鎌倉近代美術館の名で親しまれた神奈川県立近代美術館が2016年1月31日で閉館した。
坂倉準三の設計による日本におけるモダニズム建築の至宝だ。
鶴岡八幡宮の森のなかに、たった今、舞い降りたような端正な白いヴォリュームは、何度見ても、その清新な印象に、思わずはっとさせられる。
歩みとともに内から外へ、外から内へと視線が移動し、風景が変わる一階の空間。平家池に張り出すように設けられた居心地の良いテラス。I型鋼で支えられた白い軒には池の水で反射した光が踊っている。
東京帝国大学文学部美学美術史学科を出た坂倉準三は、建築家になりたい、どうしてもル・コルビュジエの下で建築を学びたいと思い、パリに向かう。1929年(昭和4)のことだ。1931年にル・コルビュジエの事務所に入所して、一時帰国をはさんで約8年間、ル・コルビュジエの事務所に在籍した。
坂倉準三の処女作は1937年のパリ万博の日本館だ。再渡仏してル・コルビュジエの事務所で設計したものだ。その年の建築コンクールでグランプリを受賞している。このパリ万博日本館こそ、坂倉生涯の最高傑作といわれ、かつ、その後の世界のモダニズム建築に多大な影響を与えたといわれている歴史的作品だ。
(1937年パリ万博日本館)
建築史家の藤森照信はこう指摘している。パリ万博日本館の垂直の柱と水平の梁による表現が、その後のミース・ファンデル・ローエによる、鉄とガラスの超高層ビルのプロトタイプとなった鉄の柱と梁の機能美のルーツではないかと。(坂倉準三の木造モダニズム 『建築家坂倉準三 モダニズムを住む』 2010より)
軸組構造による日本建築の持つ軽さや簡素さをモダンズムデザインと融合させた簡潔で清楚な建築が、周囲の地形や樹木に寄り添うような姿に世界は目を見張った。
(1937年パリ万博日本館模型,sourece:http://blog.goo.ne.jp/kyao2/e/5dd4efcae08068ffa3b1b2be679e223f)
板倉準三は、戦後も神奈川県立近代美術館(1951)をはじめ、東京日仏学院(1951)、国際文化会館(前川國男、吉村順三との共同設計 1955)など端正なモダニズム建築を作っていく。日本におけるル・コルビュジエの唯一の作品である国立西洋美術館(1959)の詳細設計を担当したのも坂倉だ。
1950年半ば以降、坂倉準三は、都市設計とでも呼ぶべき分野でも活躍していく。おりしもの高度経済成長を背景に都市は大きく変貌していた。
東急会館(1954)、東急文化会館(1956)、京王線連絡通路(1961)などの一連の渋谷計画、小田急新宿西口本屋ビル(1967)と新宿西口広場による新宿西口計画など、私たちがいつも目にしている渋谷や新宿のターミナルの風景は、坂倉の手によるものだ。
(渋谷駅周辺,source:http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/building/news/20120524/569534/)
(新宿駅西口)
これらの作品は、初期の繊細で端正なイメージの建築像とはやや異なった印象を与える。それは既存の施設や周囲の建物と調和し、都市の機能を破綻なく支える一要素としての日常としての建築であった。
坂倉自身は、作家性の追求より、さまざまな都市機能をうまく整合させていく、こうしたリアリズムの建築や匿名性の高い都市設計に、むしろこれからの建築家の役割を積極的に見出していた。
「わたしは現代のような社会で、私企業と四つに取り組むのは建築家として本当のことだとおもいっています」坂倉はこう述べている。
坂倉にとって作家性よりも重要だったのは、師であったル・コルビジュエの『輝ける都市』の実現、人間のための新しい都市の建設、「大建設事業の時代」における都市計画の実践だった。
しかしながら、作家性の後退と日常性の前景化の背景にあった最大の要因は、消費社会の勃興だ。
戦前のパリ万博日本館は、戦前におけるこれからの日本の建築像をめぐる激しいせめぎあいのなかで生まれ、戦後すぐの神奈川県立近代美術館は、厳しい予算や限られた材料という大きな制約のなかで実現した作品だった。モダニズムが社会の理想や民衆の幸福や自由を語り、現実の変革を目指した時代だ。
その後、理想や幸福や自由は大量のモノを媒介にした消費社会のなかで実感されてゆく。建築に理想や自由を求める時代は終わり、都市は人々の欲望を反映したさまざまな意匠をまとい増殖していく。
坂倉準三の匿名性のモダニズム、日常性のモダニズムは、無限定に増殖していくその後の都市への彼なりの回答だったのかもしれない。
1969年7月、坂倉の作った新宿西口広場は、警察の指導で西口通路として改称されるようになる。前年の新宿騒乱事件以後に毎週末に西口広場で開かれていたヴェトナム戦争に反対する反戦フォークゲリラなどを排除するためだ。
(新宿駅西口広場,1969年撮影:山田脩二)
この広場の最後を見届けるかのように、坂倉準三は1969年9月1日に死去する。
坂倉の一連の渋谷計画もすでに一部は新たな建物に建て替わり、理想を求めたモダニズムの残り香を漂わせた建物もまもなく失われ、いずれはすべてが消え去る予定だ。
あれから50年を経過し、日本はあらゆるところで消費社会の行き詰まりを感じている。
坂倉準三の神奈川県立近代美術館は、モダニズムが理想と幸福と自由を語った時代を象徴するように、今も清新な美を放って、そこに佇んでいる。
*神奈川県立近代美術館の建物は、今後、鶴岡八幡宮の管理の下、保存されることになっている。
*初出 zeitgeist site
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