80年代バブルは、1990年3月の不動産融資総量規制がきっかけで崩壊したと言われているが、実際に地価やマンション価格が本格的に下がり始めたのは1992~1993年頃からであり、不況感が深刻に実感されはじめたのもその頃からだった。
80年代バブルとその崩壊を象徴し、忘れられない心象がある。岡崎京子の『リバーズ・エッジ』に描かれた風景だ。
「リバーズ・エッジ」は月間CUTIEに1993年3月号~1994年4月号に連載され、1994年6月に単行本化された漫画作品だ。
『リバーズ・エッジ』はこんな物語だ。
川の河口に近い高校。工場が建ち並び、川は淀んでいる。主人公の若草ハルナは母子家庭。その恋人の観音崎君の家も父親が愛人騒ぎを起こしている。
ハルナは観音崎君からいじめられている山田君を何度か助け、それがきっかけで山田君に好意を抱いていく。山田君は助けてくれたお礼にと、僕の宝物だと言って河原の死体を見せてくれる。ハルナは死体を見て驚くも、いつものように「何か実感がわかない」としか感じない。
山田君は同性愛者だと告白する。同じ死体の秘密を共有している吉川こずえという後輩のことも知らされる。吉川こずえはモデルをしており、学校でもその容姿が注目を集めている存在だが、いつも隠れて過食と嘔吐を繰り返している。河原の死体という秘密を周囲に隠しながら三人の不思議な関係が生まれる。
惨劇が起こる。
同性愛者の山田君が偽装で付き合っていた田島カンナがハルナと山田君の仲を誤解してハルナのマンションの部屋に放火し、自らは焼身自殺してしまう。ハルナの友達のルミちゃんは観音崎君の子を妊娠する。中絶費用を要求するうちに観音崎君と口論になり観音崎君はルミちゃんの首を絞める。ルミちゃんは一命を取りとめるが、帰宅後、ルミちゃんの日記を盗み見ているオタクっぽい姉と罵り合いになり、ルミちゃんはカッターで胸を切られ、動転した姉も自分の手首を切る。結果、ルミちゃんは流産する。
惨劇の後、ハルナは転校し、吉川こずえは学校をやめ、みんなはバラバラになる。なにごともなかったように日常が続くことが暗示され物語は終わる。
岡崎京子は『くちびるから散弾銃』(1987~)、『pink』(1989~)、『東京ガールズブラボー』(1990~)など、バブル時代を通じ、資本主義経済、消費社会を生きる女の子たちを、大いなる愛情と共感をこめて、同時にクールで突き放した眼差しで描いてきた。
1993年に連載が始まった『リバーズ・エッジ』には、岡崎京子がそれまで描いてきた消費社会の物欲の快楽や悪徳は出てこない。描かれているのは、その後の光景だ。
排煙をあげる工場群、ぬいぐるみが打ち捨てられた汚れた川、川にかかる鉄の橋、大規模団地、セイタカアワダチソウが生い茂る地上げされたままの空き地、空き地の隣にはビルやマンション群が建ち並び、川越しに都市の夜景が遠く、広がる。
そこは産業と住宅がせめぎ合いモザイク状に入り混じり合った、「近代」の痕跡を色濃く残した場所。『リバーズ・エッジ』は郊外を舞台にした物語と評されることが多いが、そこは郊外というよりは住工が混在する、都市のエッジに広がる準工エリアという方が正確だ。工場と住宅が混在した準工地帯は、郊外以上にわれわれの社会である工業に支えられた暮らしを象徴している場所だ。
「近代」を支えた最小単位としての核家族はすでに主流ではなく、集団教育を通じて近代的人間を鍛錬してきた学校という機関もすでにその役割を十全には果たさなくなった。商品と快適さと幸福があまねく普及した時代の「無力な王子と王女」である少年少女は、そうした日常を無防備に生きる。
社会学者の三田宗介によれば1970年頃に世界は転換点を迎えたという。19世紀半ばの産業革命を契機に爆発的に伸びた世界の人口増加率は、1970年前後に変曲点に至り、それ以降は下降をたどっている。人類の爆発期であった「近代」は終焉を迎え、これからの社会は大増殖期から安定平衡期へと大きく転換する時代を迎える(三田宗介 『現代社会はどこに向かうか』 岩波新書 2018年)。
思い返せば、1970年を境に、日本においても象徴的な出来事が重なった。大阪万博、三島由紀夫事件(1970)、ニクソンショック(1971)、あさま山荘事件(1972)、オイルショック(1973)、そして戦後初のマイナス成長(1974)。
1974年に日本の高度経済成長は終わった。それ以降日本は、それまでの重厚長大型(鉄鋼・造船・石油化学)から軽薄短小型(家電・自動車・半導体)へと産業構造を転換し、社会は工業化から情報化、生産から消費へと軸足を移した。経済成長は続いていたものの、その性格がよりライトでスモールでソフトで、目に見えないものに様変わりした。
1980年代のバブルとはこうした「近代」がたどり着いた最後の爆発だった。バブルとバブルの崩壊は戦後日本社会の総決算だったことはもちろん、大きな意味での「近代」の終わりの始まりだった。
『リバーズ・エッジ』は、「近代」の果てに行き着いた典型的な風景を描き、「近代」の終わりの始まりを可視化した。
「「八十年代」とゆう時代はクリスタル的消費の時代であった、と言いきってポイする向きの方もおられるが、私にとって「キタイとキボウの時代」であった。何に対して?「終わってゆく」ことに対して。破壊、分裂、混乱、衰退に対するロマンス。退化してゆくことのきもちよさ。「物質化」してゆくことのせつなさ。それは「泣くこと」のたのしさにも似ていた。そんなもので満ちていた「私の」八十年代(正確には前期)。(中略)「九十年代」は泣きたくても泣けない時代だ」(岡崎京子 『オカザキ・ジャーナル』 1991年~1992年に朝日ジャーナルに連載 2015年に平凡社から書籍化)。
「終わってゆく」ことへの願望。岡崎は日本最後の爆発であった80年代バブルを正確に見通していた。
『リバーズ・エッジ』の主人公ハルナが生に実感が持てずにいるのはなぜか。それは「終わってゆく」ことすら終わってしまった、決して終わらない時代の到来への戸惑いだといえる。
バブルが崩壊しても、夢見たような甘美な終わりなどは到来しなかった。バブルが終わって日本に到来したのは、「泣きたくとも泣けない時代」、終わることさえできない日常だった。
ハルナの実感のない生とは「平坦な戦場で僕らが生きの延びること」(★1)のための、「あらかじめ失われた子供達」の知恵だともいえる。
(★1)『リバーズ・エッジ』で引用されたウィリアム・ギブスンの詩「最愛の人」(The Beloved)の一節。詩は『Robert Longo』(黒丸尚訳 京都書院 1985)に所収。
(★)『リバーズ・エッジ』では、橋の存在が象徴的に描かれている。トップ画像は漫画を原作にした映画『リバーズ・エッジ』(行定勲監督 2018)で、橋のシーンのロケで使われた東京都中央区の相生橋(2019年6月撮影)。橋梁、歩道、欄干、街灯など、岡崎京子が漫画で描いた橋の造形とよく似ている。4枚目の画像は、2015年に開催された「岡崎京子展 戦場のガールズライフ」(@世田谷文学館)のチラシ(部分)。
*初出: 東京カンテイ「マンションライブラリー」
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