『昭和住宅物語』(新建築社、1990年)は、建築家であり建築史家である藤森照信が、昭和の名作住宅を訪ねる探訪記です。
現存(1980年代当時)する昭和の名作住宅を実際に訊ね、設計した建築家やその関係者から話を聞き、世界の巨匠建築家からの影響を見定め、今の住宅につながるルーツを探り、今まで知られてこなかった当事者だけが知る内幕が語られます。
本書は建築家としての住宅観を語ったものではありませんが、ひとつの住宅を歴史の流れのなかで読み解くという、建築史家ならではの視点からの住宅論が逆にユニークです。
歴史というと、専門的過ぎて退屈で敬遠したくなるイメージがあるかもしれませんが、その昔「建築探偵団」の中心人物として一般書籍で人気を博した元祖街歩きオタク藤森照信の語り口は、平易で楽しげで堅苦しさは一切ありません。
藤森照信の案内で昭和の名作住宅とその歴史のいくつかを探訪してみましょう。
遠藤新の<加地邸>はライトのプレイリー様式による住宅の傑作
フランク・ロイド・ライトは、帝国ホテル(1923年・大正12年)などの作品を残すとともに、多くの弟子たちを介して、直接、間接に日本の近代建築誕生に大きな貢献をしました。
加地邸(1928年・昭和3年)は、相模湾を遠望する葉山の高台の木立の中に建っています。築90年を経て今も現存している貴重な歴史的建築です。
銅板葺きの緑青屋根の水平性、控え目なエントランス、パーゴラ風の屋根が架けられたテラス、自然の表情を刻んだ大谷石のファサードなど、一目でフランク・ロイド・ライトのプレーリースタイルとわかる住宅が完璧と言ってよいほどの完成度で佇んでいます。
高低差や吹き抜けなどを組み込んだ流動する空間、縦横に入れ子のように組み合わされた部屋、暖炉、内装と一体化したオリジナルの家具など、内部空間もまさにライトという雰囲気です。
加地邸を設計した建築家遠藤新は、ライトが帝国ホテルの設計で来日した際にその設計スタッフに加わり、<自由学園明日館>をライトと共同設計するなど、ライトからの信任厚い愛弟子でした。
遠藤の忠実で完璧なライト風の作風の陰に、師ライトの建築を宇宙や生命との関係で考える、ある種の教祖性と人生に悩む求動的で内省的な弟子遠藤新の稀有な出会いがあったと藤森は読み解きます。
世界の巨匠ライトの手になると見まごうばかりの、プレイリー様式の傑作住宅が日本に残されたのは、このライトと「ライトの使途」と呼ばれた遠藤の幸福な子弟関係があったからこそといえます。
ライトは遠藤新のために占領下の日本からの移住を許可する嘆願書をダグラス・マッカーサー宛に書いています。この移住許可は却下され、すでに病に伏していた遠藤新は二度とアメリカの地を踏むことなく亡くなりました。
今も残る、白いモダニズム住宅の元祖<土浦亀城邸>
土浦亀城邸(1935年・昭和10年)は、遠藤新の後輩で、同じライトの弟子だった建築家土浦亀城が作った自邸です。築80年を超えた今も、長者丸(東京都品川区)の静かな住宅地に佇んでいます。木造の住宅が80年たって現存していること自体、住宅が平均30年で建て替わってしまうというこの日本においては、奇跡に近いことだといっても過言ではありません。
加地邸とは対照的に、こちらは白い箱型のモダニズムスタイルで建てられています。
藤森照信が「土浦邸には<日本のモダニズムの青春>が詰まっている」と言うように、土浦邸は日本における白いモダニズム住宅の元祖であり、そのシンプルで潔い姿は、今見ても全く古さを感じさせません。
土浦邸の新しさはデザインだけではなく、木造住宅において乾式工法やフラットルーフにチャレンジした当時における実験住宅でもありました。今や当たり前になった乾式工法や無印良品などが手掛ける白い箱型の都市型住宅のルーツはここにあるといえます。
土浦亀城・信夫妻は、そろってタリアセンのフランク・ロイド・ライトのもとで建築を学んでいます。同じ時期にリチャード・ノイトラなども在籍していました。
