モダンデザインを一言でいうとシンプルなデザインということになるだろう。
広辞苑には「シンプル」とは「単純なさま」とある。シンプルとは、色・かたち・素材が簡素で抑制されているさまである。
シンプルはモダニズムの専売特許ではない。また、建築やプロダクトのデザインに限られるというわけではない。シンプルという価値観はどこから来たのか。シンプルの具体的な現れ方とは。シリーズ《シンプルの系譜》では、さまざまな切り口でシンプルの様相を探ってみる。
足利義政(1436-1490)は室町幕府中期の第8代将軍であり、今日、銀閣寺(慈照寺)として知られる東山山荘の造営など、いわゆる東山文化とよばれる文化の創始者として知られている。
(銀閣寺(慈照寺)、photo by oilstreet-en:Ginkaku-ji)
足利義政の将軍としての評価は最悪のものだ。
飢饉で苦しむ民をよそに、天皇の勧告を無視して「花の御所」と呼ばれる足利家邸宅の改築にいそしみ、猿楽や酒色にふける日々を送っていたことは有名だ。自らの後継者争いがきっかけとなり応仁の乱(1467-1477)が勃発。目的が不明瞭なまま、この戦乱は11年間も続き、京の町は灰燼に帰してしまう。三十三間堂と六波羅密寺と千本釈迦堂以外はすべて焼失したと言われている。大名たちが細川勝元の東軍、山名宗全の西軍に分かれ戦うなか、将軍義政の態度は、意志薄弱、優柔不断、二転三転し、戦乱を収拾するどころか、対立と混迷に拍車をかける。史上最悪の無能な将軍といわれた。
(足利義政木像、慈照寺蔵、source : http://photozou.jp/photo/photo_only/197391/195616032?size=1024#content)
足利義政は家庭人としても幸薄い人生だった。
実子(義尚)への後継にこだわる妻・日野富子との確執から応仁の乱に巻き込まれ、私財を肥やす富子の守銭奴ぶりに嫌気がさした義政は、早々と別居を決め込み、別邸の建設を急ぐ。莫大な蓄財をしながら、富子は夫の東山山荘造営のための資金はびた一文出そうとはしなかったそうだ。義政は隠居後、第9代将軍として最終的に跡目を継いだ実子義尚との仲も上手くいかず、そうしたなか義尚は義政より先に23歳で病没してまう。
足利義政が生み出した東山文化は、その前後で日本の美の概念を一変させ、その後の日本の美意識を決定づけたといわれ、足利義政は新たな美の創造者として賞賛されている人物でもある。
「このあたり(引用者注:応仁の乱の時期)に発生する美意識がなぜ「簡素」と「空白」をたずさえたか。義政をはじめ、戦乱に倦んだ当時の都人の胸に去来した心象が、ものの感じ方に影響をおよぼしたかもしれない」(原研哉『白』、中央公論新社、2008)
「日本史上、義政以上に日本人の美意識に影響を与えた人物はいないとまで結論づけたい誘惑に駆られる。これこそが義政の欠点を補う唯一の、しかし非常に重要な特徴だった。史上最悪の将軍は、すべての日本人に永遠の遺産を残した唯一最高の将軍だった」(ドナルド・キーン『足利義政と銀閣寺』、中公文庫、2008)
足利義政の生み出した新たな美は、慈照寺(銀閣寺)の東求堂(1485年)にある同仁斎と呼ばれる空間に象徴されている。この四畳半の空間は茶室の原点となった空間であり、襖や障子による建具、全面畳敷きの室内、違い棚や付書院の床飾など、この空間フォーマットは、後年、書院づくりと呼ばれ、今日のすべての伝統建築やいわゆる「和室」の原型となったといわれている。
(慈照寺東求堂同仁斎、source:『日本の建築空間』、新建築社、2005)
すべて直線で構成された空間、計算されたアンシンメトリーの配置、自然素材の色と白のコンビネーション、額縁のように切り取られる外の庭の景観。そこはそれまでの寝殿造りには見られない、抑制と簡素さと私性が支配する空間だ。
