失われつつある東京の坂と路地を訪ね歩く「東京坂路地散人」シリーズ。
vol.1に続きしばらくは、永井”荷風散人”壮吉の足跡を追って、麻布周辺の坂と路地を探訪することにしよう。
荷風は、大正9年(1920)5月23日にそれまで住んでいた築地二丁目から移り住み、その後空襲で焼失する昭和20年(1945)3月9日年まで約25年間居住した麻布市兵衛町(現港区六本木一丁目付近)の住居を、そのペンキ塗りの外観から(あるいは本人の性格からも)自ら偏奇館と称した。
「麻布市兵衛町に貸地ありと聞き赴き見る。帰途我善坊に出づ。このあたりの地勢高低常なく、岨外の眺望あたかも初冬の暮靄(ぼあい)に包まれて意外なる佳景を示したり。」と大正8年(1919)11月8日の『断腸亭日乗』に初めてこの地を訪ねた時の記述がある。
大正15年12月21日には、「空霽(は)れわたり、窗前(そうぜん)の喬木(きょうぼく)に弦月懸かりて、暮靄蒼然、崖下の街を蔽いたり。英泉が藍摺りの版木を見るが如し。これ同じ山の手にても、大久保の如き平坦の地にありては見ること能はざる光景にして、予の麻布を愛する所以なり。」と記している。
荷風は麻布周辺の崖や坂や緑や眺望やそれらが織り成す山の手特有の風景に惹かれた。
偏奇館自体は空襲で焼失したが、偏奇館跡地はつい数年前まで現存しており、周辺には、荷風が書いているような、崖を見下ろす奥まった路地の様子や高い塀が続く邸宅街を過ぎ坂を下って路地へと分け入ってゆく感じなどがまだ残っていた。
しかしながら、そうした雰囲気も、泉ガーデンの開発によって、周辺の地形そのものが様変わりしてしまい、今は跡形もなくなっている。偏奇館が建っていた場所は、今の泉ガーデンタワーのちょうど東側の車寄せのあたり。その前の新設された道路の植え込みに偏奇館跡を記す小さな石碑が建てられている。
敷地自体が存在しないためか、あるいは、かつての坂や路地とは無縁の環境に置かれいるためか、いかにも所在なげだ。
アークヒルズや泉ガーデンのような地形そのものを変えてしまう大規模開発に蹂躙されながらも、現在も、荷風が偏奇館に住んでいた当時の坂や路地がかろうじて残っているところがある。
現在の泉ガーデンレジデンスの北側を抜けて谷町方面に至る道源寺坂は、荷風が偏奇館から銀座や下町方面に向かうのに今の六本木通りから路面電車や円タクを利用する際に下って行った坂だ。
この坂路地が周囲の巨大開発のなか、かろうじて昔のままに残ったのは、坂の途中にある西光寺と道源寺の存在、そしてこの2つのお寺が高低差の関係でこの坂路地を接道とせざるを得なかったこと、アークヒルズと泉ガーデンの開発エリアのちょうど狭間にあたったことなどが幸いしたのだろうが、激しく様変わりした周囲を歩き、昔の地図を眺めれば眺めるほど、今もこの坂路地とその風景が残っていることがまさに奇跡的といっても良いようなことだったことが判り、静かな興奮を覚える。
「道源寺坂は市兵衛町一丁目住友の屋敷の横手より谷町電車通りへ出づる間道にあり。坂の上に道源寺。坂の下に西光寺というふ寺あり。この二軒の寺の墓地は互いに相接す。」と昭和10年(1935年)6月3日の『断腸亭日乗』には記されている。
坂の途中、ちょうど道源寺のつつましい山門の前には大きな欅が坂道を二分して中央にそびえたっている。この欅は当時からあったものだろうか。アークヒルズと第21森ビルと泉ガーデンレジデンスに囲まれながら、当時からあったであろう大欅や道源寺墓地がひっそりと佇んでいる光景は、なんともいえず江戸東京の来し方を忍ばせ、「感慨禁ずべからず」の眺めである。
坂をほぼ上りきったところは、泉ガーデンの開発に伴なって作られた六本木坂上児童遊園(どうでもいいけど、なんともいいかげんな命名だ)。いつ行っても人気のないこの公園のベンチに座って、坂の先に見えるの首都高速からの車の唸り音を聞きながら道源寺坂を眺めるのが、この近辺をうろつく際のお気に入りのひと時となって久しい。
道源寺坂を下りたところは、首都高速の谷町ジャンクション下。荷風がかつて銀座へと出駆けた夕暮れ時、路面電車ならぬ車のテールランプが薄暮の街に灯り始めていた。
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