1932年(昭和7年)、ニューヨーク近代美術館(MOMA)で「モダン・アーキテクチャー:インターナショナル展覧会」Modern Architecture : International Exhibitionと題された建築展が開催される。館長アルフレッド・H・バー・Jr.のもと、MOMA初のこの建築展の企画にあたったのが建築史家のヘンリー=ラッセル・ヒッチコックと後にMOMAの建築部門チーフキュレーターとなるフィリップ・ジョンソンの二人だ。
(*Modern Architecture : International Exhibition 1932,source:https://www.moma.org/calendar/exhibitions/2044)
同時に二人による『インターナショナル・スタイル ― 1922年以降の建築』という書籍が出版される。ヒッチコックとジョンソンは、この書籍でヴァルター・グロピウス、ル・コルビュジエ、J.J.P.アウト、ミース・ファン・デル・ローエなどのヨーロッパのモダニズム建築を取り上げ、これらにみられるデザイン的特徴がこれからの新しい建築のあり方だとして、デザインを類型化し、インターナショナル・スタイルというひとつの様式として原理化する。
(*The International Style: Architecture since 1922,source:https://www.pinterest.jp/pin/450641506443458822/)
1920年代のヨーロッパで起こったモダニスムは、もともとは市民社会の理想を実現する社会思想をベースに生まれた運動だ。1917年のロシア革命の影響も大きかった。
ヒッチコックとジョンソンらは、ヨーロッパのモダニズムの背景にあった民衆のための正義という社会思想をきれいに捨象し、インターナショナル・スタイルというアメリカが太鼓判を押した意匠商品として仕立て上げる。政治力と経済力での勝利が明らかになっていた当時のアメリカが唯一必要としていたのはヨーロッパの文化だった。
《ヴォリュームとしての建築》、《規則性》、《装飾付加の忌避》がインターナショナル・スタイルの三つの原理として提示される。
書籍は建築展以上に話題になり、これをきっかけに、インターナショナル・スタイル(日本では国際様式と呼ばれていた)という言葉とイメージが世界中に普及してゆく。
単純化されたフォルム、直線と面による構成、均質な空間など、今日、世界のいたるところでみられる、いわゆるモダニスム建築が世界を席巻していく。
アメリカが主導的立場を確立したのは建築界だけではなく、美術界も同様だった。ファシズムが忍び寄るヨーロッパで「退廃芸術」として非難されていたダダやシュールレアリスムなどの前衛芸術家たちを受け入れ、時代にふさわしい芸術として賞賛したのもアメリカだ。自由の価値を尊ぶ新時代の文化リーダーはアメリカであるというわけだ。ソ連を意識した冷戦プロパガンダという意味合いも大きかった。
大きな役割を果たしたのが、先の建築展を主催したMOMAの館長のアルフレッド・バーや美術批評家のクレメント・グリンバーグらだ。
(*Philip Johnson & Alfred H. Barr Jr., source:http://www.architecturelab.net/alfred-h-barr-jr-and-philip-johnson-partners-in-design/)
アルフレッド・バーは、MOMAの展覧会「キュビスムと抽象芸術」(1939年)」で一枚のチャートを提示し、芸術は最終的にはすべて抽象芸術に向かうと主張する。
さらに当時の美術評論界を牽引したクレメント・グリンバーグは、絵画にとって重要なのは、主題ではなく、キャンバスや絵の具そのものに語らせることだとのフォーマリズムの立場から抽象芸術の価値を説く。
インターナショナル・スタイルとして普及したモダニズム建築と戦後のアメリカにおける抽象表現主義絵画の隆盛は無縁ではない。
コルビュジエのドミノ・システムが示すように、モダニズム建築は、柱とスラブ(床)で加重を担い壁をフリーにした。自由な立面と自由な内部空間がモダニズムのスローガンとなる。
(*ル・コルビュジエによるドミノ・システムのスケッチ,source:https://en.wikipedia.org/wiki/Dom-Ino_House)
その結果、大きな白い壁に囲まれた均質な内部空間(ホワイトキューブ)が出現する。この抽象化された白い均質空間には、もはや、印象派はもちろんのこと、キュビズムすら似合わない。唯一ふさわしいのは抽象絵画であり、さらには、大きな壁面は、絵画を大型化させる。
象徴的なエピソードがある。
ペギー・グッゲンハイムは、ユダヤ人の富豪グッゲンハイム一族の出自で、1930年代のヨーロッパで、まるでスコット・フィッツジェラルドの小説の主人公のような人生を過ごし、パリやロンドンのアートシーンで名を馳せ(一時はマックス・エルンストの奥さんだった)、戦局が悪化してニューヨークに帰国した後は、現代アートのコレクター兼パトロンとなった人物。ニューヨークやビルバオにあるグッゲンハイム美術館を創設したソロモン・グッゲンハイムは叔父にあたる。ペギーが晩年に住んだヴェネチアの自邸も現在、グッゲンハイム美術館となっている。
ペギー・グッゲンハイムが、自らのアパルトマンを改装した際の玄関ホールの大きな壁を飾る壁画を依頼したのが当時まだ無名のジャクソン・ポロックだ(★1)。
(*《壁画》の前のペギー・グッゲンハイムとジャクソン・ポロック,source:
https://www.ggccaatt.net/2015/06/17/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3-%E3%83%9D%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF/)
