一人の独白する晩年の皇帝と向き合って過ごす時間。
『ハドリアヌス帝の回想』(白水社)は、こんな読書体験をもたらしてくれるマルグリット・ユルスナールによる「想像的自伝」。
10年前は途中で投げ出したこの書を今回読み通すことができた理由は、と問われたら、自らの単なる怠惰を思い切って棚に上げた上で、「いずれにせよ、わたしは若すぎた」とユルスナールのように嘯くか、あるいは「わたしが、人みなが生を敗北として受け入れる年齢に達したこと」とユルスナールの手になる老皇帝のように答えてみたくなる。
ユルスナールのこの本を再度手に取ったきっかけは、最近『作家の家』という題名で邦訳が出た”Writers’ Houses” Francesca Premoli-Droulers (Seven Dials)の最後に載っているユルスナールの家の写真を何年かぶりに眼にしたからだった。
今回も、なんとユルスナールに似つかわしくない家なのだろうと、思ってしまう。その家の写真を始めて見た時と同じように。
アメリカ東海岸・メイン州のマウント・デザート島にあるその家は、芝生の庭があり、建物の周囲にはベランダが廻っているような、白いサイディング張りの典型的なコロニアルスタイルの家。インテリアも清潔で快適そうだが、どちらかというと簡素で実質本位。いってみれば、アメリカのそのあたりではどこにもでもありそうな普通の家。
21人の世界的な作家の家をカラー写真で紹介した同書のなかでも、コクトーやダヌンツィオやヘミングウェイなどのまさに、その独自の作風や強烈な個性を空間化したような家はもちろんのこと、アイザック・ディネーセンやヴァージニア・ウルフ、あるいは同じフランスの女性作家のマルグリット・デュラスの家などの、一見、特段奇をてらってはいないごく普通に見える家でさえも、やはり、それぞれにその作家の持っている雰囲気というか、体臭というか、そうしたものを否が応でも感じさせるのとは対照的に、ユルスナールの家のみが、ユルスナールという作家からイメージする、例えば、それはヨーロッパの歴史性だったり、ある種の成熟だったり、他を寄せ付けない厳格さだったり、するようなものだが、いずれにしてもそういう印象がすこぶる希薄なのだ。
須賀敦子は絶筆ともなった『ユルスナールの靴』(河出書房新社)のなかの、マウント・デザートのその家を訪ねた文章のなかでこう記している。
「こんな家に住んで、と居間からキッチンへ、キッチンから蔦の茂ったヴェランダへ案内されながら、私は、ふたりがあの奇妙な二人三脚の生活をしていた家のなかを見わたした。」
「二人三脚の生活」とは、ユルスナールとユルスナールをアメリカに誘い自らの死までいっしょに暮らしたアメリカ人女性グレース・フリックとの生活を指している。
須賀の感じた「こんな」とはどんな意味なのか。前後の文章からは今ひとつ判然とはしないのだが、さりげなくではあるが、「こんな」という表現に、やはりその家に感じた違和感が表明されているのを感じる。
須賀は、この文章の少し後にユルスナールとグレースの墓地を訪ねてこう記している。「隠れるようにして、遠いアメリカでグレースとふたりで暮らした、その同じムードを、ふたりは死んだあとも守りつづけているようだった。」
そうか、マウント・デザートの家が放っている印象とは、まさに、「隠れるようにして、遠いアメリカでグレースとふたりで暮らした(中略)ムード」だったのだ。
ユルスナールは、当時のアメリカでの生活の孤独を「depaysement=異郷で暮らすことの居心地の悪さ」、と表現している。とりわけ、この作家にとってはフランス語とフランス語が喚起する世界観から疎外されていることからくる孤独が大きかった。
紛失したと思っていたトランクが預けてあったローザンヌのホテルからアメリカのユルスナールの許に届いた際に、そこからクレアンクール家(ユルスナールの本当の姓)に代々伝わる食卓用の銀器が出てきて、大喜びしたエピソードが語られている。
ヨーロッパとフランスに深く根を下ろしながら、しかしながら、さまざまな理由でヨーロッパとフランスから遠く離れたアメリカの、しかも北米の小さな島に隠れるように、そして普通すぎるほど普通のアメリカンスタイルの家にひっそりと暮らしているという、他人にはうかがい知れない深い闇。
