東京を歩きながら、ふと江戸の姿が現前するような瞬間。
100年に1度のあわただしさと喧伝される2008年の師走、現代東京で江戸の面影を追ってみた。
パリを歩くように「江戸を歩く」ことはできない。
それは文明とその歴史の違いだ。堅固な建物に過去の都市の記憶が濃密に堆積するパリと、木造建築で構成され、そして類を見ない急速な近代化の波に洗われた江戸東京の違い。
今の東京の建物に江戸の面影を求めるのはほとんど不可能に近い作業だ。
とはいうものの、土地の起伏、崖地、坂道、河川、道路、樹木、寺社、敷地規模など、江戸時代から受け継がれた都市のストラクチュアを手がかりに、そして想像力を巡らすことにより、現代東京に江戸の姿を追い求めることは可能だ。
地下鉄有楽町線・江戸川橋駅の護国寺方面の出口を出た神田川沿の江戸川公園付近は、歌川広重が名所江戸百景で「せき口上水端はせを庵椿やま」として描いた場所。
この浮世絵は広重の江戸百景の中ではどちらかというと地味な一枚だが、縦長の画面を活かしながら、下半分にゆったりと大きく蛇行する藍色の神田川を配し、上半分には地平線まで伸びる広々とした早稲田の田んぼと大きな空、そして中央には右手の崖から伸びるデフォルメされた姿の良い松が描かれた一枚で、不思議な空気感とちょっとシュールな時間を感じさせる作品。
画面右手の中ほどに描かれた緑の崖の中腹にある庵は、江戸後期にこの地で神田上水の浚渫工事を請負っていた松尾芭蕉が一時住んでいたことから芭蕉庵と称された竜隠庵。その奥の高台の松林の陰には胸突き坂と水神社があるはずだ。川沿いにはのんびり(という風にみえる)行き交う様々な人々が描きこまれている。
新目白通り沿いに建ち並ぶ高層ビル群の味気ない後姿や神田川の左右に施されたハードな護岸工事を意識の外に置いて、都市的想像力を働かせれば、このあたりの風景は今もって広重が描いた風景に重なり合う。
なかでも、芭蕉庵を右手に、水神社を左手に見ながら登るその名の通り急勾配の胸突き坂あたりは、きっと江戸からさほど変わっていないだろうと思われる一画。ためしに『尾張屋板・江戸切絵図』で確かめてみても、確かに昔のままの土地利用が残っている感じだ。寺社(水神社も芭蕉庵の前身の竜隠庵の前身ももとは同じ敷地だった)や坂道や崖地などは、東京で「江戸を歩く」重要なキーワードだ。
胸突き坂を登った左側の一帯は旧細川家下屋敷。有力大名は通常、江戸市中に上・中・下の3種類の大名屋敷を所有し、その内の下屋敷とは、主に別邸の役割であったとされる。細川越中守の下屋敷は、現在の和敬塾や新江戸川公園なども含む南側が開けた高台の敷地で別邸にふさわしい風光明媚な環境であったことが偲ばれる。
旧細川家下屋敷の一画にある細川護立自邸跡地にある永青文庫は、室町時代から続く細川家が所蔵する約6,000点あまりの美術品のコレクションを所蔵・展示する美術館。白が基調の控えめな建築が趣味の良さを窺わせる。
細川護立は細川家第16代の当主で、白洲正子が親しみを込めて「トノサマ」と呼んで親交していた美術品の目利きでコレクターだった人物。永青文庫の一画にはかつての主と談笑する白洲正子の写真がさりげなく飾られている。
建築家今里隆の手になる第17代細川護貞邸が雑木林を望む別館サロンとなっており現当主で元首相の細川護煕氏の手になる茶器でお茶を喫することができるのもちょっとしたご愛嬌。
開催中の「細川家の能面・能装束」展では、古くは室町時代からの能面など94点が公開されていたが、なんといっても圧巻だったのが、室町時代に作られた「翁」の能面。能に関してはつゆも知らねど、その小さな面の存在にたぎっている日本人のもっている観察力・表現力・造形力に圧倒される。
胸突き坂を下り、神田川を渡り、リーガロイヤルホテルの脇を抜け、左右に早稲田大学関連の施設を見ながら進み早稲田通りに出る。信号を渡り、角の酒屋の先の坂を上ったすぐ左手が夏目漱石の生誕の地だ。漱石誕生は明治元年の前の年慶応3年(1867年)2月9日のことである。
