押井守監督『スカイ・クロラ』で描かれるのは「歴史が終わった」世界の現実。
そこは戦争がなくなった平和が達成された世界。一方、そこでは、人々に日常の平和を実感させ、平和を維持するために計画された「ショーとしての戦争」が行われている。
その戦争は、国家から請け負った企業間で行われ、戦闘の担い手はキルドレと呼ばれる永遠に大人にならない少年少女たち。永遠に成長しないキルドレたちは、戦闘を通じて殺されるなどしない限りは死ぬことはなく、いわば永遠の生を生きることを余儀なくされている存在。
国家間で「兵器均衡条約」が締結され、「戦闘監視委員会」が調停役を務める「ショーとしての戦争」は勝者も敗者もない永遠に終わらないゲームのような戦争として描かれる。
「ショーとしての戦争」に選ばれた戦闘手段は見世物としてふさわしい高度なプロペラ機による空中戦。終わらない戦争に適さない攻撃能力の高いハイテク戦闘機やITミサイルなどの開発は封印され、その結果、技術の進歩は止まっており、そこではワイヤレス技術や携帯電話などは存在せず、車やインテリアなどもどことなくレトロな雰囲気を残したままの世界。
「ショーとしての戦争」が行われている世界とは、いってみれば、平和が実現している現実が信じられない、しかしだからこそ、現実を「悲惨な現実」、「過酷な現実」として実感するために用意された「ショーとしての戦争」(形式)を信じることがやめられない世界のことだといえる。
形式的な戦争を信じることにより、平和な現実を単純に肯定せずに(相対化して)、結果的に平和を維持し続けていくように仕組まれた世界。
こうした屈折した態度を指して、アレクサンドル・コジェーブはスノビズムと呼んだはずだ。(アレクサンドル・コジェーブ 『ヘーゲル読解入門』 国文社)
コジェーブのいうスノビズムとは「与えられた環境を否定する実質的理由がないにもかかわらず、「形式化された価値に基づいて」それを否定する行動様式」、あるいは、「世界の実質的な価値を信じない。しかしだからこそ、彼らは形式的価値を信じるふりを止められない」という態度であると東浩紀は要約している。 (東浩紀 『動物化するポストモダン』 講談社現代新書)
スノビズムとは通常「俗物根性」と訳されることが多く、コジェーブのいうスノビズムと「俗物根性」とは一見まったく無関係のようにみえるが、スノビズムのもともとの語源は、ケンブリッジ大学の大学人に対して市井の人を区別する意味で靴屋(snob)が隠語的に使われていたことに端を発しており、その後、上流階級的価値観にあこがれ、それを気取る中・下流階級の人の態度を指すようになった言葉であり、日本語訳としては「紳士気取り」というような方がそのニュアンスを伝えている感じだ。
「紳士気取り」とは、いってみれば、本来は上流階級の出自ではないにも関わらず、服装や趣味や立ち振る舞いなどにおいて形式的に上流階級を気取ることによって、自らの中・下流階級の生活や価値観を否定する態度であるといえ、そう解釈すると、コジェーブのいうスノビズムにぴったり合致してくる。
コジェーブはヘーゲルのいう「歴史が終わった」世界で人間に残された生の在りようは、与えられた環境(現実)を受け入れて生きる「動物」(動物は環境に疑問を抱いたり否定したりしない存在)としての生と形式的な価値を信じることにより与えられた環境(現実)に満足せずに(動物化せずに)生きる「スノビズム」の2つであり、前者の代表としてアメリカ的生活様式を挙げた。
そして、後者を実現した社会として日本を挙げ、日本は、政治・革命・戦争・宗教などの歴史的な価値とは無縁の形式的な価値(例えば、能楽、茶道、華道などや切腹などの規範)に基づき動物化ぜずに人間的な生が営まれている唯一の社会であると主張した。さらに、世界は今後、「スノビズム」が席巻するかたちで日本化するとまで断言した。
コジェーブのやや性急な未来予測の妥当性はともかくとして、『スカイ・クロラ』における戦争はヨーロッパを舞台にした欧州連合で争われている戦争であり、それを実際請け負っている企業の一方は欧州企業でもう一方は日系企業であることは実に暗示的である。
現実の実感を喪失しながら 「ショーとしての戦争」を信じている人々が暮らす世界は、まさに日本的スノビズムを象徴化したような世界だ。
登場人物の多くは、物思いに沈んだような表情をみせる、現実感が希薄な物憂げな存在として描かれている。なかでもキルドレは、いわば戦闘ゲームのキャラクターのように戦うことが初めから運命づけられている存在として、独特の癖(キャラ)、年を取らない、のっぺリとした表情、生まれ変わるなど、間違いなくゲームのキャラクターを意識した造形がなされている。
