旅とは思いもかけない共時性を引き寄せるものだ。
パリから帰った直後に眼にした『芸術新潮』 2009年4月号は「パリと骨董」と題した、目白の「古道具坂田」の店主 坂田和實と恵比寿の「アンティークタミゼ」の店主 吉田昌太郎を案内役にしたパリの街とパリのアンティークと骨董をめぐる特集号。
インパクトのある表紙写真に誘われて頁をめくると、クリニャンクールのマルシェ・ポールベールのあの街角やフュルムスタンベール広場のドラクロア美術館のすぐ隣の思わず見入ってしまうような表情の人形たちが飾られた骨董屋や「いつもの一ツ木通り」ならぬ、いつものビュッシ通り界隈、そしてサンシュルピス教会そばの路地のビストロ 「オー・ボン・サンプルサン」 ”Au Bon Saint-Pourcain” などなど、つい先週のデジャヴかとみまごうごとき共時性に思わず驚いてしまった。
さらに、その中の特集記事で「古道具屋坂田」に足繁く通う村上隆が紹介されている。
「村上さんによれば、ピカソ以降、とくにデュシャンの「便器」以降、欧米において美術は鑑賞するものではなくなった。概念をめぐるゲームになった。(中略)現代美術の収集家が億単位の金をだすのは、作品を評価しているからではない。もうほかに買うものがないからだ。血管をプラチナ製に変えた金融長者や、一日で数兆円をつかう武器商人など、収集家の多くは悪魔めいた、心がこわれたひとたちで、(中略)そうした悪魔との取引による錬金術、それこそが芸術ではないか、と村上さんは考えている。(中略)錬金術とは、価値の捏造のことであり、現代美術もそうだが、骨董のほうが古い。だから、村上さんが骨董屋をまわるのは、それぞれの店の捏造ぶりを研究するためでもある。」とされる。
「古道具屋坂田」に行ったこともなければ、ましてや村上隆やカイカイキキの作品にも少しも心惹かれた記憶はないが、上のような話は痛いほどその通りだと思ってしまう。
資本主義の真髄でもある「命がけの跳躍」を後押しするさまざまな思惑と企てと駆け引き。
マーケティングやら、商品企画やら、ブランド戦略やらといっても、簡単にいってしまえば先の記事の「捏造」の言い換えにすぎまい。
芸術は今もなお正直な前衛の役を降りていないのかもしれない。
「捏造」、大いに結構。しかしながら、イノセントな歓喜はおそらくそれとはまったく無関係にもたらされることも忘れてはならない。
モノが価値をまとう危うい瞬間。正邪や善悪の物差しでは決して割り切れない絶対矛盾の瞬間。モノの価値など決して信じない冷静な眼に同時に宿るどうしようもなくモノに魅入られしまうもうひとつの眼。
まさについ前の週まで「パリと骨董」の世界に入り込んで、モノの価値をめぐるヒリヒリしたような関係性に首まで浸かっていた身にとって、今回の『芸術新潮』は身に染みた。
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