漱石誕生の地から南に上っている坂は夏目坂と呼ばれて、漱石の父親の命名した坂。現住所の喜久井町というのも夏目家の定紋の菊に井桁からきているという。漱石の父は一時区長を勤めていた人物らしく、こうした融通の利いた当時の模様などは晩年の『硝子戸の中』に詳しい。
漱石生誕の地、現在の新宿区喜久井町一番地は、今は1階に牛丼の吉野屋が入っているヘンテコな意匠の賃貸マンションが建っており、その面影・片鱗・雰囲気は全く消滅している。この辺が東京らしいといえば東京らしい潔い(?)ところで、まあ、ここまで完全に失われていると、サバサバというか、きれいさっぱりに諦めがつくものだ。
実は漱石はこの生まれた土地のすぐ近くで生涯を終えている。夏目坂を上り、左に折れた早稲田小の近くにある現在の漱石公園がそれだ。幼少時に関しては暗い思い出を書き付けていた印象が強い漱石だが、40歳で生誕の地とは500mと離れていないこの地に住むことを決めたのは、いかなる心境だったのだろうか。
この地に移ってから49歳で死去するまでの9年間、漱石山房と呼ばれたこの書斎で、漱石は『三四郎』から始まる前・後期の三部作、完結した最後の作品『道草』、そしてあの未完の問題作『明暗』を書き続けた。
それにしてもこの漱石公園、一見してあれっ?という感じの、最初は区かなにかの臨時の出張所が建っているのかと思ってしまったような、ちっとも漱石らしくない感じの場所で名前倒れの感が否めない。公園を所有する新宿区による漱石山房の復元計画があるらしいので、そちらを期待すべしということか。
それに引き換えこの公園が面するアップダウンのある狭い通りは、今でも気難しい漱石が歩いていてもぴったりな雰囲気の地味な感じの通りであり、『江戸切絵図』でみるとなるほど、この通りは往時からほとんど変わっていないようだ。
漱石公園に現在、やや唐突な感じで置かれている白いベランダとガラス窓からなる建物の一部分は、漱石山房の縁側の復元だという。
「家も心もひっそりとしたうちに、私は硝子戸を開け放って、静かな春の光に包まれながら、恍惚(うっとり)とこの稿を書き終わるのである。そうした後で、私は一寸肘を曲げて、この縁側に一眠り眠る積(つもり)である。」
『硝子戸の中』の最後は、漱石にはめずらしく、澄み切った幸福感とでもいうべき調子で結ばれているが、同じ著書の「(私は)死というものを生よりは楽なものだとばかり信じている。ある時はそれを人間として達しうる最上至高の状態だと思う事もある。」という言葉と重ね合わせてみると、その調子は幸福感というよりは透明な虚無感とでも呼んだ方がふさわしいような気がしてくる。
漱石公園を過ぎて外苑東通りを左折して早稲田通りとの交差点を右に曲がって神楽坂方面へ歩く。左右は今も昔も榎町と呼ばれているどこかのんびりとした風情の通り。
江戸川橋の交差点から南下する江戸川橋通りのこのあたりは渡部坂と呼ばれている。屋敷のあった渡部源蔵に由来する名であろう。その渡部坂と早稲田通りの交差するあたりは、なんというか、かつての鍵型の道路線形の名残を残すように蛇行しながら登っていく坂道になっており、何故か不思議と江戸の名残を感じてしまう界隈。
漱石が矢来の坂と呼んでいる坂はこのあたりだろうか。「その半鐘のすぐ下にあった一膳飯屋もおのずと目先に浮かんでくる。縄暖簾の隙間からあたたかそうな煮〆の香が煙と共に往来に流れ出して、それが夕暮れの靄に融け込んで行く趣なども忘れる事が出来ない。」
漱石の手になる臨場感のある描写に誘われながら、そういえば、渡部坂中腹の中里町には飲み仲間のB氏の居宅があるはずだ、ひさびさに誘って神楽坂でちょいと一杯などと思っているうちに、坂を登りきったところに風情のある和菓子屋を発見。屋号は「清水」。いい具合に色落ちした藍色の暖簾に誘われて店内に入るとゆず餅の品書きが眼に入り、そうか、今日は冬至かと初めて思い至る我ながら季節感が欠如しているなさけなさと少しばかり得をしたような嬉しさ。
今でも僅かに残る地勢や地形と変わらぬ四季の移ろいに江戸を見、江戸を感じる想像の旅。東京を歩くのはなかなか楽しい。
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