977年は夕張炭鉱が閉鎖された年だ。そんな男と女の幸福な関係も炭鉱町とともに消え去ったということか。同時に1977年は『岸辺のアルバム』の年でもある。そのことは遠い炭鉱町だけの話ではなかったようだ<11月28日>
142.コーヒー&シガレッツ/ジム・ジャームッシュ(2003)
11組の変なコンビがコーヒーと煙草を傍らに交わす会話をひたすら撮ったオムニバス。観ているとコーヒーが飲みたくなること請け合い。イギー・ポップとトム・ウェイツの犬猿コンビのおかしさ、ケイト・ブランシェットの驚愕の一人二役、最後の余韻が染み渡る「シャンパン」など。<11月30日>
143.無法松の一生/稲垣浩(1958)
戦前1943年版の同じ監督によるリメリク。男尊女卑の日本には男の自己犠牲を描く伝統はなかったそうだ。終盤、松五郎(三船敏郎)が急に向き直って居ずまいを正す、未亡人の奥さん(高峰秀子)は身の危険を感じたように思わず身を引いてしまう。身分の差を越えようとするかのような一瞬の思いとそれに対する残酷な反応を映像化した名シーンだ。伏線として花火の日に高峰秀子が初めて見せる女としての色気を直前にさりげなく描いているのも見事だ。脚本は野村万作。<12月3日>
144.娘・妻・母/成瀬巳喜男(1960)
小津っぽい成瀬という一本。麻布に赤字のタイトルバックからしてそれっぽい。配役も森雅之に高峰秀子、笠智衆に原節子という布陣。出戻り娘の再婚話(『麦秋』)、母親を引き取ろうとする義理の娘(『東京物語』)、娘を結婚させようと偽装する親(『晩春』)などエピソードもまさに小津だ。森雅之が、肝心なことを決めきれない、妹に借金を無心したあげく投資話に失敗するなどのダメ長男を演じですこぶる上手い。次女の姑役の杉村春子のうっとおしさも特筆もの。原節子は今まで観た中で一番自然な笑顔。仲代達矢とのキスシーンもあるのだ。逆に高峰秀子は埋もれてしまっている感が否めない。<12月4日>
145.愛・アマチュア/ハル・ハートリー(1994)
監督はNYインディーズの出身。記憶喪失の男と現実感を持てないで生きている女イザベル・ユペール。そんな2人が男の過去に犯した犯罪を巡り、自らのアイデンティティを自己確認していく。寓話のようなストーリーは必然性は希薄だ。ダミアン・ヤングが演じた髪ボサボサでひげ面のちょっといっちゃってる眼ののっぽの男、やたらと相手に同情してしまう女の警察官など脇役は変なキャラクターのオンパレード。主演の男マーティン・ドノバンが一番印象が薄い。<12月6日>
146.殺人の追憶/ポン・ジュノ(2003)
実在の未解決の殺人事件を題材にラストを未解決にしたままでどう途中のサスペンスを展開し、ラストのカタルシスを作るのかということにチャレンジして見事に成功している作品。事件に挑むのは田舎のデタラメ刑事ソン・ガンホとソウルから来た大学出の理論派刑事キム・サンギョ。2人の刑事が徐々に立場を逆転させていくところを喜劇的演出からシリアス劇への転換とあわせて描くところなども秀逸。ラストのなにかに打たれたようなソン・ガンホの表情が目に焼きついて離れない。80年代の雰囲気を造り込んだフィルム・ノワールっぽい映像もよかった。<12月9日>
147.グッドバイ・レーニン/ヴォルフガング・ベッカー(2003)
反体制デモに参加する息子を見かけたことがきっかけで意識を失い入院する母親。旧東ドイツの話だ。その直後ベルリンの壁が崩壊する。息子は母に刺激を与えないために母の前では東ドイツが存続しているふりをする。西側の風俗が否応なしに入り込んでくる戸惑いの中、かつては反体制でありながら東ドイツを延命させている息子の複雑な思いが描かれる。いっしょにあれこれ策を労して嘘に協力する映画マニアの同僚が実にいいやつ。監督自身もシネフィルらしく『2001年宇宙の旅』や『甘い生活』へのオマージュ映像などが登場する。おかしいと気づき始めた母親のために息子が考える東ドイツ終焉の話が泣かせる。最後、母はそれらがとっくに嘘だと気がつきながら何も言わず息を引き取る。母親役のカトリーヌ・ザースがきれい。<12月13日>
148.わが教え子、ヒットラー/ダニ・レヴィ(2007)
ヒットラーの演説の指南役ポール・デブリンの手記の映画化。その彼をウルリッヒ・ミューエが演じる。ユダヤ人だったというのはフィクション。ヒトラーとナチスのカリカチャライズとミューエの正義のいずれも不徹底で笑いも毒もあまり感じられない。ウルリッヒ・ミューエの遺作。<12月15日>
149.秋刀魚の味/小津安二郎(1962)
父は笠智衆、娘は岩下志摩という配役。いつものようにほのぼのとしたセリフ回しと妙にうきうきさせる音楽とともに極めて冷徹な現実認識が披露される。ヒョウタンこと恩師の東野英治郎のとうの立った娘杉村春子が涙を流すシーンは人生の取り返しのなさを感じさせて残酷だし、一方、娘岩下志摩が不本意な結婚に甘んじるというのも別の意味で残酷だ。ままならぬ人生、さらに父笠智衆には老いの孤独も迫り来る。平山家の誰もいない廊下や娘の部屋の空ショットがそれを象徴しているようだ。家族が不在の家が影の主人公のような映画でもある。小津安二郎は翌年60歳で死去。本作が遺作となった。<12月17日>
150.グエムル 漢江の怪物/ポン・ジュノ(2006)
