失われつつある東京の坂と路地を訪ね歩く「東京坂路地散人」シリーズ。
かつて「六本木」と呼ばれる特別な街があった。
その特別さとは、戦後に米軍相手の飲食店が集まってきたという街のルーツに端を発した外国風のスマートな遊び場と遊び方や、コスモポリタン的な目新しさや、それらをいち早く嗅ぎ取って集まってくる人々の感性や、そうした街に通じている遊び人を気取るスノッブさだったりするものから成り立っていたのだが、そうした特別感が、1960年代以降のマス消費社会のなかでもかろうじて持続し続けていたのは、1964年に営団地下鉄日比谷線が通ったとはいえ、銀座や新宿や渋谷などに比べたマストラによるアクセスの悪さが幸いし、ある種のマイナー感が保たれてきたということが大きかった。
こうした街の起源と歴史と感性に加えて、「六本木」を特別な街にしていた要因として忘れてならないのが、高低差が複雑に入り組んだ地形の存在だ。ここ六本木は、繁華な盛り場に隣接するように、あるいは奥深く食い込むように昔からの坂や路地が縦横に走っているのだ。
そうした坂や路地は、この街に単なる明るい表通りの繁華街にはない暗闇と静寂と奥行きを付与した。キラキラした通りのすぐ裏の路地の闇の深さや、一歩手前の喧騒が嘘のように静まり返る坂ひとつ隔てたお屋敷の存在や、ふと酔った目を凝らすと谷底の暗闇に現れる累々たる墓標群は、チャラチャラした遊び目的の酔っ払いにもその街の持つふところの深さのようなものを感じさせ、不思議と贅沢な感じを抱かせたものだった。
坂や路地の存在は、敷地を断片化し、地形の連続性を遮り、街の広がりを限定した。江戸の旧大名屋敷跡の大規模な敷地のほとんどは、閉鎖的な公共施設として固く門を閉ざしており、かつての六本木には大型の商業施設やオフィスタワーなどは皆無であり、さらにいわゆる文化施設などというものにも縁がなかった。そこにあったのはマイナーでインデペンデントで洗練と猥雑を併せ持った豊穣さというようなものだった。
そんな特別な街も、1986年のアークヒルズの開発で、いくつもの坂路地が消え、赤坂との境があいまいになり、シティホテルやオフィスタワーや立派な文化施設が出現したのを皮切りに、2000年に大江戸線「六本木」駅が開業し新宿や城東方面からのマストラでのアクセス性が飛躍的に向上し、その後、2003年の六本木ヒルズの開発、さらに2007年には防衛庁跡地に東京ミッドタウン、東大生産技術研究所跡地に新国立美術館がそれぞれオープンして、今や昔の話となった。
今回の東京坂路地散人は、かつての残影と共に六本木の坂路地を探訪する。
長らく六本木交差点の目印だった「アマンド」が入った天城ビルも既に解体され現在、建て替え中だ。
地下にあったまさに「ピアノバーのかたちをした昔」といった趣の「プレイヤーズ」もとっくに姿を消している。
坂路地の多い六本木を代表する芋洗坂。緩やかな長い坂の両側に飲食店などが建ち並ぶ光景はこの坂ならではのもの。坂の名前の由来は、かつて、現在の朝日神社の前に芋などを売る市が催され、付近の川でその芋を洗っていたことからきたらしい。六本木に「イモ」とはまことにブラックでなかなかよろしい。
芋洗坂中腹の交差点。4本の坂道が思い思いにという感じで四方から集まってきて、ちょっとしたスクエア的ないい感じの空間を形成している。江戸切絵図などをみるとかつてはここから六本木交差点に至るルートはなかったらしく、この交差点から先は今の麻布警察署の裏の道を芋洗坂と呼んでいたらしい。かつての夜遊びのスタートは三河町のランディックビルの地下の「テニスクラブ」、終わりは芋洗坂中腹にあった定食屋か麻布警察署隣の立喰うどん屋というのがお決まりのコースだった。
芋洗坂から外苑東通りへと抜ける饂飩坂。六本木に似合わない素朴な名前がまたいい。
今もある「チャールストン&サン」。この近くにあった「インフニティ」では、ジョン・ポール・ヤングの”Love is in the Air”がよくかかっていたっけ。アメリカンやヨーロピアンにはないオーストラリアンらしい肩の力が抜けたやや投げやりな軽いノリが今聞いてもなんといえずいい感じだ。
付近の路地を入ると現れる都市の裏側。表は変わっても裏は変わらない。
このあたりのスカスカな都市の隙間という感じも相変わらず。とはいえ、今の六本木では誰も六本木ヒルズの存在から逃れることはできない。
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