トマス・ピンチョンの『LAヴァイス』(原題はInherent Vice)をポール・トーマス・アンダーソン監督が映画化している。2015年の4月18日から日本でも公開されている。映画のタイトルは『インヒアレント・ヴァイス』と原題に忠実だ。
映画を観る前に2012年に翻訳が出た当時から気にかかっていた本書を慌てて読んでみた。
トマス・ピンチョンは『スロー・ラーナー』、『競売ナンバ-49の叫び』に続いて3冊目。
本作は1970年前後のロサンゼルスを舞台にした探偵もの、ということで、すぐにレイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』 The Long Good-bye (原文精読はこちらから)を映画化したロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』(1973年)のことが思い起こされる。
ロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』は50年代のフィリップ・マーロウをヒッピーが闊歩する70年代に蘇らせ、ヒーローとしての私立探偵など必要とされない時代を生きるマーロウの姿を描き話題になった。
50年代の探偵さながらいつもスーツとネクタイ姿のエリオット・グールドだが、いずれもよれよれの代物だ。煙草が小道具の探偵をデフォルメした片時も煙草を手放さないマーロウ。そのチェーンスモークぶりは、健康ブームが始まった当時にあってはもはや犯罪的なレベルだ。一方、マーロウが注文する酒は「カナディアン・クラブ」のジンジャーエール割り(C.C. with ginger)というソフトなもの。もはやウイスキーのボトルが探偵のデスクの引き出しの必需品だった時代ではないのだ。さらにこのマーロウは、いかにもやもめ探偵らしく所望したボロニアソーセージのサンドの代わりにアイリーン・ウェイドが作ってくれたエスニックなバター・チキン(レシピはこちらから)に大いに感激したりもするのだ。
なんといっても極めつけなのは、エリオット・グールドのフリップ・マーロウが、チャンドラーの原作にあるようにクライアントにヘらず口を叩いたり、権力に悪態をつく代わりに、「まぁ、いいか」 ”It’s OK with me” を連発しながら、たいていのことに折り合いをつけながら生きるその姿だった。
カウンター・カルチャーが席巻する70年代のロサンゼルスで、時代とずれた探偵という存在が半ばあきらめ顔で周りと折り合いをつけながら探偵家業を続ける姿、時代や世間とのずれを飄々とした態度でうっちゃりながら何気なく自らの生き方を通すマーロウ、そんなマーロウ像が、妙にリアルで、現代的で、魅力的で、カッコ良かった。
ロバート・アルトアンのマーロウは、ヒーローなど成立しない世の中における「可能性としてのマーロウ」あるいは「可能性としての倫理」を描いてみせた。
しょぼくれたエリオット・グールドのマーロウが断然カッコよく見えるのは、我々の自らの可能性へ賭けることへの憧れの証だ。
「ボギー、ボギー、あんたの時代はよかった」(沢田研二『カサブランカ・ダンディ』阿久悠作詞 1997)、そんな時代における可能性とでもいおうか。
この映画においてテリー・レノックスはマーロウを騙し、利用し、負け犬呼ばわりする人物として描かれる。
最後、マーロウはメキシコに赴きレノックスを見つけ出し撃ち殺す。去って行くマーロウの後姿に「ハリウッド万歳」 Viva Hollywood がかぶさり、いつの間にかマーロウの足取りは踊るようなステップに変わっている。
原作と大きく異なるこのラストは、今のハリウッドが作る映画のラストは所詮こんなもんだ、原作のような、男のギリギリのプライドや友情、やるせない余韻などはもはやハリウッドでは映画にはならないのだ、というアルトマン一流の皮肉なのだろう。ちなみにこのラストを書いたのはリー・ブラケット。
さて『LAヴァイス』のことだ。
『LAヴァイス』の主人公 “ドック”と呼ばれているラリー・スポーテッロは、マリファナを愛好するヒッピースタイルの私立探偵。ヒッピーたちが多く住む海沿いのゴルディータ・ビーチ(ロサンゼルス国際空港のすぐ南に位置するマンハッタン・ビーチをモデルにしているとのこと。かつてヒッピーやヤク中やスチュワーデスが多く住んでいたエリアだそうだ)に事務所、その名もLSD探偵社を構えている。
『LAヴァイス』の舞台を知るにはトマス・ピンチョン自身が声の出演をしているプロモーションビデオが最適だ。
ピンチョンの声は実に渋くて驚くほど魅力的だ。ビデオの出来もなかなかだ。日本語字幕はないが本書の訳者でもある佐藤良明氏がこちらでナレーションを日本語に訳してくれている。1937年生まれのピンチョンは当時70歳を超えていたはず。
ドックは嘆く。
「なんつっても私立探偵は消えゆく種族だ。(中略)何年も前からそうだ。映画やテレビを見れば分かる。昔は偉大な私立探偵が目白押しだった。フィリップ・マーロウ、サム・スペード、それに探偵の中の探偵、ジョニー・スタッカート」
