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乾燥ひよこ豆は一晩水につけた後、茹でてそのまま冷ましておく。ヤリイカを捌いて胴は2~3分割する。フライパンにオリーブオイル、潰したニンニク、赤唐辛子を入れ火にかける。イカを投入、白ワインを入れ、ザッと炒める。ひよこ豆を入れ茹で汁も少し入れて乳化させるように炒める。塩・胡椒で味を整え、皿に移しオリーブオイルを回しかけ、イタリアンパセリを散らして完成。イカはホタルイカでも旨いネ。Bon appetit ! Plat du Jour vol.9 copyrights (c) 2011 tokyo culture addiction all rights reserved. 無断転載禁止。
"DEBUT IVES SAINT LAURANT 1962” の中にフランソワーズ・サガンが写っている写真がある。 1935年生まれのフランソワーズ・サガンはイヴ・サンローランの1歳年上。写真の時は27歳、すでに5冊の著作がある「大作家」だ。 フランソワーズ・サガンは、いわゆる美人というタイプではなかったが、育ちが良く、頭の回転が速く、それでいて気取ったところのない知的な魅力を持った女性だったと、当時会った人々は口をそろえる。 フランソワーズ・サガンが『悲しみよこんにちは』(1954年)を書いたのが18歳の時。世界的なベストセラーとなり、サガンは一躍スターになった。 18歳が書いたとは思えない間然としたところがない見事な構成の小説だ。それと瞬間の思考や感覚を辿っていくような文体が新鮮だ。 「わたしは明け方から海に行き、ひんやり透きとおった水にもぐって、荒っぽい泳ぎで体を疲れさせ、パリでのあらゆる埃と暗い影を流そうとした。砂浜に寝ころび、砂をつかんで、指にあいだから黄色っぽくやさしいひとすじがこぼれいくにまかせ、<砂は時間みたいににげていく>と思ったり、<それは安易な考えだ>と思ったり、<安易な考えは楽しい>と思ったりした。なんといっても夏だった」 「アンヌが姿勢を正した。その顔がゆがんでいた。泣いていたのだ。不意にわたしは理解した。わたしは、観念的な存在などではなく、感受性の強い生身の人間を、侵してしまったのだ、と。この人にも小さなこども時代があったのだ。きっと少し内気だっただろう。それから少女になり、女になった。四十になり、まだひとりで生きてきたところで、ある男を愛した。その人と、あと十年、もしかしたら二十年、幸せでいたいと願った。それをわたしは・・・・・・・この顔は、わたしが作りあげてしまったものなのだ。私は動くこともできなくなり、ドアに体を押しつけたまま、全身で震えていた」 18歳で億万長者となったフランソワーズ・サガン。『悲しみよこんにちは』の印税は5億フランにも上った。40冊以上の著書。少なからずベストセラーになり、かつてはそのほとんどが新潮文庫に入っていた。一方で住むところにも困窮した晩年。サガンの著作権は今もってその残した負債とともにフランス国税庁の管理下にあるという。 「フランソワーズ・サガン、安らかならず、ここに眠る」。2004年69歳で没したサガンの墓碑銘だ。生前から本人が考えていたものだそうだ。 フランソワーズ・サガンは日本では伝記などがほとんど翻訳されておらず、『悲しみよこんにちは』の早熟で聡明な作家、おしゃれで個性的な時代の寵児、「女子供向け」の恋愛小説作家という流布しているイメージが強すぎたせいか、あまり知られていないが「存在論的な薬物中毒者」といわれるほどの薬物常用者でありかつその人生は破天荒なほどの過剰さに満ちている。 それにしてもサガンの生の過剰さは異常だ。 22歳の時、時速180キロのアストン・マーチンDB2/4・マーク2・カブリオレで大事故を起こし、危うく死にかけている。頭骸骨、胸郭、骨盤、手首、鎖骨を骨折する大怪我だ。 サガンは、スピードの陶酔感をこう表現している。「それが賭けや偶然に通じるように、スピードは生きる幸福(よろこび)に通じる。そしてそれゆえ、この生きる幸福(よろこび)の中につねに漂っている死への漠とした希望にも通じるのである。これが、結局のところ、私が真実と思うすべてだ」(『私自身ののための優しい回想』 1984年) ギャンブルにものめりこんだ。フランス中のカジノから締め出しをくった後も、ロンドンまで遠征してバカラやルーレットのテーブルに陣取っている。 二度の結婚と離婚、そして一度の出産。一度目の結婚は20歳年上の編集者と二度目は陶芸家を自称するアメリカ人と。コンサバで責任感のあるサガンらしく二度目は妊娠がその理由だった。 大量のアルコールの摂取。クールとウイスキーとナイトクラビングはサガンのトレードマークだった。40歳で膵臓炎を引き起こし、以来アルコールは禁止された。 そして薬物中毒。サガンは『悲しみよこんにちは』のころからアンフェタミン製剤(いわゆる覚せい剤)を服用していた。