そして、出自の言語や伝統や文化から切り離された孤独な精神が、逆に自らの伝統に深く依拠した強靭な作品の創造へと繋がる皮肉な逆説。
20歳台から書いては捨て、捨てては書き続けながら、なかなか実を結ばなかった草稿が1951年、ついにこのマウント・デザートで結実する。『ハドリアヌス帝の回想』と題されたその作品は、フランスで絶賛を博し、これをきっかけに作家マルグリット・ユルスナールは世界的な名声を得ていく。
マウント・デザートの家で唯一、ユルスナールらしさが覗えるものは、やはり簡素で実務的なイメージの書斎の壁に架けられたハドリアヌス帝とアンティノウスの彫刻の写真、棚の上に置かれたいくつかのテラコッタ製のギリシャの彫像、こじんまりした居間の壁に架けられた数点のピラネージのローマの廃墟を描いたタブロー。
「人が生きるべく選ぶ土地、時代を離れて人が自分のために建てる目に見えぬ住み家。私はティブルに住んだ、そして、そこで死ぬであろう。ハドリアヌスがアキレウスの島で死ぬように。」ユルスナールは『ハドリアヌス帝の回想』のあとがきにこう記している。
ティブルとはハドリアヌス帝の「ヴィラ・アドリアーナ」があるローマ郊外の地名。ユルスナールは何回かこのヴィラを訪れている。
ユルスナールにとってマウント・デザートの家は この地にこういう風にしか住み得ないという現実的な意味では「住み家」であった。と同時に、「人が生きるべく選び、時代を離れて人が自分のために建て」たという観念的な意味においては決して「住み家」ではなかった。
ユルスナールの観念上の「住み家」は、生涯、ハドリアヌス帝とともティブル、つまり、観念としてのヨーロッパ世界にあったのだろう。
とはいえ、現実と観念の乖離が、ユルスナールならではのヨーロッパ文化に深く根ざした強靭な作品創造の原動力になったいう意味では、このマウント・デザートの家は紛れもなく作家マルグリット・ユルスナールの「住み家」であった。
この、到底ユルスナールには似つかわしくないように思える家の場合も、まさにその似つかわしくない、という一点において正真正銘「作家の家」であったのだ。
ユルスナールに対する思いを「作風への感嘆が、さらに、彼女の生きた軌跡へと私をさそった。人は、じぶんに似たものに心ひかれ、その反面、確実な距離によってじぶんとは隔てられているものにも深い憧れをかきたてられる。作家ユルスナールにたいして私が抱いたのは、たしかに後者により近いものであったが、才能はもとより、当然とはいえ、人生の選択においても多くの点で異なってはいても、ひとつひとつの作品を読みすすむにつれて、一人の女性が、世の流れにさからって生き、そのことを通して文章を成熟させていく過程が、かつてなく私を惹きつけた。」という、微妙なニュアンスや留保に正確に目配せしながら、核心の一点へと破綻なく収斂していく「構文のたしかさ」(須賀がユルスナールの個性のひとつとしていったことだ)と力強さとやわらかさが緊張のなかで絶妙に共存しているという、実に須賀敦子らしい文章で表現した当の須賀敦子はどんな家に住んでいたのだろうか。
「墓室の白い大理石に刻まれたハドリアヌス帝の詩行を胸におさめると、私はもういちど、長い階段を上がりはじめた。ハドリアヌスは、現在の私よりも若い、六十二歳で他界している。死期の近いのを悟った皇帝の述懐のかたちの作品をまとめたユルスナール自身は、八十四歳まで生きた。じぶんに残された時間はいったいどれほどなのだろうか。」
そう書き付けた須賀は約1年半後の1998年3月20日他界する。
ユルスナールの手に成るハドリアヌスはこう独白している。「エーゲ海の島々の間を航海する旅人が、夕暮れにたちこめるきらめく霧をながめ、少しずつ岸の輪郭を見分けていくように、わたしも自分の死の横顔を見定めはじめている。」
「霧の日は、よくポレンタを作った。(中略)仕事から帰ってきて、玄関のドアを開けたとたん、夫は、あ、ポレンタだな、いい匂いだ、と言いながら台所に入ってくる。」
その作家の鮮やかな登場をしるした処女作『ミラノ 霧の風景』(白水Uブック)の冒頭に置かれた、幕切れの余韻が忘れがたい霧にまつわるエピソードのなかでさり気なく書かれている須賀敦子の家はどんな家だったのだろうか。
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