建築家の槇文彦は、1970年代に、おもに個人住宅作品によって世に登場した当時の若手建築家たちを「野武士」と命名しました。(「平和な時代の野武士たち」、『新建築』1979年10月号)
間接的な言及ですが建築家・安藤忠雄も「野武士」の一人として名前が挙げられています。
周知のように安藤忠雄は、既存の建築アカデミズムとは無縁のところから出発した建築家であり、まさに「野武士」と呼ぶにふさわしい建築家です。
日本建築学会賞受賞、プリッカー賞受賞、東京大学教授など、今や名実ともに日本を代表する建築家の安藤忠雄ですが、自らの原点は住宅設計にあると随所で語っています。
今回は安藤忠雄が、自らの原点である住宅を語った『家1969-96』(住まいの図書館出版局、1996年)と『安藤忠雄 住宅』(エーディーエー・エディッタ・トーキョー、2011年)を読んでみます。
安藤建築の特徴は、コンクリート打ち放しという素材と幾何学形態への限定とこだわりによって、機能主義の建築にはない、純化された精神性を感じさせる空間を創り上げるところにあります。打ち放しと幾何学以外には手を伸ばさないそのストイックな姿勢は、本人自らが、自分の建築は「どこでも一緒」と思われてもしかたがない、というほど徹底しています。
安藤は自らの建築のルーツは、若き日の世界の建築をめぐる旅で目にした初期モダニズムの建築にあると語っています。
「初期モダニズムの瑞々しい感性に触れ、そこに限界よりも、無限の可能性を感じた私は、新しい時代の建築のために、否定すべきはモダニズムの原理ではなく、その利便性だけを借用して安易な大量生産を続ける経済至上主義の社会風潮であると考えるに至った。そして私が自らに建築の課題と心に抱いたのが、モダニズムによる原理的な建築手法で、いかにしてその場所しかできない空間をつくれるか ― 即ち、普遍性と地域性の対立的共存である。その課題を最も端的にかつ直接に表現する初段として、住宅があった。厳格な幾何学による構成と、限定した素材の使用という、初期モダニズムの建築言語にこだわりながら、その中に引き込む光、風といった抽象化された自然を持ち込むことによって、その場所に息づき呼吸する住まいをつくっていく ― 『住吉の長屋』に始まる私の都市住宅の試みはここから始まった」
モダニズムが教条主義と批判され、歴史、脱構築、ヴァナキュラーなどポスト・モダンのキーワードが話題になり始めた60年代後半から70年代にかけて、何故、安藤忠雄(だけ)が、こうした時代の表層に流されないスタンスを取り得たのでしょうか。
それは、安藤忠雄が中心や主流ではない場所におり、正規の制度や既存の権威とは無縁であったという、建築家としての周縁性、非正規性にあります。
東京ではなく大阪を拠点としていたこと、、大阪下町の生家での狭く暗い、モダンリビングとは真逆のニ間長屋の原体験、元ボクサー志望というエピソードからうかがえる身体性への眼差し、建築家を志望しながら大学進学を断念せざるを得なかったこと、その結果、正規の制度を経ずに独学で建築を学んだこと、など、安藤の出自は、いわゆる「建築家」のそれとは大きく異なります。
安藤は、「初期モダニズムの瑞々しい感性」の代表例として、ル・コルビュジエの<サヴォア邸>とミース・ファン・デル・ローエの<ファンズワース邸>を挙げています。
安藤が揚げたこの二人のモダニズムの巨匠も、同じく、周縁的、非正規的建築家だったといえます。コルビュジエは、スイスの時計職人の家に生まれ、大学での教育を受けておらず、パリでは異邦人でした。ミースは、ドイツの石工の家に生まれ、職業訓練校の出身で、アメリカに亡命を余儀なくされた人物でした。安藤が熱心にその作品を見て回った建築家の一人であり、「装飾は犯罪であると」と宣言したアドルフ・ロースも自国(オーストリア=ハンガリー二重帝国)の辺境性を痛感していた建築家でした。
「日本のモダンリビングといわれるものは、近代というものを深く思考することなしに、西洋の生活様式やスタイルだけを真似たものであるから、真の近代住宅がそうであったように、自我の確立を目指す<個人>が意思表示をする場としての器になっていない」
<個>に契機を持つ初期モダニズムが求めた理想の実現、モダニズム精神の徹底を掲げた安藤が<抵抗>と<闘い>を挑んだのが、高度経済成長の帰結として、快適な均質空間のなかで安住し、<個>を喪失してしまっている70年代の日本社会と日本人でした。
「外部環境への<嫌悪>と、<拒絶>の意思表示としてファサードを捨象し内部空間の充実化をめざすことによって、そこにミクロコスモスを現出せしめ、あらたなリアリティをその空間に追い求める」
最初期の「都市ゲリラ住居」(1972年)と題されたマニフェストに、<外部>(既成の社会や権威)を拒絶し、<内部>=<個>を唯一の拠りどころとする若き「ゲリラ」安藤忠雄の登場の軌跡が鮮やかに記されています。
安藤の「常識はずれ」で「反時代的」な作品は、批判と議論を呼びながら、確実に新しい住宅像や空間イメージを切り開いていきます。「雨の日は、傘なしではトイレにも行けない」と揶揄された<住吉の長屋>(1976年)は、1979年に日本建築学会賞を受賞します。
「反時代」が、機能と効率の時代に倦んでいた多くの人びとの心を射抜き、新たな価値となっていきます。
安藤は自らの住宅は決して一般解ではなく、主流をなすものではない。メンテナンスが必要であり、寒く、住みにくいとも公言しています。安藤のもとを訪れる依頼人の約半分は、それを聞いて依頼を取りやめると笑いながら語っています。
それでも、安藤流の繊細なテクスチャーのコンクリート打ち放しはすっかり建築の素材・表現として定着し、設計を手がけた住宅は200棟近くに上り(未完のものも含めて)、快適さや住みやすさという価値観を超えて、安藤建築の個性に魅せられる人は後を絶ちません。
それは、抑制や簡素さのなかに精神的贅沢という新たな価値を創り出した一種の<質素革命>だったといえます。安藤建築の本質は、「ゲリラ」による<質素革命>だったのです。
本人は、海外批評などで自身の建築を日本的と評されることに戸惑い気味ですが、室町時代の東山文化に端を発し、村田珠光に始まり、千利休へと至る詫び茶(あるいはそこから生まれた<わび・さび>という価値観)に、その<質素革命>の先駆をみた場合、安藤建築を日本的と解する評も、あながち印象だけを取り上げたものと退けるわけにはいかないのではないでしょうか。
安藤忠雄(1941-)
大阪生まれ。独学で建築を学び1969年安藤忠雄建築研究所設立。1995年プリッカー賞受賞、1997東京大学教授、現在、同大学特別栄誉教授。大阪下町の個人住宅作品からスタートし、本文にある<住吉の長屋>で注目される。その後、世界を舞台に住宅、公共施設、美術館など多岐にわたる大小の作品で実績を残す日本を代表する建築家。<住吉の長屋><小篠邸><六甲の集合住宅><フォートワース現代美術館><光の教会>など
*初出 : houzz site
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