ハリウッド製のCG技術を使いながら、およそ似つかわしくない、ゆるくてダメな家族が主人公の活劇というところがユニーク。最後の対決もホームレスの機転で形勢が逆転するというのも象徴的だし、生き残った男の子も限りなくゆるいというのもアンチクライマックス的で、ある種、ハリウッドへの批評性をも感じさせる。ラスト、漢江沿いのバラックで「飯だ」といって引き取った男の子といっしょに飯を食うシーン。ソンガ・ガンホは相変わらずすばらしい。<12月18日>
151.ハワーズ・エンド/ジェイムズ・アイヴォリー(1992)
この原作者とこの監督の組み合わせの作品でいつも思うこと。E・M・フォースターの原作は階級などの違いからくる人と人との分かり合えなさや時代の変化によって階級内にも生起しつつある葛藤などをテーマに丁寧に書き込まれたエピソードが積み重なって展開する物語。そのテーマは奥が深いが微妙で日常的だ。忠実に映画化すると一つ一つのエピソードが表面的にそそくさと語られるだけで、長い割には平板な一本になってしまう。例えば本作におけるレナード・バストという人物の行動は奇妙な印象を残すだけで、その背景にあるロウワー・ミドルクラスの心性などに思いを馳せることは決して容易ではない。イギリスの20世紀初頭の美しい風景や風俗が見られるのは原作にはない大きな楽しみなのだが。<12月21日>
152.わが町/川島雄三(1956)
「人間はからだを責めて働かなきゃあかん」。フィリピンでの難工事を指揮したことが自慢の文盲の車夫「ベンゲットのたぁやん」を辰巳柳太郎が熱演。たぁやんの頑なで一途で不器用ではた迷惑な愛情は周りを振り回し悲劇を生む。やがてそうした価値観と頑固な生き方自体が時代に取り残されてゆく。へぼ落語家殿山泰司、年食ったチョンガー小沢昭一、その母老け役北林谷栄など河童路地(がたろじ)の長屋に住む人々の暮らしが生き生きと描かれる。奥まった視点から撮られた路地空間も実に親密で魅力的だ。原作の織田作之助の実家は本作にも登場する一銭天婦羅屋だったそうだ。<12月23日>
153.煙突の見える場所/五所平之助(1953)
煙突とは足立区の千住火力発電所にあったお化け煙突のこと。荒川土手下のバラックのような借家に住む中年夫婦(上原謙と田中絹代)とその2階に間借りしている男女(芥川比呂氏と高峰秀子)。4人はそれぞれに戦争での傷跡や現状に対する鬱屈した思いを抱えて暮らしている。ある日、夫婦の元に赤ん坊が置き去りにされるという小さな事件が起き、4人に微妙な変化が起こってゆく。事件の顛末の後、それぞれの男女は何か吹っ切れたような明るい表情で暮らしを再開するのだった。原作(椎名麟三)とは異なり、下町の貧しい平穏な暮らしを舞台にしたのは、日常の小さくささやかなものの持つ大きな価値のようなものを伝えようとしたからではないか。ロケ地は西新井橋付近あたり。<12月24日>
154.赤い河/ハワード・ホークス(1948)
牧場のあるテキサスから鉄道が通っているカンザスまで牛を運ぶキャトル・ドライブと呼ばれた道中を描いた作品。もともとカウボーイが拳銃で武装しているのは、インディアンの居留区で犯罪も多かったオクラホマを通過する際の警護のためだったそうだ。ちなみに有刺鉄線の発明でこうしたカウボーイの時代は終わりを告げる。ストーリーは父と子の対決を軸に進む。前半がややダレるが「息子」モンゴメリー・クリフトが頑なな父ジョン・ウェインの指揮に反旗を翻すところから緊迫感を増す。一万頭の牛を運ぶという設定にあるように牛、牛、牛の存在感。スタンピード(暴走)や渡河のシーンなど見応えあり。最後の父子対決は唐突な和解でお茶を濁した感が否めない。ちなみに原作は父殺しで終わるそうだが、悪役とはいえ最後はジョン・ウェインを肯定するというシナリオに変更したのはハワード・ホークス。<12月27日>
155.宗方姉妹/小津安二郎(1950)
古い生き方の姉田中絹代、新しい生き方の妹高峰秀子。双方の価値観を対比するように展開する物語。小津作品にはめずらしい力に訴える悪役が姉の夫役で登場。山村聡が職がなく無為にすごす日々のなかでの追い詰められた人間の焦燥感や自己嫌悪や露悪的振る舞いなどを好演。作品全体の重要な重石となっている。小津はあくまで古い価値観にこだわって生きる姉夫婦の行動に寄り添っているようだ。最後「本当に新しいことはいつまでたっても古くならないことだと思っているのよ」という田中絹代にそれまでの迷いは見られない。<12月28日>
156.ゆきゆきて神軍/原一男(1987)
神軍を名乗る奥崎謙二が、自らがかつて所属した日本軍独立工兵36連隊残留隊において終戦後ニューギニアのウェワクで起こった部下射殺事件の真相を探る姿を追ったドキュメンタリー。いんぎんな態度による執拗な追求、やくざ顔負けの脅し、ハッタリ、突如としての暴力など驚くべき態度と執念で真相を追う岡崎の姿に唖然としながらも、この胡散臭い主人公に導かれるようにして我々がたどり着くのは、穏やかな表情の元日本兵の老人たちの口から徐々に明らかにされる、はるかに驚くべき戦時中の狂気の実態だった。この演技と自己顕示の塊のような主人公がなんと撮影後に当時の責任者だった上官宅を襲い長男を銃撃する。少なくとも真相究明と責任追及に関する思いは本気だったのだ。<12月29日>
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