モダンデザインを一言でいうとシンプルなデザインということになるだろう。
広辞苑には「シンプル」とは「単純なさま」とある。シンプルとは、色・かたち・素材が簡素で抑制されているさまである。
シンプルはモダニズムの専売特許ではない。また、建築やプロダクトのデザインに限られるというわけではない。シンプルという価値観はどこから来たのか。その具体的な現れ方とは。シリーズ《シンプルの系譜》では、さまざまな切り口でシンプルの様相を探ってみる。
桂離宮はモダニズムとの関連で語られてきた。曰く、「日本的なもの」こそがモダニズムの理想であるとの格好の証として。
実際はどうなのか。今回の「シンプルの系譜」では、実物(建築や庭園)としての桂離宮ではなく、さまざまに語られたテキスト(文章や写真)としての桂離宮を追ってみる。
ブルーノ・タウトの桂
ブルーノ・タウトは1933年5月3日、シベリア経由で日本に到着し、その翌日に桂離宮を訪れている。日本インターナショナル建築会からの招待を機に日本へ政治亡命したのだった。本国ドイツにおいて、親ソ派とみなされていたタウトは、政権を握ったナチスから職と地位をはく奪されていた。
ブルーノ・タウトは桂を「泣きたくなるほど美しい」との言葉で大いなる感激とともに賞賛し、「私は桂離宮の”発見者”だと自負してもよさそうだ」と日記に書きつけた。
「趣味が洗練の極致に達し、しかもその表現が極度に控え目である」「ここではおよそ装飾的な要素はすべて省略され、洗練された趣味はもっぱら高雅をきわめた釣合にのみ求めることができる」(ブルーノ・タウト『日本の美の再発見』所蔵「永遠なるもの」)
タウトは簡素で実用的でありながら、美しく高貴さをたたえた芸術的存在として桂を称賛した。同時に、その美の原理は決して歴史的、日本的にとどまるものではなく、完全で、超時間的で、現代的であると評した。
「桂離宮は歴史的規範であるばかりでなく、実にそれ以上である。桂離宮は-すでに超時間的な完全性を具えている個々の形式を僅かばかり変改しさえすれば、-現代建築においても創造の基礎となり得るような一切の原理と思想とを含んでいるからである」(前掲書所蔵「日本建築の世界的奇蹟」)
こうしたタウトの桂礼賛は大きな影響を与える。ナショナリズムが台頭するなか、帝冠様式vs近代建築(国際建築)で揺れる当時の日本の建築界において、劣勢に立たされていた近代建築派は、タウトの言説にモダニズム建築の格好の拠り所と正統性を見出し、その結果、「モダニズムとしての桂」という神話が生まれてゆく。
「このような建築物は実に、究極の細緻な点が合理的には把握し得ないがゆえに古典的なのである。その美はまったく精神的性質のものである」(ブルーノ・タウト『ニッポン』所蔵「桂離宮」)
「建築の世界的奇蹟たる桂離宮の御殿とその林泉とは、多くの関係の融通無碍な結合を表現している。個々の部分がそれぞれ具有する独自の力、その完全な自由と独立とは、それにもかかわらず鞏固(きょうこ)な鎖のような円満具足した全体的統一を形成している」(前掲書所蔵「日本建築の世界的奇蹟」)
「この奇跡の真髄は、関係の様式-いわば建築せられた相互的関係にある」(前掲書所蔵「日本建築の世界的奇蹟」)
しかしながら、こうしたタウトの実際の言葉は、モダニズムというよりも、高貴さや芸術性や精神性や関係性の美学に重きが置かれているように見える。表現主義者タウトの眼に映じたのは300年経てなお色褪せない桂の美であり、ブルーノ・タウトの桂とはその美への素直な驚きと喜びの表現だった。
タウトはグロピウス、あるいはコルビュジエやミースのようなモダニストではなかった。
タウトの言葉を巧みに我田引水して、世界的建築家によって見出された「モダニズムとしての桂」という神話を生み出したのは日本のモダニストだった。日本インターナショナル建築会はもともとそうした意図と目的をもってタウトを招聘したのだった。
日本とタウトのズレ。残された著作の多さに比べ、タウトの日本での建築的成果はほとんどない。大学で地位を得たいという希望も拒否されている。
期待のすれ違いに耐えられなくなったように、タウトは日本からトルコに渡り、大学教授、政府顧問の地位を得て、再び建築家として活躍し、2年後に彼の地で客死する。タウトがトルコで残した建築作品には「日本的なもの」の影はほとんどみあたらないそうだ。
石元泰博の桂
石元泰博は最初の写真集『桂 日本建築における伝統と創造』(1960年、1971年)を、生垣、石、苔、板、畳、障子などのクローズアップから始める。後年、印刷精度を上げて改めて世に問うた白黒写真の決定版とも呼べる『桂離宮』(2010年)においても、御輿寄席の延段(庭に設けられた石張りの通路)のクローズアップから始まり、石や苔のクローズアップが10枚続く。
建築や庭園などを被写体にした写真集としては、部分のクローズアップから幕を開けるというのは極めて珍しい。
さらに石元の写真では、「むくり」のついた書院の屋根は慎重にカットされ、入母屋屋根が写らざるを得ない全景写真は注意深く避けられ、グロピウスやタウトらが手の込んだ装飾性を嫌った新御殿の桂棚や庭の蘇鉄の植え込みの写真も見当たらない。
きゃしゃな柱によって支えられたまるでピロティのように見える高床、垂直・水平の線材と障子によって構成されたモンドリアンのような幾何学的なファサード、白と黒が支配するミニマルな色彩、わび・さびと同時にアブストラクトなイメージを宿す石や苔や木目のテクスチャ etc.