しかしながら、形式的な戦争の担い手であるキルドレたちも、自分たちが戦う戦争を決して信じてはいない、しかしだからこそ、生死をかけて戦うことを止められない存在であるという意味で、やはりスノビズムに囚われた存在である。生の実感を求めるかのごとく空の上での死を賭けた戦闘を求めるキルドレたち。
ゲームのキャラクターではないにもかかわらず、形式的にゲームを信じゲームのキャラクターにように戦うキルドレという存在。そこには、形式を信じることを主体的に選択していたというスノビズムが辛うじて持っていた能動性はもはやなく、形式を受動的に信じざるを得ない点で、キルドレたちの態度は、スノビズムというよりはむしろ、東浩紀が前掲書で言及しているスラヴォイ・ジジェクのいうシニシズムに近いものといえる。
映画では、世界観の設定、キャラクターの造形、キャラクターの演技を重層させることにより、「歴史が終わった」スノビッシュな世界が、なにか肝心な物が欠落したようなけだるい空気感とともに描かれ、そして、シニシズムという生の在りようが、諦観に覆われた質量がまるで感じられないようなキルドレたちの描写を通じて痛々しいまでのリアリティで描かれる。
技術の進歩が止まっているのは「歴史が終わって」いる証拠であり、高度なプロペラ戦闘機は趣味が高じたスノビッシュな世界を象徴しているということなのだろう。
物語は、草薙水素(クサナギスイト)というキルドレで元パイロットの女性司令官と新たに草薙の基地に赴任してくるキルドレである函南優一(カンナミユウイチ)の2人を軸に展開する。
永遠の若さを運命づけられ死ぬことのできないキルドレという存在の焦燥感と閉塞感を体現したのが草薙水素というキャラクター。
頼りないスレンダーな身体、おかっぱの髪型、思いつめたような目つき、クールな伊達メガネ、細いたばこなど、一見してぶっきらぼうな冷たさの陰に、存在としての重圧に耐えかねるような危うさと時折みせる純粋さを内包した造形が見事だ。さらに、そのヴォイスキャストとして選ばれた、演技力の点では疑問が呈されることの多い菊池凛子がここでは実にぴったりはまっており、キャラクターデザインの秀逸さはもちろんのことだが、この声があって初めて草薙水素の存在は完成したといっても言い過ぎではないほどのはまり役と評価できる。
キルドレたちの敵を象徴するのは「ティーチャー」と呼ばれる敵方の不敗のパイロット。草薙水素の台詞によれば、「ティーチャー」はどちらかが勝ったり負けたりして戦争が終わらないよう、永遠に終わらないゲームのために用意された絶対に倒すことができない存在とのこと。「ティーチャー」は唯一の大人の戦闘機乗りで男性と設定されている。
「ティーチャー」対キルドレの戦いは、超えられない大人対子どもの戦い、すなわち、父と子の戦いが暗示されており、不敗の「ティーチャー」は永遠に大人にならないキルドレが宿命的に乗り越えられない存在を象徴している。
自らの宿命に気づき、水素の深い絶望を目の当たりにした優一は、「ティーチャー」に戦いを挑む決意をする。不敗の敵への挑戦は永遠に終わらないゲームのルールへの挑戦であり、キルドレという存在の宿命への挑戦である。
優一の挑戦は世界を変えたのだろうか?その問いへの解答は映画では提示されない。しかしながら、キルドレたちが住み戦う世界の変化の予感がさりげなく語られる。
映画のエンドロールの後に同じ基地に新たに赴任してくるヒイラギイサムを迎える水素の表情はもはや物語の冒頭に優一を迎えた水素のそれではない。本編の中で繰り返し鳴っていた司令官室のオルゴールももはや鳴ってはいない。
キルドレたちは、いつかは「ティーチャー」を倒すだろう。
繰り返される日常を主体的にとらえ行動することが、たとえ、その結果が一見、同じようにみえたとしても、いつかは現実そのものを変革する契機となりうる唯一の方法であるからだ。
さらに、大人でありながら形式的な戦争に死を賭して参加する「ティーチャー」自身も実は、絶望的なシニシズムに囚われた存在であり、彼も『地獄の黙示録』のカーツ大佐同様、自分を理解し自分を超える存在との戦いによる戦死(王=父殺し)を望んでいるはずだから。
キルドレは20世紀以降の日本社会の栄光と悲惨を象徴しているかのような存在であり、この映画は、今の現実を生きるわれわれ自身の物語である。
また、そうした問題意識をリアルな3DCGと効果的な2Dアニメーションを駆使して、つまり、映画技術の中でもより「形式化」された技術を駆使して、さらにいえば、より「日本的」な技術の最先端を駆使して作られた本作は、「歴史が終わった」(といわれる)現代日本を代表する名作といえる。
copyright(c) 2008 tokyo culture addiction all rights reserved. 無断転載禁止。