今から53年前の1964年の東京オリンピックによって東京の街は様変わりする。
当時の日本が威信をかけたモダンデザインのレガシー(遺産)、その光と影を今の東京に追った。<前編>では青山、代々木エリアに東京オリンピック1964のレガシーを訪ねる。
<現在、建て替え中の国立競技場。消え去りつつある周囲に残る昭和の痕跡>
最初に1964年10月10に開会式が開かれた旧国立競技場跡地を訪ねてみた。旧国立競技場は2020年の東京オリンピックに向けて建て替えが決まり、既に解体されている。
(*source: http://net-research.org/trendnews/)
当初のコンペで当選したザハ・ハディッドの計画案を巡って一大論争が巻き起こったことは記憶に新しい。モダンデザインはその象徴性や機能性に優れていれば建築単独で評価できるのか、あるいは、モダンデザインと言えども、そこで育まれてきた地域の文脈や歴史性を考慮すべきなのか、論争はモダンデザインの本質とも関わりながら沸騰した。
国立競技場を巡る論争は、コストとスケジュールという、いつもながらの土建的要因が前景化するなかで霧消し、結果的にコンペのやり直しが行われ、隈研吾のデザインで新たに新国立競技場として建設することで決着となった。跡地では2020年に向けて急ピッチで工事が進んでいる。
槌音が響く旧国立競技場跡地に隣接した二つの集合住宅も1964年の東京オリンピックと関連が深い建物だ。
明治公園の南側にあった都営霞ヶ丘アパートは、もともとあった長屋形式の都営住宅を、東京オリンピックを機に建て替えたものだ。明治公園や首都高などオリンピックにあわせた開発で立ち退きを余儀なくされた人の住まいにもなったそうだ。敷地が旧国立競技場の建て替えの際の開発エリアに組み込まれ、現在は解体されている。
児童公園にはもう誰も姿もなく遊具だけが取り残されている。当時は都心にも子供が溢れていたのだ(写真は解体中の2016年のもの)。
都営霞ヶ丘アパートの南側に建つ外苑ハウスは、もともとはオリンピックのためのプレス宿舎として日本住宅公団が作り、後に分譲されてマンションとなった建物だ。こちらも既に建て替えが決まっている。集合住宅の黎明期を忍ばせるシンプルで潔いデザインの建物ももうすぐ姿を消す。
<レガシーの代表。丹下健三による類まれなる傑作国立代々木競技場>
なんといっても東京オリンピック1964のレガシーの代表といえば、世界のタンゲの傑作国立代々木競技場(代々木第一体育館、代々木第二体育館)だ。
天地の間に潜む巨大な力学を一瞬のうちに空中で凍結させたような、この類まれなダイナミズムは、吊り屋根方式によるものだ。
吊り屋根で大空間作った建物は、当時すでに先行事例があった。マシュー・ノヴィッキーのノースカロライナ・アリーナやエーロ・サーリネンのイェール大学アイスホッケー場だ。丹下はこれらの事例を参考にしながら、吊り屋根の弱点だった、造形面の単純さ(吊り屋根はアーチ状の構造材にワイヤーを吊って屋根を架けるため、どうしてもその形が重力に応じた単純なものになりがちだ)や規模の限界を乗り越える。
平面をずらして巴形にすることにより円や楕円の単純な形状から抜け出すとともに、ワイヤーと吊り鉄骨を併用したセミ・リジッド構造により、屋根が徐々に競りあがりながら天に向かって飛翔するような独特の屋根フォルムを実現する。それはコンクリート造のスタンド部分が、あたかも巨大な翼をもたげるようにしながら大地から離れ、天に伸びる垂直な壁柱に成り行く造形とあわせて、今まで誰も想像したことがない力の造形が出現した。
代々木第一体育館が類まれなる傑作なのは、モダニズム思想を徹底した純粋ジオメトリック(幾何学)なフォルムでありながら、例えば、法隆寺伽藍の金堂と五重塔の屋根稜線が重なる風景や唐招提寺金堂の屋根の緩やかな流れなど、日本建築における大屋根によるモニュメンタルな建築を、見るものすべてに自然と想起させるところにある。
それは理性の勝利、モダニズムデザインの到達点として、オリンピックという祭典の高揚感を具現化するとともに、当時の日本の悲願であった、一流国の仲間入りにふさわしい象徴として昇華させた国民建築だった。
こちらは同じ丹下健三による代々木第二体育館。第一体育館に比べ規模が小さいためか、あまり注目されないが、円の求心性を渦巻状に造形化したデザインは秀逸だ。
<代々木公園に残る旧ワシントンハイツの遺構>
代々木会場のこのあたりは米軍宿舎の旧ワシントン・ハイツのあった場所。その前身は陸軍代々木錬兵場だった。東京オリンピックが契機になり、旧ワシントンハイツがアメリカから全面返還され、米軍宿舎の建物が選手村として使われた。代々木公園の一画に選手宿舎として使われた旧米軍住宅が一棟だけ残っている。ゆったりとした平屋住宅は、「フェンスの向こうのアメリカ」の豊かさに目を見張っていた当時の日本の姿を想像させる。
旧ワシントンハイツ跡地は、その後、代々木公園として整備され、憩いとスポーツのメッカとなって現在に至っている。
<表参道の歴史を映し出しながら佇む、その名もコープオリンピア>
今日では当たり前になったマンションとよばれる都市型集合住宅が本格的に普及していくのも東京オリンピックの時期だ。1962年に「建物の区分所有等に関する法律」が制定され、第一次マンションブームが興る。
原宿駅前の五輪橋の袂に建つのが、今やヴィンテージマンションの代名詞となったコープオリンピア。オリンピック翌年の1965年の竣工だ。当時の価格で一億円を越える日本初の億ションとしても有名になった。設計は清水建設の鉾之原捷夫。三島由紀夫の自邸の設計者として知られている人物だ。
オリンピックの前に近くに越してきた小林信彦は、そのころの表参道は「郊外みたいなところ」だと印象を述べている(『私説東京繁盛記』 小林信彦 1984)。
同潤会の青山アパートはあったものの、当時の表参道はオリエンタル・バザールやキディ・ランドなど駐留軍家族向けの店か、やはり駐留軍関係の貿易商などが居住するセントラル・アパートなどしか目ぼしい建物はなく、行き来する人も少なく閑散とした雰囲気だったという。
今日の表参道の繁栄のきっかけもやはり1964年の東京オリンピックだった。旧ワシントンハイツの返還を機に、駐留軍家族に代わって、時代の先端を求める日本人たちが、点在するアメリカ文化の香りに惹かれて集まってくる。その後の表参道のハイカラなイメージはこうして始まった。
雁行するガラスのファサードに当時からの表参道の歴史を映し出しながら、コープオリンピアは50年前と同じようにケヤキ並木を前に静かに佇んでいる。
<中編に続く>
*参考文献 : 片木篤,『オリンピック・シティ東京1940-1964』,2010,河出書房新社
竹内正浩,『地図で読み解く東京五輪』,2014,ベスト新書
丹下健三・藤森照信,『丹下健三』,2002,新建築社
豊川斎赫,『丹下健三とTANGE KENZO』,2013,オーム社
*初出 zeitgeist site
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