ジョニー・スタッカートはジョン・カサヴェテスが監督・主演のTV映画シリーズ『ジョニー・スタカート』(1959年~1960年)の主人公。
この一言から分かるようにドックは自らの時代遅れを自覚しているフィリップ・マーロウなのだ。
『LAヴァイス』はドックのもとに、すっかりコンサバな服装と髪型になった昔の恋人シャスタ・フェイ・ヘップワースが訪ねてきて、ある依頼を頼むことから話が始まる。
関係なさそうな別の依頼が重なり、死体がころがり、探偵が警察に拘留される。
『LAヴァイス』はアルトマンの映画というよりは、むしろ多くの点でその原作のチャンドラーの『ロング・グッドバイ』に似ている。
友人や昔の彼女など知り合いからの依頼で話が始まる。そしてその依頼にはあることが隠されている。女や友人に騙される。悪の道に染まった友人。権力内部での抗争。腐れ縁的な関係の警官の存在。精神病院や胡散臭い医者の登場。苦悩を抱えた作家やミュージシャン。錯綜するストーリー。食べ物へのこだわり。結局、報酬はもらえずじまい。そして、事件は本質的な意味では解決しないで終わるというラスト。
アルトマンは50年代の探偵を70年代に呼び戻して当時の風俗とハリウッドを風刺した。
ではトマス・ピンチョンは1970年に時代遅れを自覚する探偵を登場させて何をたくらんだのか。
すばり、探偵にインヒアレント・ヴァイスに立会う存在をみたのではないか。インヒアレント・ヴァイスは保険用語で保険の対象とならないような「内在する欠陥」あるいは「どうしても避けられないこと」を指している。
チャンドラーの『ロング・グッドバイ』において、最後、真実は明らかになるものの、マーロウは誰も助けることが出来ないで終わる。
第二次大戦で引き裂かれた一組の男女。二人はまるで避けがたい出来事のように再び出会い、悲劇が起こる。変わってしまった男と変われなかった女。テリー・レノックスとの出会いから始まった出来事は、まさにインヒアレント・ヴァイス、防ぎようにない瑕疵のように思えてくる。
マーロウは無意識のうちに自らの役割を自覚しているかのように事件に巻き込まれてゆく。マーロウが誰も助けられないのは、その事件が戦争というものが内在している邪悪が引き起こした出来事だったからだ。
1970年はアメリカの大きな転換点だった。60年代の理想と自由と混乱の時代から70年代以降の現実と保守と秩序の時代への転換点だ。
本書では、ヒッピー文化の終焉の象徴とされるチャールズ・マンソン事件がたびたび言及される。チャールズ・マンソン事件とは、ヒッピー風貌のカルト教祖のチャールズ・マンソンが共同生活を送るファミリーのメンバーの一員に1969年8月9日にロマン・ポランスキーの妻で当時妊娠8ヶ月だった女優のシャロン・テートら5人を殺害させた事件である。
ラブ&ピースのカウンター・カルチャーの頂点といわれるウッドストックが開催されたのが1969年8月15日~18日。
そのヒーローのジミ・ヘンドリックスが死亡するのが1970年9月18日。ジャニス・ジョップリンも1970年10月7日に後を追いように死亡している。いずれもドラッグが直接、間接の原因だったと言われてる。
60年代にJ・F・ケネディやリンドン・ジョンソンなど民主党の大統領のもとでヴェトナムへの軍事介入が段階的に拡大し、60年代後半にはヴェトナム戦争は泥沼化していた。1969年1月20日、共和党のリチャード・ニクソンが「法と秩序の回復」を掲げて大統領に就任する。『LAヴァイス』では、ニクソン政権による保守化するアメリカの様子がそこここで描かれる。ニクソンと一緒に赤狩りに協力したことで有名な当時カリフォルニア知事だったロナルド・レーガンも登場する。
トマス・ピンチョンが1970年に探偵に立ち会わせたインヒアレント・ヴァイスとは、アメリカに内在している理想と自由の挫折だったのだ。
「そんでもってこっちのリアルな世界じゃ、オレたちのような私立探偵は月々の家賃だってろくに払えやしない始末だ」
「だったらなんでやめないの?サクラメント・デルタあたりでハウス・ボートにでも住めば?ハッパ吸って酒呑んで釣りしてファックして。ほら、老いぼれヒッピーたちがやるようにさ」
「ついでに、しょーもないことに文句垂れて、か?」
ドックは自覚的だ。老いぼれヒッピーのように生きられないことを。老ヒッピーのように幸せな境地に落ち込めないことを。
「すっとタマが潰れるような思いをして、他人にためになるんだったら、お礼なんか半オンスのマリワナでも、ちょっとした好意のお返しでも、いや、ただの感謝の微笑だって、それが心からのものだったらいいやという気で働いてきた。金を払ってくれた顧客は何人いただろう」
「オレがこんなに一生懸命なのはさ ―― 自分のこともどうにもできないくせに、いやどうにもできないからこそ ――」
ドックのインヒアレント・ヴァイスへの戦い。勝ち目のない戦い。
ドックは単なる時代遅れのヒッピー探偵なのか?時代遅れのモラルは裏切られ、利用され、終わるのか?
