グリニッチ・ヴィレッジ・コネクション<上>に続いて60年代のニューヨーク グリニッチ・ヴィレッジの群像を。
ウエスト・ヴィレッジ(グリニッチ・ヴィレッジの西側で6番街からハドソン川までのエリア)のハドソンストリート555番地にあったジェイン・ジェイコブズの家は、ロバート・モーゼスとの闘いのヘッドクオーターとなった。「毎晩のように、ビレッジ救済委員会の主要メンバーはジェイコブスの家で落ち合い、食卓を囲み、マティーニをすすり、タバコをくゆらせた」(アンソニー・フリント『ジェイコブズ対モーゼス - ニューヨーク都市計画をめぐる闘い – 』 渡邊泰彦訳 2011 鹿島出版会)。
アンソニー・フリントの前掲書に一枚の写真が載っている。
場所は1967年12月のニューヨークの留置所。ジェイン・ジェイコブズ(右端)の左隣に映っている美女はスーザン・ソンタグだ。ジェイコブズは、ベトナム戦争に抗議するデモ(ホワイトホール・ストリートにあった入隊センターを三日間封鎖した)に参加し、ソンタグやアレン・ギンズバーグらとともに逮捕されている。逮捕者は259人に上った。
スーザン・ソンタグ(1933-2004)は、ニューヨーク生まれの文学者。文学、映画、写真、芸術、文化、政治などに関する数多くの批評やエッセイ、小説などを残した。リベラルなアクティビストとしても有名。その知性と美貌は、「アメリカ文学界のダークレディ」、「前衛芸術のナタリー・ウッド」とも称された。こうした物言いはフェミニストでもあったソンタグ本人が最も嫌うところであったろうが。
ソンタグは、その前年に処女著作Against Interpretation(1966年)が出版され、新しい知性の登場として注目を集めていた。『反解釈』(高橋康也他訳、竹内書店新社)として日本語訳が出版されたのは1971年だ。
スーザン・ソンタグの、率直で明晰でかつ複雑なことを複雑さのなかで語ろうとする真摯な姿勢は、40年ぶりに読み返してみてもまったく変わらなかった。
「解釈とは世界に対する知性の復讐だ。解釈することは対象を貧困化させること、世界を委縮させることである」、「われわれの文化の基盤は過剰、生産過剰にある。その結果、われわれの感覚的経験は着実に鋭敏さを失いつつある。(中略)いま重要なのはわれわれの感覚を取り戻すことだ」、「解釈学の代わりに、われわれは芸術の官能美学(エロティックス)を必要としている」として、解釈ではなく官能を、知性より感覚を、と宣言する(前掲書)。
解釈ではなく感覚や官能を、内容よりスタイルを、との目のすくような鮮やかな宣言とともに登場し、文学や哲学から芸術論まで、ハイカルチャーからマスカルチャーまで、縦横に論じるスーザン・ソンタグは、60年代アメリカが生んだ最上の知性と言っても過言ではない。
なかでも広く注目を集めたのが「《キャンプ》についてのノート」と題された文章だ。
「キャンプとは世界を常に審美的に経験することである。それは、「内容」に対する「様式」(スタイル)の勝利、「道徳」に対する「美学」の勝利、悲劇に対するアイロニーの勝利の具体化なのだ」、「キャンプ ― 大衆社会のダンディズム」、「キャンプとは、道徳の溶剤である」として、当時《キャンプ》と呼ばれていた新しい感覚を言語化した(前掲書)。
*source : LITERARY HUB
その《キャンプ》が最近、再び注目されている。
コム デ ギャルソンCOMME DES GARCONSの2018-19年秋冬のショーで川久保玲が掲げたテーマがこの《キャンプ》だった。川久保玲はソンタグの愛読者だそうだ。また、ニューヨーク・メトロポリタン美術館で毎年行なわれる『METガラ』(ゴージャスな衣装に身を包んだセレブが一堂に会す世界最大級のファッションの祭典)の2019年のテーマも《キャンプ》だ。
《キャンプ》とは単なる「アンチ」や「シニシズム」ではなく、常識や定説の領域を拡張し、新たな価値を創造する寛容で繊細な感覚。作為を感じさせないことを狙った作為は《キャンプ》だ。作者や作品が意図していないところに価値を見出すのは《キャンプ》だ。
例えば、完璧な無頓着さを感じさせる装いや態度は《キャンプ》的だ。非常識やくだらなさや失敗作に思いがけない価値を発見するのは《キャンプ》的だ。
日本でいうと、初期の「おたく」や「ボーイズラブ」や「B級グルメ」、あるいは「利休好み」や「風流ならざるもまた風流」などの価値観はキャンプ的といえるかもしれない。
《キャンプ》は常に《キャンプ》であるとは限らない。《キャンプ》は文脈、状況、空気、時代によって変わる。うたかただが、確かに感じられる、言葉にならない、それまでにはない空気や感じ。ソンタグはそれを初めて言語化した。
世界中が閉塞し、息苦しく感じられる現在、世界は、再び《キャンプ》の自由さと寛容さと批評性を欲しているのかもしれない。
スーザン・ソンタグの誠実さと力強さの源泉は、徹底的に「私」に立脚して、自らの感覚を通じて、時代の支配的な価値観やイデオロギーや世の中の予断を浮かび上がらせるところだ。
「わたしが書いてきたのは、厳密に言えば、批評でもなんでもない、あるひとつの美学、すなわちわたし自身の感受性についてのあるひとつの理論を築くための個人的症例研究(ケーススタディ)にほかならなかったのだ。(中略)ある種の判断や趣味の根底にある暗黙の前提をえぐり出し、明らかにすることを、わたしは求めていたのだ(前掲書「まえがき」)。
「私」と世界に関する倫理は、スーザン・ソンタグがその後も一貫してこだわった姿勢だ。60年代の北ヴェトナム訪問、ボスニア滞在、対テロ戦争と称して戦争へ突き進むブッシュ大統領以下アメリカ政府の方がむしろ「臆病者」であると断じた9.11に際しての態度(アメリカ中から袋叩きにあった)など、すべからく「私」を語って世界を希求する態度は一貫している。
*source : DPRAGON , photo by Annie Leibovitz
「自分自身に対してより、世界に対してずっと大きな興味があります。(中略)自分について語ることは何かふしだらな感じを抱いてしまうのです。(中略)主張するときは、「私」と言って語る。でも、「私」で語っても、内容は私のことではないのです。(中略)安寧はひとを孤立させます。ですから私はしょっちゅう旅をしています。世界は「私」でないものごとで溢れていることを忘れないように。世界は「私」のためにあるのではないのだ、ということを忘れないために」(スーザン・ソンタグ 『良心の領界』 NTT出版 2004)。
スーザン・ソンタグの言葉は、「私」に自閉しがちな精神を勇気づけ、世界を忘れないように鼓舞し続けるてくれる。
同じグリニッチ・ヴィレッジの住人だったジェイコブズとソンタグは、1967年の冬のニューヨークの留置所で隣同士となり、なにを語り合っていたのだろうか。
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*初出 : zeitgeist site
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