ファンズワース邸のコピー、あるいは、オマージュとして有名な自邸「ガラスの家」を作り、自らが住んでいたフィリップ・ジョンソンに苛立っていたミース・ファン・デル・ローエというのも今日、興味をそそられるエピソードである。
フィリップ・ジョンソンは、ハーバード大学哲学科を出てヨーロッパに遊学。かの地でミースという存在を見出し、一時は、自邸の設計を依頼するなどパトロン的役割も果たしながら、モダニズム建築、そしてミースを「遅れてきた大国」アメリカに紹介した男。MoMAの建築部門のディレクターを務めた後、ハーバード大学院の建築学科に再入学し建築を学び、ミースの晩年の大作シーグラム・ビルでは共同設計者も務めた、そして、誰よりもミースの才能に尊敬を払っていたアメリカ建築界の怪物的存在フィリップ・ジョンソン。
情勢が悪化し、経済もままならないヨーロッパのミースを訪ね、大いなるリスペクトと共に、贅沢好きのミースに、最先端の車での建築めぐりや飛び切りの食事とワインを提供していたのが、オハイオ州の裕福な法律家の息子でハーバードを卒業したての当時24歳の若造フィリップ・ジョンソンであった。
ミースが苛立っていたのは、フィリプ・ジョンソンがファンズワース邸を真似て作ったからではなく、そのディテール(例えば、コーナーの鉄骨のごつい納まり)がまったくなっていなかったから、あるいは、ミースが直接ジョンソンに言ったことよると「天井が高すぎる」(『磯崎新の思考力』 磯崎新 王国社)から、つまり肝心なところで「ミース好み」ではなかったからだと言われている。
しかし、「シニカルな過激」として存在ミースという視点からみてみると、ミースの苛立ちの本質的な原因は、むしろ、まったく別のところにあったのではないだろうか。
「ガラスの鳥かご」や「ガラスの箱」なんぞ、人間がまともに住める家であるはずがないではないか。現代の真理とはそういうものだろう。人が住めるはずのない家だからこそ、現代の真理であり、現代の美なのだ。そこに住んでしまったら、ただの住宅になってしまうではないか。何にもわかっていない。
人が住めるはずのない家に、なんの衒いもなく住んでしまうフィリップ・ジョンソンへの苛立ち。それは、ミースの「シニカルな過激」という存在を真っ向から否定する許しがたい行為だあったとともに、さらにいえば、その後に起こる事態を暗示する出来事だったのではないか。
第1次世界大戦をきっかけに、世界の覇権は大西洋を渡り、世界の経済と政治の中心は明らかにアメリカ合衆国に移っていた。ナチスが台頭するなど、ヨーロッパが再び世界大戦に向かって雪崩れ込んでいく状況のなか、アメリカは、その経済力を生かして、ヨーロッパに起こったモダニズムという芸術をそのユートピア的性格や理想主義的性格を含めて、いわば「購入」したのであった。何人もの現代美術のアーティストが亡命し、アメリカは大いなる尊敬を持って歓迎した。
ミース自身も、自からが校長を引き受けたバウハウスがナチスにより閉校追い込まれるなどした後、意を決してアメリカに亡命する。
ミースのフィリップ・ジョンソンへの苛立ちは、アメリカへの苛立ちといっても良いかもしれない。
家族の住めない、そしてミースはもちろん住まない「ガラスの箱」にも、生涯ゲイで独身者だった「家族」というものを形成しないフィリップ・ジョンソンは、なんの衒いもなく住めるのだった。
シニカルな過激さをもって時代の真理=美を追い求めたきたミースにとって、「ガラスの箱」に平気で住める人間がいる世界は想像の範囲外だったに違いない。
第2次世界大戦後、「家族」に代わり登場したのが消費者という存在であった。彼らは、フィリップ・ジョンソンのようにゲイであろうがなかろうが、過去のしがらみには捕らわれない、「ガラスの箱」や「ガラスの鳥かご」をも平気で住みこなす人々であった。
今流行のモダニズムの、住いの理想主義としての、自然と一体になった、最先端の、流行の、・・・・・・・。
アメリカはヨーロッパの芸術を買っただけであって、思想や哲学や政治、ましてやライフスタイルやマーケティングまで「購入」したわけではなかった。
案の定、ミースの「シニカルな過激」は、「商品」となりアメリカ経由で世界を席巻していく。
日頃から、ひとつのソリューションとしての建築デザインが得られれば、そのあとは同じでいいじゃないかと主張していたミースにとって、自身のデザインが「商品」化され、世界に普及してくことに対しても無関心を決め込んでいたようにみえる。
「私は時代を変えようとは思いませんでした。時代を表現したかったのです。」そのように語ったミースにとって、時代が自らの「シニカルな過激」を無化させていくことも、避けがたい時代の表現のひとつであるとの認識に至ったのかもしれない。
いずれにせよミース自身は、ファンズワース邸を境にその後は住宅からほとんど手を引くようになり、また、シーグラム・ビル以外の高層プロジェクトへの個人的関与も少なくなったと言われている。
もともとバルセロナ・チェアは、バルセロナ万博で作られたバルセロナ・パビリオンの開館の際に臨席するスペイン王アルフォンソ13世夫妻の玉座として作られ、そこにかれた椅子である。
<バルセロナ・パビリオンでアルフォンソ13世と会話を交わすミース>
ミースの手になる家具の中でも、その革新性と優雅さが際だっているバルセロナ・チェアのイメージの原点は、古代ローマ時代の王や権力者の象徴でもあったクルール・チェア(Curule Chair)とよばれるX脚の椅子だったらしい。
しかしながら、バルセロナ・パビリオンを訪れたアルフォンソ13世は、中庭のプールに面する透明ガラスを背にして置かれた白の子羊の皮革で作られたバルセロナ・チェアには、ついに座ることはなかったという。
その理由は、ミースがバルセロナ・パビリオンで実現した、後のユニバーサル・スペースにつながるような、「流れる空間」には、もはや王が座すにふさわしい空間のヒエラルキーが存在しなかったからだといわれている。(『真理を求めて』 高山真實 鹿島出版会)
あるいは、ミースの手になるこのバルセロナ・チェアが漂わせるシニカルな過激さに何かしら不安なものを感じたからだ、とも言えるかもしれない。
さあ、どうです。現代の玉座とはこんな感じでしょう。ただし、決してお座りになってはなりませぬように。なぜなら、現代の玉座とは座るべき主の不在を象徴するために作られるわけですから。いやはや、お互い、いやな時代に産まれてきましたな。
不安は的中したのかもしれない。スペイン国王アルフォンソ13世はその2年後の1931年、政治的な行き詰まりから亡命し、スペイン王政は廃止され、スペイン内戦が勃発する。
バルセロナ・チェアは、その後、ドイツ出身のハンス・ノールとIITでミースの下で建築を学んだフローレンス・ノールの夫妻が経営するノール社により1948年にアメリカで復刻・製作され今日に至っている。バルセロナ・チェアは、1929年のバルセロナ・パビリオンから今年でちょうど誕生80年を迎える。
ミースが現代の真理の表現と称して乗り越えようとした王や「家族」そのものが不在となってしまって久しい現在においても、新築されたマンションのラウンジにひっそりと置かれたミースの手になる椅子に一人座る時、80年前のミースのシニカルな過激さが、一瞬、脳裏を横切るかもしれない。
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