食にまつわる書籍を紹介する“食のエクリチュール”シリーズ。
第3回は吉田健一『酒肴酒』。
食べ物と食べ物屋を語る書は多いが、酒そのものを語る書はそう多くはない。なかでも酒と酒を飲んでいる時空を語るエクリチュールといえばなんといっても吉田健一に止めをさす。
酒を飲んでいる時空とは以下の様なことだ。
「犬が寒風を除けて日向ぼっこをしているのを見ると、酒を飲んでいるとこの境地というものについて考えさせられる。」(飲む話 『酒肴酒』)
「その朝の酒はうまかった。我々には滅多に朝酒を飲む余裕がないということも手伝って、全く太陽を飲んでいるようだった。」(「三楽」 (『酒肴酒』)
「過去には死んだ親しい人達や、自分がした仕事があり、未来には、少なくともその果てには静寂が我々を待っている。そして酒を飲んでいる時はあくせくとそんなことを考えているのではなくて、我々は現在にも生きている。」(「三楽」 (『酒肴酒』)
「酔いが廻って来るに連れて電燈の明かりは人間の歴史が始まって以来の燈し火になり、人間はそれぞれの姿で独立しているきびしくて、そして親しい存在になる。」(「飲むこと」 『続 酒肴酒』)
「だがら、酒を飲んでいれば、春なのである。」(「春の酒」 『新編 酒に呑まれた頭』)
「誰でも飲めるから酒なので、金持は別だというのならば、金持ちは人間ではない。」(「酒談義」 『酒肴酒』)
「いい酒が安くていくらでも手に入り、貧乏人も酒だけは上等なのを飲むということであって始めて酒飲みという人種ができるのである。」(飲む話 『酒肴酒』)
「ただ飲んでいても、酒はいい。(中略)理想は、酒ばかり飲んでいる身分になることで、次には酒を飲まなくても飲んでいるのと同じ状態に達することである。球磨焼酎を飲んでいる時の気分を目指して生きて行きたい。」(「飲むこと」 『続 酒肴酒』)
心底から酒好きにして酒を友としたる吉田健一。
酒はただ普通に飲むことにつきるという、この大らかさと風通しの良さがすごい。旨い酒は限りなく水に近づくという名台詞とあわせて、工夫と経験と時間をかけて行き着くのは、単純で簡素で当たり前という名の洗練であるという卓見には深く頷かされてしまう。
そして、『東京の昔』の冒頭の主人公と勘さんの2人が普通にただ酒を飲み続けるような時空を求めて夜な夜な街に繰り出すことになる。
吉田健一によるワイン(吉田健一流には葡萄酒)のエクリチュールを味わってみよう。
「しかし、概していうと、ブルゴーニュ産のほうがうまいようで、赤葡萄酒の色ももっと濃い紅をしている感じがする。色などどうでもよさそうなものであるが、味の違いがそこにも現れていて、ボルドー産のものよりも野鳥の肉や極上の牛肉に近い手ごたえがあり、飲んでいるのではなく食べている錯覚を起こさせる。しかしそういっては、何か野暮な印象を与えることになって、ブルゴーニュの豪奢な舌触りはそんなものではない。昔、この地方を支配していた君主たちの派手な宮廷の俤(おもかげ)が、今日でもこの酒に残っているのではないだろうか。そう思いたいくらいブルゴーニュの葡萄酒は杯の中できらきら光る。」(「酒の話」 『酒肴酒』)
「喩えていえば、ホメロスが歌った、これは勿論、赤葡萄酒の色をした海の光沢を集めて瓶に詰めたと思わせるのがブルゴーニュの赤にも、白にもあって、ボルドーのはそういうものがないことがむしろ特長になっていらしい。」(「酒談義」 『酒肴酒』)
「いつも思うのは、ボルドーの葡萄酒の上等なのは、どこか清水に日光が射している感じがして、ブルゴーニュのを飲むと、同じ日光が山腹を這う葡萄の羽に当たっている所が目に浮かぶ。」(「酒談義」 『酒肴酒』)
「殊にブルゴーニュ地方には、急に何か日が当っている場所に出たような、あるいは、日光が体の中に差し込んだのに似た感じになることである。もっとも、これは別なふうにも形容出来るので、まわりに俄かに派手な音楽が起こるといってもいい。」(「酒」 『酒肴酒』)
ブルゴーニュ好きはもちろん、そうではないワイン好きも素直に唸らざるを得ないはずだ。
ここまでくると、吉田健一によって飲まれそして書かれたティオペペや菊正宗や初孫やあるいは普通の燗酒や英国のビールやさらに吉田健一が訳したイーヴリン・ウォーの『ブライズヘッドふたたび』のなかで2人の英国青年がワインの利き酒をしながらその味わいを卓抜な言葉で表現してゆくシーンなども味わってみたくなってしまうが、切がないので最後の「一杯」として、丸谷才一や福田和也も太鼓判を押す吉田健一の極めつけの名シーンを味わって締めといたそう。
「しかし、今日の食堂車でも、楽しめないわけではない。「つばめ」が東京駅を出ると間もなく、「皆様(とか何とか前置きをして)、一品料理の仕度が出来ましたから、どうぞおこしくださいませ、」と拡声器に特有の女声で知らせてくれる。それで早速出かけて行って、先ずビールに、それからこれは無難だから、ハム・エッグスを注文する。ハム・エッグスが来たら、辛子をハムにも卵にも一面塗り付けて、その上にソースをたっぷりかけると、不思議と正直な味がして、実にいい。それで、今気が付いたのだが、昔の食堂車の料理があんなに旨かったのは、安い調味料をふんだんに使ったからではないだろうか。あれは西洋風の砂糖醤油の味だったのである。それはともかく、そのソースと辛子でまぶしたハム・エッグスを肴にしてビールを飲む。そうすると、景色がまどの外を流れて行って、芝から銀座の方に行く大通りにかかっているガードを通っている時も、国電の窓から見たのとでは眺めが違う、歌舞伎座のてっぺんから立見するのと、桟敷から見るのとの違いだろうか。そんなことよりも、ビールをあおりながら辛子とソース漬けのハム・エッグスを突ついて、それで悠然として家だの通りだのを見降す心境の問題らしい。しかし、ハム・エッグスはいつかはなくなるから、それでは今度は、―― 何にしようか。ビフテキでは少し重過ぎるから、魚のフライでもいい。これもソース漬けにして、もっとビールを注文する。食堂車の方では商売なのだから、幾ら長くいたって、ものを注文さえしていれば文句があろうはずはない。」(「旅と食べもの」 『新編 酒に呑まれた頭』)
さて、早速キッチンに赴いてハム・エッグスを作ってブルドックのウスターソースとマイユのマスタードをたっぷり塗ったものを肴にビールを飲むとしよう。
*吉田健一の場合、同じ書名でも出版社によって収録作品が異なっているため、『舌鼓ところどころ』は中公文庫版、その他は番町書房版に基づいた。
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