ちなみにフランスではサルトルが愛用していて有名だったコリドランなどのアンフェタミン製剤は1971年までは合法だったらしい。サガンは1957年の車での事故以来、モルヒネ依存症にも陥っていた。 「目覚めるためにアンフェタミン製剤、眠るためにモルヒネというのが、当時のサガンの驚くべき習慣だった」(『サガン 疾走する生』 マリー=ドミニク・ルリエーヴル 阪急コミュニケーションズ)。 アンフェタミンが販売禁止になるとコカインを常用するようになり、薬物中毒による入退院を繰り返す。1985年にはミッテラン大統領と同行したコロンビアのホテルでオーバードーズで卒倒。政府専用機でフランス陸軍病院に運ばれ一命を取り留めた。文化相のジャック・ラングは、サガンは高山病で倒れた、と苦し紛れの発表をした。1995年にはコカインの使用・所持で有罪判決を受けている。晩年はコカイン入手のための金策で四苦八苦していた。 サガンの稼ぐ印税に寄ってくる有象無象の人々。気前が良くて金銭に無頓着なサガン。こうしてサガンの莫大な印税はすべて消え去った。最後は、ミッテランへのウズベキスタンの石油開発に関する口利き料を巡る詐欺まがいの事件に巻き込まれ400万フランの脱税容疑で起訴され、資産をすべて差押えられている。 この他にも、バイセクシュアル、整形手術、錯乱した行動、うつや精神疾患による入退院の繰り返しなどサガンの過剰な生に関する話題は事欠かない。この過剰さは一体なんなのだろうか。 サガンの一連の行動には、何かから必死で逃れようとしながら、自らが進んで破滅をおびきよせてしまう破滅願望のようなものが感じられる。 そういえば『悲しみよこんにちは』の主人公にも、結末をどこかで予感しながら知らず知らずのうちに破局を呼び寄せているような、そんな雰囲気が漂ってはいまいか。 繊細なガラス細工を手にし、それが壊れそうな予感に恐怖と不安を覚え、それが壊れるという現実を見る前にいっそ自らの手で粉々に破壊してしまいたくなるような心持とでもいえば良いだろうか。 サガンの繊細な神経と明晰な頭脳は、目の前の現実の崩壊の予感を無視するにはナイーブすぎ、その崩壊を待つほど忍耐強くはなかったのだろう。 過剰な生により時の流れを加速して自らその崩壊を早めているかのようなサガンの生き方。スピードもギャンブルもアルコールも夜遊びも麻薬も現実の時の流れの実感から逃避する手段だったのだ。 サガンの高校時代からの友人のフロランス・マルロー(父親はアンドレ・マルロー)が証言している。「サガンは多食症みたいなところがあった。薬も、アルコールも、車で飛ばすことも、友人と過ごすことも。もう少し、もう少しだけと求めつづけて、寝る時間になっても、1人になるのがいやで、ベッドまでついてきちゃうような人なのよ」(前掲書) 時が夜を終わらせることに耐えられないような繊細な神経。もしそうだとしたらサガンの孤独は著しく際立っていたはずだ。 映画『イヴ・サンローラン』では、ピエール・ベルジェが、1968年の5月革命の騒動の中、マラケシュの別荘に逃れるに際して、サガンがベルギーまで車に乗せてくれたとの思い出を語っている。 サンローランとベルジェのアパルトマンがあったバビロンヌ通りとサガンが住むシェルシュ=ミディ通りはすぐ近くだ。 薬物によるものなのかサガンのしばしばの奇行、例えば画廊の絵をすべて買い占めるなど、をピエール・ベルジュはよく面度をみて後始末をしていた。サガンにとってもベルジェは親代わりのような存在だったのか。ベルジェはサガンの葬儀にも参列している。編集者は一人も来ていなかった。 <フランソワーズ・サガンとピエール・ベルジェ 1958> イヴ・サンローランとフランソワーズ・サガン。 陰画のような2人。コレクションという魔界の重圧のなかのサンンローランの孤独。なにかに憑かれたかのように破滅を求めるサガンの孤独。 2人はマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』を生涯愛読していた。 サンローランの書斎の本棚にはさりげなくプルーストの写真が置かれ、ノルマンディの別荘の部屋は『失われた時を求めて』の登場人物にちなんだ名前がつけられ、その人物をイメージしたインテリアで飾られていた。サンローランのお気に入りの登場人物はスワンだった。 サガンというペンネームは『失われた時を求めて』でプルーストが言及しているサガン大公から取られている。 サガンは先の回想録のなかで愛読書の1冊としてプルーストの『失われた時を求めて』を挙げてこう記している。 「私は限界、底、がないということ、真実、むろん人間的真実という意味だが、真実はいたるところに在る、いたるところに差し出されており、真実こそ唯一の望ましいものであると同時に唯一の到達不可能なものである、ということを発見した」 時の過酷さを独り予感してしまった明晰なサガンの意識そのものを表しているような言葉ではないか。 copyrights (c) 2011 tokyo culture addiction all rights reserved. 無断転載禁止。