《壁画》 Mural(1943)と名づけられた幅6.05m×高さ2.47mという巨大な作品(★2)は、当時まだシュールレアリスムの影響下にあるような絵を描いていたポロックが、より抽象的な世界へと脱皮するきっかけとなった作品であり、かつ、ドリッピングやポーリング(絵の具を垂らしながら描く手法)やオール・オーヴァー(画面をくまなく埋め尽くす手法)など、後にポロックの作品を特徴づける手法の萌芽が認められるというまさに転換点となる作品だった。
(*《壁画》,source:
https://www.ggccaatt.net/2015/06/17/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3-%E3%83%9D%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF/)
《壁画》をみたクレメント・グリンバーグは、「ひと目みて、ジャクソンがわが国が生んだ最も偉大な画家であることがわかった」と最大限に賛辞した。
この作品がきっかけとなり、ペギー・グッゲンハイムが主宰する今世紀美術館やMOMAでの個展を開催され、子供のいたずら書きだ、まるで壁紙のようだ、と揶揄されながらも、ジャクソン・ポロックは、アメリカを代表する現代アートの旗手として注目を集めるようになる。
画家仲間だった、ウィレム・デ・クーニンは、ジャクソン・ポロックへの注目と、その後のアメリカにおける現代アートの隆盛を「ジャクソン・ポロックが氷を割った」と表現した。
量感や素材感や装飾を排除して、均質で単純な面や線で構成することを推奨したインターナショナル・スタイルによる建築の抽象化は、ホワイトキューブを生み、必然的に抽象表現絵画を呼び寄せた。
後日譚は、お決まりの、そう、時代の変化というやつだ。どんな天才をもってしても時代に抗うことはできない。
アメリカに移った後のグロピウスは都市や建築の非人間化を嘆き、ミースは高層ビルから距離を置き沈黙を守り、コルビュジエはロンシャンの礼拝堂(1955)のようなインターナショナル・スタイルとは程遠い作風に移行する。当のヒッチコックは60年代に入り、インターナショナル・スタイルの死を宣言し、建築家となったフィリップ・ジョンソンはいつの間にかポストモダンの旗手へと変貌する。
美術界においても、60年代に登場したポップアートによって、、芸術は抽象芸術へ向かうというアルフレッド・バーによる芸術進化論は急激に色褪せ、大衆文化をキッチュとして下位に置くグリンバーグの言説は批判に晒されていった。
その後、カウンターカルチャーは挫折し、ポップアートは下火になり、ポストモダンはすっかり流行遅れになり、世界はすっかり消費社会に覆われた。
ミース風のガラスの箱で埋め尽くされた世界の都市の姿や現代アートがワンハンドレッド・ミリオンダラー(100億円)を超える価格で取引される現実を見る限る、われわれの住む世界は、自国オリジナルの文化を作ろうとしていた、あの頃のアメリカの夢と企てがすっかり実現した世界のようにみえる。
(★1)ペギー・グッゲンハイムのアパルトマンはインターナショナル・スタイルで建てられた建物ではなくニューヨークによくみられるブラウンストーン外壁の建物だったそうだが、内部の壁を壊し大空間を作り、そこを飾るのに抽象アートが選ばれたことには変わりはない。
(★2)実際は壁画ではなく大型のキャンバスに描かれた。ペギー・グッゲンハイムにキャンバスに描いてもらうように助言したのは、ヨーロッパ時代からの友人でニューヨークにアトリエを移していたマルセル・デュシャンだったそうだ。
*参考資料:
ヘンリー=ラッセル・ヒッチコック、フィリップ・ジョンソン 『インターナショナル・スタイル』 鹿島出版会 1978
ART TRACE PRESS 01 ART TRACE 2011
藤枝晃雄 『ジャクソン・ポロック』 スカイドア 1994
ペギー・グッゲンハイム 『20世紀の芸術を生きる』 みずず書房 1994
エド・ハリス監督 [映画] 『ポロック 二人のアトリエ』、2002
テレサ・グリフィス監督[ドキュメンタリー映像],「ポロック その愛と死」,1999
University of Iowa Museum of Art, Mural, available at
<https://uima.uiowa.edu/collections/american-art-1900-1980/jackson-pollock/mural/>
Hans Namuth(Director),Jackson Pollock ’51[Motion Picture],1951. available at
<https://www.youtube.com/watch?v=KNwvUco146c>
Jackson Pollock’s MURAL [Motion Picture],available at
<https://www.youtube.com/watch?v=qY9leqZUMIk>
Abigail Cain, The Myth of Jackson Pollock, Peggy Guggenheim, and the Masterpiece Created in One Night, available at
< https://www.artsy.net/article/artsy-editorial-story-pollock-guggenheim-masterpiece-created-one-night>
*初出 zeigeist site
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