日本における鉄筋コンクリート造の集合住宅について、その100年の歴史を展示するのがUR都市機構の集合住宅歴史館です。すでに取り壊されてしまった歴史的な集合住宅(部分)が移築・復元されています。
八王子のUR集合住宅歴史館を訪ね、今の日本のマンションのルーツを体験してみました。
前回の記事「マンションのルーツを体験する<1>」でみた代官山アパート(1927年・昭和2年)の間取りを覚えているでしょうか。
代官山アパートの間取りでは、台所に近い居室にちゃぶ台が置かれていました。代官山アパートが作られた戦前はもちろんのこと、戦後も昭和30年代ぐらいまでは、日本の家庭ではこのように畳の部屋にちゃぶ台を出して食事をするというのがごく普通でした。
ちゃぶ台で食事をする部屋は、普段は茶の間と呼ばれ、団欒の部屋になっていることが多かったと思われますが、狭い住宅に大人数が暮らす場合は、その部屋はちゃぶ台をたたんだ後に、誰かの寝室として使われるケースも多かったに違いありません。
こうした畳にちゃぶ台という暮らしを一変させたのが、日本住宅公団(当時)が開発したダイニング・キッチン(DK)です。
ここUR集合住宅歴史館には、ダイニング・キッチンの初期の事例が移築・復元されています。蓮根団地(1957年・昭和32年)の55型と呼ばれる2DKの間取りです。
420万戸の住宅が不足するといわれた戦後の日本。勤労者のための住宅不足が最大の社会問題とされ、その供給のため、公営住宅法(1951年・昭和26年)が作られ、1955年(昭和30年)には日本住宅公団(現在のUR都市機構)が設立されます。
ダイニング・キッチン誕生の背景には、京都大学の西山卯三が戦前に発表した食寝分離論がありました。
西山は大阪の長屋住宅の調査を通じて、日本の庶民住宅においては、狭いなかでも独立の食事室が確保されているという例が多いという事実に気づきます。6畳と3畳という狭い2居室からなる住宅でも、台所+2畳という間取りがみられ、台所に隣接する2畳という空間が食事専用の空間として使わていることを発見します。西山はこの事実を食事室の優先性、つまり食事室を寝室から分離させることが庶民の小住宅ではいちばん大事なことであるとして、いわゆる食寝分離論を提案します。
戦前は陽の目をみなかったこの西山の食寝分離論が、戦後、東大の吉武泰水と鈴木成文の二人の建築学者によって注目され実現します。建設省が主体となった公営住宅の設計指針を決める標準設計委員会の1951年度用委員会に、この二人によって提案されたのが、その後にダイニング・キッチンと呼ばれるアイディアが盛り込まれた、通称51C型と呼ばれる2寝室+台所兼食事室のプランでした。51C型はこんな間取りです。
「55年体制」という言葉で後年注目されるようになった1955年(昭和30年)という年は、日本住宅公団が発足した、日本の団地元年でもあります。日本住宅公団は、郊外立地、階段室型3~5階建て、コンクリート造、南面平行配棟の公団住宅、いわゆる団地の大量供給を開始します。
この団地に採用されたのが51C型をプロトタイプとした間取りでした。公団は板敷きの台所兼食事室をダイニング・キッチンと命名し、その間取りを2DKと表示し、ダイニング・キッチンと2DKは日本全国に爆発的に普及していきます。
集合住宅歴史館に移築・復元されている55型という蓮根団地の間取りはこの51C型の後継です。蓮根団地の実際のダイニング・キッチンをみてみましょう。
バルコニーに面した大きな開口が設けられ、今見てもいかにも開放的で明るく快適そうな空間です。造り付けの食器棚も使い勝手が良さそうです。
テーブルが置かれていますが、これは当時のエピソードによれば、ダイニング・キッチンの導入当初は、この板の間にちゃぶ台を出して食事をする入居者が多かったことから、しばらくしてからテーブルが備え付けられたのだそうです。
この時代の流し台は、ジントギ(人研ぎ)と呼ばれたテラゾー(種石をセメントで固めて研いだ人造石)を研磨して加工したものが用いられています。水切れが悪く、継ぎ目から水が漏れなど評判はイマイチでした。冷蔵庫置き場もまだ想定されていません。
