洋風の住宅や低層マンションが建ち並ぶ東京・駒場の静かな住宅街のなかに、独特の和様式の建物が忽然と姿を現す。柳宗悦が創設した日本民藝館だ。
本館と道路を隔てた向かいには、旧柳宗悦邸の西館がある。ファサード部分は、栃木県から移築した1880年に建造された長屋門が設えられている。大谷石の石屋根が珍しい。
2つの建物の設計は、柳自身が手掛けている。漆喰なまこ壁、瓦屋根、連子子(れんじこ)が設けられた窓など、本館の意匠は、西館の長屋門に合わせたものだ。
柳宗悦はそれまで省みられることがなかった普段使いの素朴な品々に美を見出し、そうした無銘の美を生み出した手仕事による工芸品を民藝と呼んで、朝鮮半島や日本各地から蒐集した。
日本民藝館は柳が蒐集した民藝の収蔵・展示の場として、1936年(昭和11年)に創設されたものだ。陶磁・染織・木漆器・絵画・金工・石工・編組など約17,000点が集められている。
その日は「沖縄の工芸」と題して、当時は文化的に遅れていて、貧しい地域としか思われていなかった戦前の沖縄で柳宗悦が「発見」した工芸品の数々が展示されていた。
柳は「用の美」、「無心の美」、「健全な美」、「他力の美」を提唱し、全国の同士とともに民藝の生産・流通を目指した民藝運動を展開する。
(*『柳宗理エッセイ』より)
柳が民藝論を唱える約40年前、同じように、手工芸への回帰、生活と芸術との統一を訴えた運動が、イギリスで起こっている。ウイリアム・モリスらによるアーツ・アンド・クラフツである。
民藝もアーツ・アンド・クラフツも、その根底には19世紀末に始まった産業革命により、低質な工業製品が出回ったことへの異議申し立てがあった。
柳はモリスに共感を覚えていたが、同時に、モリスは「正しき工藝的な美を知らなかった」、「彼自らが試み、彼が他人にも勧めたのは工藝ではなく、美術であった。いわば美意識に惑わされた工藝である。私たちが脱却しなければならぬと思うものを、彼は試みようとしたのである」(『民藝四十年』 柳宗悦)と述べて、最後は高価な「貴族的工藝」(『民藝とは何か』 柳宗悦)に行き着いてしまったアーツ・アンド・クラフツ運動を批判した。
そうした矛盾を自覚していたからか、晩年のウイリアム・モリスは、デザインを離れ、社会主義運動にのめり込んでゆく。
一方、工業生産を否定しながら、手仕事による日常の美の量産を目指した柳らの民藝運動も、その作家性の否定がいつの間にか教条主義の陥穽にはまり、モノ自体の力が失われてゆく。
「民芸運動は陶工に一つの理論を与えた。彼等はその理論の上にあぐらをかいて銘々の作品を失ったのである。これを私は抽象的になったと言いたい」(『青山二郎全文集 上』 青山二郎)。
青山二郎や白洲正子など当初の仲間は柳のもとを離れていった。
しかしながら、アーツ・アンド・クラフツ運動の矛盾や民藝運動の自家撞着の責が、モリスや柳自身にあったとは必ずしもいえない。真の原因は、近代化とその後、世界を席巻する資本主義システムにあった。
資本主義システムのなかでは、誰もが効率化や市場化の流れを避けて通ることはできず、一方では、個人主義や理性主義以前のイノセントなアンコンシャス・ビューティ(Unconscious Beauty)に戻ることは不可能なのだ。
そうしたなか、手仕事へのこだわりは、不可避的にコストアップにつながり、民衆のなかにあった無意識の美の希求は、知らず知らずのうちに手の強張りを生んでしまう。
その隘路を乗り越えようとする試みが、バウハウスであり、バウハウスを始祖として生まれたモダンデザインだといえる。バウハウスの本質は、産業時代を前提としながら、人と社会につながったデザインを目指す運動だったといえる。
1919年のバウハウス設立からもうすぐ100年。はたしてモダンデザインは隘路を乗り越えられたのか。
資本主義システムのなか、デザインは常に効率化、市場化の圧力の下に置かれている。社会との接点を希求したはずのモダンデザインが、いつの間にか産業と市場のためのデザインに堕してしまう。売れるデサインが良いデザインであり、モデルチェンジのための陳腐化戦略がとられ、キャッチーなスタイリングが喜ばれる。
デザインは100年後も相変わらず、そんな危うい断崖を歩むような行為だ。
あるべき姿を見失いがちになった時、そんな時は日本民藝館を訪れてみよう。
モダンデザインが勃興する前夜の無銘の美に浸ってみよう。なんの衒いもなくモノが社会とつながっていたといえる時代のモノのエネルギーを感じてみよう。作為という言葉すらなかった時代に人間の手が生み出した簡潔な色と形に触れてみよう。
(*白磁壺 金沙里窯 朝鮮時代〔朝鮮半島〕17世紀末期~18世紀初期 53.8 x 43.3cm,source: http://www.mingeikan.or.jp/collection/korea01.html)
「ペリアンはたびたび民藝館にやってきた。ブルーノ・タウトもグロピウスもイームズ夫妻もコルビュジエも民藝館にやって来て、陳列してある民藝品を見て感激していた」(『柳宗理エッセイ』 柳宗理 2011)
日本民藝館に置かれたモノは、モダンデザインの永遠の参照項なのである。
*参考文献 : 『民藝四十年』 柳宗悦(岩波書店)
『民藝とは何か』 柳宗悦(講談社学術文庫)
『柳宗理エッセイ』 柳宗理(平凡社ライブラリー)
『青山二郎全文集 上』 青山二郎(ちくま学芸文庫)
*初出 zeitgeist site
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