大いに似ている『LAヴァイス』とチャンドラーの『ロング・グッドバイ』だが、相違点もある。しかも重大な。
フィリップ・マーロウは誰も助けられないで終わるが、トマス・ピンチョンの探偵は、ヘロイン中毒で権力により反政府活動の監視役のようなことをさせらているているサックス奏者(死んだことになっているという設定がまたもやテリー・レノックを思い起こさせる)を無事、救い出し家族のもとに返してやる。
挫折のなかでもなお希望は語れる、ドックの行動はそう物語っているようだ。
本書では1970年前後のカルチャーシーンが縦横に語られる。音楽、映画、TV、ドラッグ、フード etc.そうしたトリビアルな話題によって蘇ってくる往時のリアルな雰囲気。ピンチョンの魅力のひとつだ。
『ローマの休日』(ウイリアム・ワイラー監督 1953)と『三大怪獣地球最大の決戦』(本多猪四郎、円谷英二監督 1963)が同じ構造を持っていると喝破するドックの解釈には思わず膝を打ってしまった。後者はキングギドラとゴジラ、ラドン、モスラが対決するあの名作だ。若林映子がサルノ王女を、ザ・ピーナッツがインファント島の小人姉妹を演じたこの作品をトマス・ピンチョンが観ていたというだけでも日本人にとっては感涙ものだ。
脈絡がなく発散していくような展開が難解だとよく言われるトマス・ピンチョンだが(もっとも本書はピンチョン作品のなかで最も読み易いものといわれている)、時折、ナイーブな叙情の発露や情景描写に思わずはっとするような箇所に出くわすのも、また別のピンチョンの特徴であり魅力である。
ラストでドックはフリーウェイで海からの霧に巻き込まれる。このラストシーンなどもそのひとつだ。
「サンタモニカ・フリーウェイに乗ったドックが、南に向かうサンディエゴ・フリーウェイへ入ろうとするあたりで、夜の海から霧が巻いてきた。顔面の髪を押しのけ、ラジオのヴォルームを上げ、クールに火をつけて、丸めた背中を座席にもたせかけたのんびりモードで、世界がゆっくりと失われていくのをドックは眺めた」
先が見えない霧の中、ハイウェイの車はまるで全員が協力しあって寄り添って進むキャラバン隊のように前の車のテールライトが見える距離を保ってノロノロと進む。それはお互いに助け合うコミューンのようだ、とドックは思う。
「ヒッピーを除いて、この町の人々が、どんな行為であれ無料で行うことは珍しい」
「気がついたらドックは、ビーチ・ボーイスの「ゴッド・オンリー・ノウズ」を一緒になって歌っていた。ガソリンの残量はまだ半分以上、それにプラス、ゲージがゼロになってから走れる分も入っている。コーヒーは<ズーキーズ>から容器にいただいてきたし、タバコもほとんど一箱残っている」
なんともいえない幸福感と居心地の良さ。霧の中の渋滞で出現した一時的なコミューンのイメージは素晴らしい。この霧の中のコミューンは、本書でエピローグとして掲げられている「舗道の敷石の下はビーチ!」という1968年5月のパリの落書きを思い起こさせる。
それは単なる一時の幻想にすぎないのか?
途中でガス欠になったら?とドックは思う。
「そのときはキャラバンを離れ路肩につけて待たなくてはならない。何を?何であれ待つ。(中略)霧が晴れ、その後にどうしてか、今度は別の何かが出現するのを」
霧が晴れた後、何ものかを待ち続けるドックの姿。それは挫折の後でも生きていかざるを得ない諦念のようにも、あるいは挫折の後でもかすかに残る不屈のモラルの現れのようにも、そのいずれのようにも見える。
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