かつて、ファッション雑誌が好きで、買いまくっていた時期があった。
メンクラ、流行通信、anan、ノンノ、マリクレール、フィガロ、JJ、WWD、ポパイ、ホットドッグプレス、L’homme Vogue、ブルータス、エスクァイア、GQ、LEON、ブリオ、DORSO、Men’s EX etc.
ファッションと建築は似ている。
第一に両者ともひとの身体を覆う外観を構築するデザインである。第二に外観と同時にひとの身体を包む内部空間を生成するデザインである。第三にひとの眼や肌が感じるモノの色や肌理や感触を重視する。
ところで60年代から80年代にかけて建築家のファッションはといえば、三宅一生風のノーネクタイ、スタンドカラーのシャツが定番だった。その代表は、磯崎新と安藤忠雄だった。
硬いカラーと苦しいネクタイで首根っこを押さえこまれた服装は、保守体制の一員であることのしるしであり、逆に、ノーネクタイ、ノーカラーは、アンチサラリーマンであることの宣言、つまり、カネのために仕事をしているわけではないこと、組織に囲われない独立独歩の生き方、そうした生き方ができる専門能力、そうしたもののアイコンだった。
この手の服装を冗談半分で「先生ファッション」として揶揄していたが、以下に述べるように、あながち故なきことではない。
既存の体制やコンサバなスタイルへのアンチやノンから始まった服装が、いつの間にか、仲間やグループの《制服》となり、党派のイメージやアイコンとなる。さらには、そうしたファッションを身に纏うことが、党派性のイメージ発信として機能しはじめ、そうしたイメージを欲しがる人々が、当初のアンチやノンとなんら関係なく、そうしたファッションを取り入れる。
当時、「先生」と見られたい、「先生」と呼ばれたい建築家がこぞってスタンドカラーを身に纏ったのはそうした機制であった。
《制服》化したファッションは不自由の象徴、そう思ってはいまいか。意外にも、《制服》は自由の象徴として生まれたのだ。
「制服には、かつて「自由」の象徴として編み出されたという、逆の面もあるのだ」。貴族階級にとっての、独占的で豪奢で階級差別的な「華美な服装に対して、新興ブルジョワジーは、「品位」という控えの価値を対置し、「慎み、努力、正確、真面目、節度、自制」などを可視化するような衣服を身にまとうようになる」、「貴族階級の無為と奢侈の目的であった布地・服飾品のきらびやかな多色に対抗する単色・無彩色の服である」(鷲田清一『ちぐはぐな身体』、筑摩書房、1995年)。
世界史の教科書に載っていたサン・キュロット姿の労働者を思い出してほしい。
フランス革命におけるアンシャン・レジームを糾弾する革命派サン・キュロットsans culotteとは、キュロットを履かない人、つまり、貴族階級を象徴する、裾広がりの長いジャケット、折り返しのついた袖口から露出した華やかなフリル、キュロット(半ズボン)、ふくらはぎを強調した白絹靴下などとは無縁の、長ズボンスタイルの労働者の服装に由来する。
今日においては、堅ぐるしく、不自由で、画一的に見られている《制服》の起源が、実は自由の象徴であった。そして、その階級や富や出自から自由であることのしるしであった「市民の衣服」が、いつの間にか、堅ぐるしく、自由を束縛し、画一的な象徴へと反転していく。
先の建築家たちの、前衛を、独立独歩を、反体制を象徴するスタンドドカラーがいつの間にか、権威主義的で、排他的で、これ見よがしの「先生ファッション」に反転し、広く普及していくことは、ファッションの世界にあっては、ごく普通のできごとなのだ。
《制服》はもっと複雑な機能を有している。それは真意や本心を隠ぺいする仮面の役割だ。見た目の規範順応的で、従順で、穏健な印象を利用して、本当のことを包み隠す効果だ。匿名性による自由さ、快適さの秘かな享受。
狼は羊の皮をかぶる。テロリストは普通の市民に身を隠す。ファッションはことほど左様に一筋縄ではいかない。
はたして、最近言われる「私服の制服化」、あるいは判で押した葬式のような就活ルックという現象は、無個性化、画一化、思考停止のあらわれなのか?それとも、服装のことなどに煩わされたくないというスティーブ・ジョブズばりの真のクリエイティブ社会誕生の兆しなのか?にわかにはわからにところに、ファッションの奥深さがある。
ファッションビジネスというと、毎年、意図的に流行と陳腐化が繰り返され、商品の差別化とより新しさが市場をドライブする、資本制システムを象徴するようなフィー ルドだ。
一方、ファッションとは、個人レベルでなされる、社会が要求する規範への違和、取り囲む空気や常識や流行からの逸脱、押しつけられる権威への反抗にその起源があると言う。
「ファッションというと、まず着飾るというイメージがあるが、ファッションとはほんとうは社会を組み立てている規範や価値観との距離感覚であり、ひいては自分との距離感覚である」、「たいての服というのは個人のイメージについての社会的規範(行動様式、性別、性格、モラルなど)を縫いつけている。その着心地がわるくて、ぼくらはそれを勝手に着くずしてゆく」として、日本におけるファッションは、学生服を着くずすことから始まる、と哲学者の鷲田清一は言う。
「着くずす」とは、現状に対する一種の批評性のことだ。服装は機能で語れるが、ファンションは機能だけでは語れない。服装とファッションが違うのは、批評性の有無だ。
批評性とは、現在を、その起源にさかのぼり問うことだ。ファッションにおいては、そのレゾンデートルともいうべきモードを問うことだ。今の流行、今のスタイル、今の権威を、その起源にさかのぼって問い直す行為だ。
したがって、ファッションの本質は、脱モード化(逸脱)とモード化(権威化)のあざなえる縄のごときプロセスのことだ。この自己矛盾にも似た、いたちごっこのような運動のなかにこそ、ファッショにおける批評性はある。すぐれたファッションとは、モードの世界でアンチモードを希求する運動といえる。
ファッションと建築は似ている。
服装とファッションが違うように、建物と建築は異なる。批評性がないものは建築とは呼ばれない。ファッションと建築が似ているのは、冒頭に掲げたこと以上に、両者に共通する批評性である。
ファンションも建築も、常に問われるのは、資本制システムのなかで、どこまで「遠投」できるのかということ。モードにとどまり、モードを批判すること、建築にとどまり、建築を批判すること。
目指すのはオーバーフェンスだ。
*初出 zeitgeist site
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