2つの居室を仕切るのはすべて引き戸(襖)です。居室が畳敷きの和室であり、日本家屋ではこうした間仕切りが当たり前であり、それが踏襲されているからとも言えますが、限られた面積をなるべく広々と開放的にみせる、居室とダイング・キッチンを一体で使うなど、空間の流動性やフレキシビリティが優先されているのがわかります。板敷きのダイニング・キッチンという洋風の暮らし方を導入しながら、一方で就寝や性という個のプライバシーにはあまり関心が向いていないことが見てとれます。ちなみにプロトタイプとしての51C型では、前掲の通り居室間の仕切りは壁となっており、居室の独立性が考慮されていました。
台所は決まって北側の暗く湿ったところにあり、和室に座ってちゃぶ台を囲む食事パターンしか知らなかった当時の日本人にとって、南側に設けられた明るいキッチン、バルコニーに連続する開放的なダイニング、板敷、椅子座の洋風の暮らしは、憧れの住まいとして絶大な人気を集めました。
その後、57型で風呂が設けられ、流し台が人研ぎからステンレスに変わり、シリンダー錠が導入され、67型でLDKスタイルが登場するなど、今のマンションど同様のフォーマットに近づきますが、間取りの構成としては51C型が踏襲されていきます。
51C型で発想されたダイニング・キッチンというアイディアと2DKという間取りが、日本の戦後住宅の原形となったのです。民間が分譲するコンクリート造の集合住宅、後にマンションと呼ばれるようになった住宅もその直系と言えます。
住宅の間取りをnLDKと表記するのはこの2DKに由来し、日本のマンションの間取りの主流である、オープンなキッチン空間と引き戸による間仕切りの和室(洋室)とワンセットになった10畳程度のLDという間取り構成は51C型にルーツを持っています。
リビングルームという概念が希薄で、食事と食事の場での会話や団らんが最も重視され、居室並みに快適で明るいキッチンを有し、プライバシーへのこだわりよりも引き戸(スライディングドア)を多用した間仕切りなど、融通無碍な空間の流動性を重んじる日本のマンションの間取りのコンセプトは、すべてここにルーツを持っています。
ダイニング・キッチンと2DKは、それほどのインパクトと大きな影響力を持った、日本近代住宅史上最大のアイディアであったと断言できるでしょう。
改めて、戦前に西山卯三が長屋調査で発見した、貧しいなかでも、狭いなかでも、なによりも食事室を重視するという、エピソードが思い起こされます。
なぜそうなのか、なぜ日本の庶民にあっては食事の場が最優先されてきたのか、当時の建築家や住宅の専門家はなにも語ってはいません。
しかし、その後継であるわたしたちは知っています。
海に囲まれ、清浄な水に恵まれ、四季がめぐり、豊饒な農耕文化を育み、風土ごとに奥深い伝統があり、旬とともに暮らしのリズムを刻んできたわたしたち。
中・韓・印・伊・仏の技をいつの間にか自家薬籠中のものとし、見事な自国料理として、ラーメンを、焼肉を、カレーライスを、ナポリタンを、トンカツを発明してきたわたしたち。
ちゃぶ台の時代はもちろんのこと2DKの頃ですら、遥か遠くに仰ぎみる存在でしかなかった西洋料理は、その後の熱心な研鑽と、なによりも旺盛な食いしん坊精神の賜物として、いつの間にか本場をしのぐ水準と奥行を確保するにいたったわたしたち。
全国津々浦々、四季折々、古今東西、はたまた高級、逸品、絶品から手抜き、コスパ、B級、ジャンクまでが当たり前に併存し、さらには料理という実質や内容に加えて、形式や外観としての皿や器や盛りつけや空間のしつらえにまで都度都度の調和を求める、世界に類をみない驚くべき闊達にして自在な日本の家庭の食卓事情を想像するだけで、その理由は瞭然としています。
そう、わたしたちは昔も今も、キッチン&ダイニングのひとなのです。
To be continued
*参考文献
藤森照信『昭和住宅物語』(新建築社、1990年)
渡辺真理+木下庸子『集合住宅をユニットから考える』(新建築社、2006年)
■UR都市機構 集合住宅歴史館
住所 : 〒192-0032 東京都八王子市石川町2683-3
TEL : 042-644-3751
公開 : 月曜日~金曜日(祝日、年末年始等を除く) 13:30~16:30 無料 事前予約制 ただし2020年2月27日(水)より、現在、臨時休館中
公式サイト
*初出:東京カンテイ「マンションライブラリー」
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