食にまつわる書籍を紹介する“食のエクリチュール”シリーズ。
第2回は壇一雄の『壇流クッキング』(1975年)。
これほど読む人をして思わず料理を作ってみたいと思わせしめる読書体験をもたらしてくれる本も珍しいのではないか。
ことさら食材や料理の描写に凝っているわけではないし、レシピや手順が丁寧に解説されているわけでもない。それでいて、本書で紹介される料理ひとつひとつが放つこの喚起力と臨場感は一体どこからきているのか。
いくつか引用してみよう。
例えば、スペイン風煎り貝、
「次にスペイン風をやってみよう。違うところは、サフランの香気と色どりが加わるだけである。アサリをよく砂抜きしておく。サフランを白ブドウ酒で一度煮立たせておき、色どりと香気をとかしこんでおこう。大鍋を熱する。よろしいか。猛烈な火勢・・・・・・。サラダ油を敷こう。ニンニク一片と、トウガラシ。これはスペイン料理にはつきものである。続けざまに貝を全部入れる。塩、コショウ。サフランの溶け込んだ白ブドウ酒をぶっかける。貝が次ぎ次に口を開く。出来上がりだ。」
例えば、ゴボウの和え物、
「やっぱり、何といっても、ゴボウはあの歯ざわりと、匂いである。新ゴボウの出さかる頃、細めのゴボウを買ってきて、一瞬サッとゆがき上げ、包丁のヒラや、スリコギで軽く、ひとたたきして、酢をかけ、ゴマを散らし、なるべく白く仕上げるように淡口醤油で和えるゴボウの味など、あんなに嬉しいものはない。」
なにが何グラムで、なにが何ccなどどこにも書いてないし、料理の写真などもない。そこにあるのは、おそらく料理という行為が本質的に有しているリズムというか、時間性というか、なにかしらそういうものだ。
それにしても漂泊、火宅、流浪の人として知られる壇一雄が、これほどの家庭料理人であったという絶対矛盾とでもいっていいようなコントラスト。
いや、漂白、火宅、流浪であるからこそ、家庭料理への耽溺と沈潜と享楽だったということなのかもしれない。
まえがきに書かれているように、壇一雄にとっての料理の原体験とは、母の出奔と父の頑迷という現実を前にして文字通り自らの食を得るという意味のほかに、当時9歳だったという壇一雄が自らの手で生き延びてゆく唯一の証であり手ごたえだったのではなかったか。
爾来、自ら「買い、作り、食べる」ことは、壇一雄にとって自らが生きることと同義になったのだ。
まえがきにはこうも記されてある。「おそらく、私の旅行癖や放浪は、私の買い出し愛好と重大な関係があるのであって、私にとってその土地に出かけていったということは、その土地の魚菜を買い漁り、その土地の流儀を、見様見真似、さざざまのものを煮たきし、食ったということかもわからない。」「私が真ん中であり、私が移動すれば、私の移動先の味が私の味だと思い込んでしまうようだ。こうして、朝鮮人とくらし、中国人とくらし、ロシア人とくらし、食べ、料理し、見習い、食べ、料理し、うろつき、生涯を過ごしてきたようなものである。」
料理が自己であり、そして家庭であったのだ。家庭があるところに料理があるのではなく、料理があるところが家庭だったのだ。
旅先(放浪先?)での食の風景の素描がこれまた食欲と料理欲とそして旅へと誘って止まないのも本書の魅力。
「スペインの町々をうろついている時に、何がうれしいかといって、裏町の居酒屋や、安食堂のカウンターの上にズラリと酒のサカナが整列していることだ。」
「異国の・・・・・・、旅先の・・・・・・、小さい飲食店で、その店売出しのお菓子だの、料理だのを、つつきながら、ぼんやりとその料理のつくり方に見とれているのは、楽しいことです。」
さらに、なんといっても本書の真骨頂は、制約や偶然や勢いや省略やアレンジや個性やらを恐れない懐の深さと愉快さ。
「なければ、洗面器でもなんでも活用するがよい」、「どうだってよい。こぼれぬように仕上げれば上出来だ。」、「ビクビクすることはない。」、「みっともないなどと、冗談じゃあない。」、「このくらいおどかしておけば、つくるつくらないは、皆様の勝手である。」、「好きな通りでよろしい。」、「一日蒸したって構いはしない。」、「というようなこと勿体ぶって申し述べる先生方のいうことを、一切聞くな。」、「何だっていいのである。」、「みそとアジとゴマの割合はどうするかって?どうだっていい。」、「はじめてつくるから、味が心配だなどとビクビクすることはない。」、「なに、その気になれば、誰だって造作なくつくれるものだ。」、「なあに、思い思いのものをブチ込めばいい」、「名前などどうでもよろしい。」などなど。
どうです、なんとも楽しそうでしょう?さっそく、大正コロッケやスペイン酢ダコやアナゴ丼など本書に載ってる料理に挑戦してみたくなるでしょう?
料理を作るということは生の時間を体験すること。そして、自らの力で生きるということを実感すること。本書の喚起力と臨場感とは生の喚起力と臨場感だったのだ。
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