失われつつある東京の坂と路地を訪ね歩く「東京坂路地散人」シリーズ。
六本木をうろついた後は再び、荷風の偏奇館周辺の徘徊へと歩みを戻そう。
vol.6で書いた偏奇館跡から我善坊谷へと至る道筋で、二股に分かれて我善坊谷に下る坂路地を右に下らずにそのまま進むと仙石山と呼ばれる高台の住宅地に至る。
仙石山の西側は崖下の我善坊町と同じく再開発が進んでおり、ただし、こちらの方は計画の進展が早く既に大半が退去・解体が終わり空地になってしまっている。
仙石藩讃岐守上屋敷に由来する仙石山の住宅地内を通る坂を下ると神谷町へと至る。ちょうどこの仙石山から下りてきて国道一号にぶつかる付近の現三菱UFJ銀行のATMコーナーあたりがかつての菓子屋壷屋があったところらしく(”東京雑派”)、ちょうどその裏あたりが永井荷風が壷中庵と称して、お歌こと当時21歳の関根歌を囲っていた妾宅があったところだ。
「市ヶ谷見附内一口坂に間借りをなしいたるお歌、昨日西ノ久保八幡町壷屋という菓子屋の裏に引移りはずなれば、早朝に赴きて訪う。間取建具すべて古めきたるさま新築の貸家よりもおちつきありてよし。癸亥(きがい)の震災に火事は壷屋より四、五軒先仙石屋家屋敷の崖下にてとまりたるなり。されば壷屋裏の貸家は今日となりては昔めきたる下町風の小家の名残ともいふべきものなり。震災前までは築地浜町辺には数奇屋好みの隠宅風の裏屋ところどころに残りいたりしが今は既になし。偶然かくの如き小家を借り得てここに廿歳を越したるばかりの女を囲ふ。これまた老後の逸興といふべし。」(『断腸亭日乗日乗』昭和ニ年(1927年)十月十三日)
「西窪八幡宮の鳥居前、仙石山のふもとに、壷屋とよびて菓子をひさぐ老舗が土蔵に沿いし路地のつき当たり、無花果の一木門口に枝さしのべたる小家を借受け、年の頃廿一、ニの女一人囲ひ置きたるを、その主人自ら匾(へん)して壷中庵とよびなしけり。」(同十月十六日)と書かれたあたり、ちょうど現在の地下鉄日比谷線神谷町駅の付近の国道1号線の西側の虎ノ門五丁目一体は、ご多分にもれず、周辺の仙石山や我善坊町と同じ不動産業者による将来の再開発を目指した用地買収が進んでおり、残っている家屋の多くが空家となっている。
何件かの空家の中、玄関前にさりげない一木が植えられた小家を発見。荷風の壷中庵もかくのごとき雰囲気だったのか。
もちろんこの辺は戦災で焼け野原になったハズで戦前の家屋が残っているはずはないのだが。
「独り我善坊ケ谷の細道づたひ、仙石山の石径をたどりて、この菴に忍び来れば」(同昭和ニ年十月十六日)と仙石山を下り、あるいは、我善坊谷を抜け頻繁に壺中庵を訪ねる荷風。逆に「薄暮お歌夕餉の惣菜を携え来ること毎夜の如し。この女芸者せしものには似ず正直にて深切(しんせつ)なり。」とまめに偏奇館を訪れるお歌。
この頃が荷風偏奇館時代の正にハイライトではなかったか。
荷風のやつし好み、老い好みという癖を慮ったとしても、わざわざ「壺中庵記」と題して書きつけた昭和ニ年十月十六日付の『断腸亭日乗』の最後の置かれた「長らえてわれもこの世を冬の蠅」という句に込められた心情の半分くらいは本音でその時の幸福感を歌ったものと思われる。
この頃撮られたと思われる荷風と関根歌とのツーショット写真がある(『図説永井荷風』 川本三郎・湯川説子著 河出書房新社)。エクリチュールから想像される老人イメージを見事に裏切るまだまだ壮健な現役イメージのスリーピースを見事に着こなした50歳前後の永井荷風。そして落ち着いた和装にショートヘアに小ぶりの縁なし眼鏡と今見ても十分にモダンで理知的な魅力を放っている関根歌。
控えめでありながら個性を秘め、理知的でありながらかわいい、というところが荷風好みだったのか。
荷風にとって最も長続きした女性であったお歌との関係も、昭和6年にお歌の突然の不可解な発作と荷風の主治医による「遠からず発狂すべき虞(おそれ)」ありとの誤診をきっかけに終焉する。
そして、荷風の偏奇館生活も昭和20年(1945年)3月9日の空襲で偏奇館が焼失して幕を閉じる。
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