慈照寺(銀閣寺)の造営には能阿弥が深くかかわっているといわれている。能阿弥は絵画、連歌、書、香道などに通じた人物で、義政に茶の湯の村田珠光を紹介する。村田珠光は、一休宗純から禅を学び、後に千利休によって完成されたわび茶の創始者だ。義政はここ同仁斎の空間でわび茶を実践した。
わび茶あるいはそこから生まれた<わび・さび>とはなにか。それは完全性を否定し、作為を否定する美意識だ。
「冷え枯れ」「和漢のさかいをまぎらかす事」「月も雲間のなきはいやにて候」「心の師とハなれ、心を師とせざれ」などの村田珠光の残した言葉はそれを象徴している。
既成の完成された美(平安期のみやび)を否定し、さらにはそれらを企てる人の心や意思という作為を否定する価値観。度がすぎた完璧さにどこか胡散臭さを感じ、これみよがしの自意識や自己顕示には決まって嫌悪を抱き、なにごとにも抑制された簡素さを尊ぶ、日本人の価値観の源泉はここにあるといっても過言ではない。
何故、義政は新しい美意識をプロデュースできたのか。足利義政は茶の湯はもちろん、能、連歌、そして和歌をよくする当代きっての文化人でもあった。
「わが思ひ神さぶるまでつつみこしそのかひなくて老いにけるかな」(★1)
「憂き世ぞとなべて云へども治め得ぬ我が身ひとつにただ嘆くかな」
「くやしくぞ過ぎしうき世を今日ぞ思ふ心くまなき月をながめて」
「何事も夢まぼろしと思ひ知る身には憂ひも喜びもなし」
御所や寺社仏閣の建築を始め、襖や屏風や調度の数々、書画骨董、着物やさまざまな装飾品など、それまでの日本文化が蓄積した文物をことごとく焼き尽くした応仁の乱。そのなかでほとんど無力に終わった自らの将軍としての人生。さらには私生活における蹉跌。
(応仁の乱を描いた紙本著色真如堂縁起・下巻(部分)、真正極楽寺蔵、source : https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Shinnyod%C5%8D_engi,_vol.3_(part).jpg)
無念、悔恨、失意、喪失感、無力感。義政は次第に人間の意志や欲望そのものの空しさに思い至ったのではなかったか。伝統、歴史、文化、建築、人の意志の作りだすもののはかなさ、そして人の意志自体の無力さ。義政はそれを深く実感したに違いない。
無常観や虚無感が単なる厭世や無為に終わるのではなく、負のエネルギーを新たな価値に昇華させたところに義政の創造者たる所以がある。
無常のなかでさえ、虚無のなかでさえ、すべてが空しいなかでさえ人は生きていかざるを得ない。そうしたあとに唯一残される美とは一体いかなるものか。唯一在りうべき空間とは一体どういうものか。同仁斎の空間は、そうした認識が作り出した空間ではなかったか。
それはなにものかを悟った後のような、あるいは、虚無を覗きながらも生きていかざるを得ないという静かな諦観を伴ったような、穏やかなだが冷徹な覚悟を感じるような、そんな印象を受ける究極のシンプル空間だ。
権威の衰えが明らかだった将軍義政は、守護大名からの資金調達を断られ、寺社からの強制的な資金調達や人夫派遣、京都や奈良の有名寺社からの略奪的な名木珍石の調達によって慈照寺(銀閣寺)は造営された。
それは周りを省みない、趣味に遁走する老将軍の専制と横暴とプライドのなせる業であったと同時に、自己を否定しながらも自己を表現せざるを得ないという、義政の至った究極の人間認識の結果だった。
シンプルは、作為や表現を否定しながらも、作為や表現から逃れられないというアイロニカルな人間認識から誕生した。足利義政という《シンプルの系譜》はそう教えてくれる。
(★1):「神さぶる」は古色を帯びるまでの年月の長さを表現する動詞
*参考文献 : 山崎正和『室町記』(講談社文庫、1985)
ドナルド・キーン『足利義政と銀閣寺』(中公文庫、2008)
原研哉『白』(中央公論新社、2008)
呉座勇一『応仁の乱』(中公新書、2016)
*初出 zeitgeist site
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