アメリカに渡った写真家モホリ=ナジ・ラースローが開設した、「ニューバウハウス」と呼ばれたシカゴ・インスティチュート・オブ・デザインを卒業した、バウハウスの美学を身につけたこの写真家の眼は徹頭徹尾モダンだ。
同じ石元により後に出されたカラーの写真集(後述)に載った桂が、ごく普通の古屋の表情を宿している(当たり前だ)のに比べ、白黒の桂は、圧倒的にミニマルでモダンな印象を与える。2010年の白黒写真集においても、石元は徹底してモダンな桂にこだわっている。
石元泰博の桂において、「モダニズムとしての桂」は具体的なイメージとして実体化した。
丹下健三の桂
丹下健三は『桂 日本建築における伝統と創造』の石元泰博の共著者である。「日本建築における伝統と創造」は巻頭に置かれた丹下の論文の題名でもある。
丹下は「桂の書院は、寝殿造りから書院造りにいたる上層系譜の伝統、弥生的性格を ― 静的な平面性、平面的空間性、そのようなエスセティックな形態的均衡が支配している ― その基本的性格としてもっている」とする一方で、「庭のそこかしこの石組、また庭に点在する茶亭は、農民層住居にみられるような縄文的性格を秘めている」と記す。その縄文的性格として「生成的エネルギー、奔放な流動性、未形成な形態感、均衡を失った破調」が挙げられる。
「この二つの系譜の伝統は、日本歴史上はじめて、この時期に、この桂でぶつかりあうのである。この上層文化の系譜と下層のエネルギー、弥生的な文化形成の伝統と縄文的文化生成のエネルギーとが、ここで伝統と破調として、ディアレイティクに燃焼しあうことによって、この桂の創造はなしとげられたとみてよいだろう。ここには伝統と創造の論理があくまでも貫徹されている」と結論づける。
丹下は広島平和記念資料館(1952年)、自邸(1953年)、旧東京都庁舎(1957年)など1950年代の作品において、桂的、弥生的繊細さをモダニズム建築として表現することに成功しており、この論文が書かれたのは、次のステップを模索していた時期に当たる。
後年、国立代々木競技場(1964年)や東京カテドラル聖マリア大聖堂(1964年)などに結実することになる、繊細さとダイナミックさ、日本と西洋、伝統とモダンを弁証法的に止揚する方法論である。丹下の、書院=弥生的、庭・茶亭(わび・さび)=縄文的という、やや強引な桂の見立ては、この方法論の実践に向けた戦略的スタンスだったといえる。
「桂を否定し、破壊しようとするのも、また現代に私たちにとっての、伝統と創造によってあるのである」という言葉でこの論文は結ばれる。
丹下健三の桂は、「日本的なもの」とモダニズムとの関係に決着をつけるようとする、昭和の国家的建築家の覚悟が語られた桂だった。
磯崎新の桂
磯崎新は、石元泰博が昭和の大修理と呼ばれた解体修理の後、2回目に桂離宮を撮影(1981年と翌年)したカラー写真集『桂離宮-空間と形』(1983年)に論文「その両義的な空間」を寄せている。
磯崎は、タウト以降の「モダニズムとしての桂」が切り捨ててきた要素に焦点を当てて桂離宮を読解してゆく。
例えば、偶発性やズレ。
桂離宮の建築は、古書院、中書院、新御殿と四半世紀を経ながら建てられら三つの建物が、雁行しながら奥へと連続するように配置されている。このズレは平面だけではなく立面にも認められ、三つの建物は床の高さや立面が微妙にズレながら連結されている。この偶発的なズレが桂の「たゆたうような快楽」や「微妙な諧調」を生み出していると磯崎はいう。
例えば、混淆や重層。
桂の様式は、格式的な書院造りを数寄屋化(庶民化、趣味化、自由化)させたものといわれるが、同じ数寄屋化でも、田園的あこがれを虚構化した「草庵風書院」の古書院に対して、新御殿は軽快さや華麗さなどより雅(みやび)な趣を強めた「綺麗座敷」と呼べるようなデザインである。これまでの「モダニズムとしての桂」においては、古書院の簡素さ、透明性を高く評価する一方で、新御殿のきらびやかな装飾性は、堕落、遊びとして切り捨てられてきた。しかしむしろ、この2つの意匠の混淆と重層こそが、桂の魅力になっていると指摘する。
このほかに、円環的な時間性を感じさせる回遊式庭園における回遊する視線の魅力、『源氏物語』の舞台のモデルとなった藤原道長の桂殿跡といわれ、さまざまな文学的アリュージョン(隠喩)が空間に織り込まれた時間の織物として桂の魅力などが語られる。
対立的要素が「相互に心地よい関係をとり結び、絶妙な均衡を保持しながら、あでやかな快楽を誘いだす」ことができることこそ、「桂が古典たる所以である」と結論づける磯崎新の桂は、硬直したモダニズムの先を模索するこの建築家らしい、マニエリスム的桂、ポストモダン的桂であるといえる。
*参考文献 :
ブルーノ・タウト『ニッポン』(森儁郎訳、講談社学術文庫、1991年)
ブルーノ・タウト『日本の美の再発見』(篠田英雄訳、岩波新書、1962年)
丹下健三・石元泰博『桂 日本建築における伝統と創造』(中央公論社、1971年)
石元泰博『桂離宮-空間と形』(岩波書店、1983年)
磯崎新『建築における「日本的なもの」』(新潮社、2003年)
井上章一『つくられた桂離宮神話』(弘文社、1986年)
*掲載写真はすべて石元泰博『桂離宮』(六耀社、2010年)より
*初出:zeitgeist site
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