同じライトの弟子ながら、まったく異なる作風の住宅を残した二人。その分かれ目にいたのが、チェコ出身でパリのオーギュスト・ペレ(ル・コルビュジエも在籍していました)の事務所を経て来日したベジドフ・フォイエルシュタインという人物の存在だったと言います。
フォイエルシュタインは同じチェコ出身で、遠藤や土浦と同じライトの弟子であったアントニン・レーモンドのパートナーとなり、土浦やレーモンドは、フォイエルシュタインを介して、ヨーロッパのモダニズムに出会い、ライトの作風から脱していったのでした。
アントニン・レーモンドはその後、ライト以上に日本の近代建築史に大きな足跡を残していきます。本書ではレーモンドの木造によるモダニズム表現を実践した傑作「夏の家」が取り上げられています。
<食>が中心の暮らしを先取りしていたダイニング・キッチン誕生の物語
(*UR都市機構の集合住宅歴史館に移築された蓮根団地(1957年・昭和32年)の2DK住戸のダイニング・キッチン)
本書では建築家が設計した住宅に限らず、プレハブ住宅、ダイニング・キッチン、ステンレス流し台など、今の住宅においてすでに当たり前になっていることのルーツも探られます。
ダイニング・キッチン(DK)は、1951年(昭和26年)に建設省が公営住宅のための標準設計とし開発した<51C型>と呼ばれる間取りがその発祥です。
<51C型>は京大の西山夘三による<食寝分離論>をベースに、東大の吉武泰水と鈴木成文が具体化したプロトタイプが基本になっています。
<食寝分離論>とは、文字通り食事の部屋と寝室を分離するということですが、その根拠となったのは、戦前の庶民が住む長屋の間取り調査において、どんなに狭い住宅でも食事用の専用スペースが確保されていたこと、つまり<食事室の優先性>という原則を発見したことだったと西山は藤森のインタビューで答えています。
最小限の住まいにおいて、人は居間や寝室よりも食事室を優先する。リビングルームが住まいの中心のように考えがちな現代において、この事実は新鮮に響きます。<食事室の優先性>という事実は、機能的で居心地が良いキッチンや食卓が家庭の核となるライフスタイルなど、今の<食>を中心にした暮らしとも相通じるようで、今も昔も変わらない日本人の暮らしの感性のようなものを感じさせられ感慨を覚えます。
このDK空間が生活のなかに定着していく過程で重要な役割を果たしたのが、ステンレス流し台でした。ステンレス流し台は、住宅公団(現在のUR都市機構の前身)の主導のもと、建築家浜口ミホのデザインにより、今はなきサンウェーブの創業者柴崎勝男が日本で初めてプレス加工による製品化に成功したものです。
それまでの人造石研ぎ出し(ジントギと言われていました)に代わる、水漏れがなく清潔で明るく輝くステンレスの流し台が主婦の人気を集め、モダンなDKのイメージが憧れになり、公団住宅の人気につながっていったと浜口は証言しています。
この明るく清潔なイメージのキッチンを備えたDKが、その後、現在のLDやLDKスタイルに発展していきました。40㎡に満たない最小限の間取りの工夫から始まった試みが、今日のモダンリビングにつながっていくのでした。
未来は突然やってくるわけではありません。今は過去にあり得た選択枝のひとつであり、未来はカタチを変えた今なのです。本書が伝える昭和の名作住宅の姿は、終わってしまった過去ではなく、今と未来につながる生き生きとした姿なのでした。
藤森照信(1946-)
東北大学建築学科卒業後、東京大学大学院生産技術研究所で村松貞次郎に師事し、近代日本建築史を研究。東京大学名誉教授。東京都江戸東京博物館館長。『明治の東京計画』他で日本建築学会賞(論文)受賞。建築探偵団、路上観察学会の中心メンバーとしてアカデミック外の活動でも有名。1991年に建築家としてデビュー。代表作は「赤瀬川原平邸」、「タンポポハウス」など。
*初出 : houzz site
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