失われつつある東京の坂と路地を訪ね歩く「東京坂路地散人」シリーズ。
vol.6は再び、永井荷風の偏奇館周辺に戻り、麻布の坂路地を歩いてみよう。
偏奇館跡の石碑の建っている道路をアークヒルズと反対方向に歩き、なだれ坂や丹波谷坂へと抜ける道路と交差する角が、荷風が良く食事を取りにかよった山形ホテルの跡地。現在の麻布市兵衛町ホームズというマンションの敷地の一画に小さな碑が建っている。
その角を左に曲がり、荷風のいう市兵衛町表通りを右に曲がる。道なりに進むと道は二股に分かれ、右手に急な下り坂の路地が現れる。我善坊谷へ向かう下り坂だ。
この急な坂路地は、『断腸亭日乗』昭和2年(1927)10月16日に「独り我善坊の細道づたい」とあるように永井荷風も偏奇館から今の神谷町・飯倉方面に下る際によく辿った坂路地。偏奇館が空襲で焼失する昭和20年(1945)3月9日の『断腸亭日乗』には「角の交番にて我善坊より飯倉へ出る道の通行し得べきや否やを問うに、仙石山神谷町辺焼けつつあれば行くこと難かるべしと言う。道を転じて永坂に到らんとするも途中火ありて行きがたき様子なり。」という空襲に襲われ行き場を失って切羽つまった様子が手に取るようにしかしながら、他の日と何ら変わらない淡々とした筆致で記録されている。
この坂路地を1年前に歩いた時には確か坂の左手に、小さいながら実に品の良いモダンな白い住宅があったが、今は取り壊されて白い仮囲いフェンスが屹立している。再開発の計画があるらしく、虎ノ門5丁目と表示された坂上の一帯は、既に更地の箇所が大半を占めていた。ここ麻布周辺では、ひと処の再開発が隣接の再開発を呼び起こし、そしてさらに隣の再開発を誘発する、という具合にまるで浸食されるかのように連鎖的に街が変わってゆく。
坂の右手は切り立った崖になっており、鬱蒼とした木々の間に崖下の家屋の裏口やテラスが覗かれる。坂の途中には昔ながら木造家屋が張り付いており、坂はそうした木造家屋を掠めるように右に旋回しながら谷底に向かって下ってゆく。
この名もない坂路地を通るたびにどこか都市の奥へ奥へと下降してゆくような不思議な感覚に捕られる。坂を下りきったところが旧我善坊町。まさに都市の奥と名づけたくなるような麻布の崖と崖のあいだにひっそとリ佇む街。
我善坊町。なんとも意味ありげで趣を感じさせかつ良い響きの町名ではないか。出来ることなら是非とも我がアドレスとしたくなるぐらい魅力的な町名だと思う。
ところで、市兵衛町といい箪笥町といい我善坊町といい、こうした趣きのあるそして一度聞いただけで記憶に残る旧町名が昭和40年代に実施された住居表示によって消失してしまったことは、かえすがえすも口惜しい。六本木一丁目や麻布台一丁目などと聞いても、ちっとも街の姿が脳裏に浮かぶことはない。「麻布細見」は、麻布の旧町名を詳しく記録した麻布マニア必見のサイト。ここに記してサイトオーナーの労を顕彰し、麻布旧町名の記憶のよすがとしたい。
旧我善坊町、現在の麻布台一丁目は、陣内秀信が書いているように江戸の組屋敷の骨格を今に留める住宅地。当時の御家人(下級武士)は役職に応じて様々な組に分かれており、その組ごとにまとまって住んでいたところを組屋敷と呼んでいた。
尾張屋版嘉永・慶応江戸切絵図を見ると、我善坊谷に至る坂路地の様子や御先手組と書かれた街の中央を落合坂が貫いている様子など、今の街の骨格は江戸の時とさほど変わらない様子が窺える。
ちなみに、御先手組とは、もともとは文字通り戦場で先陣を切って戦う武士集団に由来する命名で、いくさがなくなった江戸時代においては、江戸の治安維持や将軍の警護などの役職を担っていた。先の江戸切絵図 によれば荷風の偏奇館のあった市兵衛町崖下も御先手組の居住地だったことがわかる。
to be continued
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