人参を千切りにしてツナを加え、ボウルに入れ冷蔵庫で冷やす。卵を固ゆで(水から12分)にし黄身と白身を別々に刻んでおく。食べる10分前にボウルの人参に塩・胡椒をし、白ワインヴィネガー、赤ワインヴィネガー、オリーブオイルで和える。刻んだゆで卵を上から散らして好みでブラックペパーを。ツナの代わりにスモークサーモンでも良い。ニンジンの食感と自然の甘さがいいネ。 Bon appetit ! Plat du Jour vol.8 copyrights (c) 2011 tokyo culture addiction all rights reserved. 無断転載禁止。
イシモチの鱗、内臓、エラを取り流水で洗い水気を拭き、背びれにそって切れ目を入れる。耐熱の皿に潰したしょうが、半割りしたネギの青いところを敷き魚を置き、魚の上にもしょが、青ネギを乗せ、酒を振り、蒸し器で約20分蒸す。鍋に塩、しょうゆ、黒酢、砂糖を入れひと煮立ちさせる。別の鍋にサラダオイル、花椒を入れ火にかけ煙が出るぐらい熱する。蒸し上がった魚にタレを回しかけ、白髪ネギを乗せ、熱したオイルをジュッとかけて香菜を散らして完成。魚はメバル、鯛などでもOK。Bon appetit ! Plat du Jour vol.7 copyrights (c) 2011 tokyo culture addiction all rights reserved. 無断転載禁止。
イヴ・サンローランを描いたドキュメンタリー映画『イヴ・サンローラン』を観てきました。 映画はサンローランによる2002年の引退宣言の映像から始まり、2008年の葬儀の模様を挟み、バビロンヌ通りのアパルトマンやノルマンディーの別荘におかれていた膨大なコレクションがクリスティーズの手によってオークションにかけられゆくプロセスを追った映像と50年以上サンローランの公私に渡るパートナーだったピエール・ベルジェの回想とによって進行してゆく。 絵画が壁からが剥がされ、リスト化され、箱に入れられ、次々と運び出されてゆく。インテリアとアートが一体となって濃密な空気を漂わせていたアパルトマンの空間が徐々に空虚さによって侵食されてゆく。 膨大なアートは1つ1つ頑丈なクレート(木箱)に梱包され、ジェット機でニューヨークやロンドンの下見会に運ばれてゆく。 プライベートなモノがいつの間にかパブリックな「商品」へと転換し、世界というマーケットに放り込まれる瞬間。 淡々と描かれる競売のプロセスとアートに埋め尽くされたアパルトマンの様子や悲しみを内に秘めたピエール・ベルジュの回想とを対比させた演出は、アートとマネーのリアリティを浮かび上がらせてなかなか見事だ。 「私が死んでもイヴはコレクションを売ったりはしなかったでしょう」というピエール・ベルジェの言葉が印象に残る。どんなに見事なコレクションがあっても(イヴがいなければ)、ということか。深い喪失感が漂う。「美の墓場」、オークションをピエール・ベルジェはこう表現していた。 映画の原題は ”L’amour Fou” 、日本語では「狂おしい愛」という感じ。"Fou" は直訳すると狂気、狂ったという意味だ。 なるほど。 2人の関係もさることながら、この膨大なコレクションを欲望するのもほとんど狂気に近いような気がする。ニューヨーク・タイムズは、バビロンヌ通りのアパルトマンを「アリババの巣窟」と呼んだそうだ。 コレクションの売却額は総額430億円。個人のコレクションとしては過去最高額だった。全額がエイズ対策の団体に寄付されたという。 それにつけても、ギリシャ・ローマ時代の古美術からマティス、ピカソ、セザンヌ、モネ、ブランクーシ、デュシャンなどの近・現代美術、そしてインド・中国などのオリエンタルな古美術、さらにはアイリーン・グレイの家具まで、この膨大なアートを収集する欲望とそれらを空間の一部となすインテリアは、まさに西洋的メンタリティそのものだ。西洋における室内の壁は絵や鏡などいわゆるアートを飾ることを前提にしているということが良くわかる。本質的に日本の伝統的な室内に壁は無い。彼我の差に改めて気づかされ興味深い。 イヴ・サンローランは1936年、当時植民地だったアルジェに生まれる。19歳でクリスチャン・ディオールに見出され、ディオールの死をきっかけに21歳で同メゾンのチーフデザイナーに指名される。当時のクリスチャン・ディオールの「私は彼に認められたい」という言葉ほど、サンローランの特別な才能を象徴する言葉はないだろう。念のためこの「私」とはあのクリスチャン・ディオールのことだ。 “DEBUT IVES SAINT LAURANT 1962” と題された写真集がある。サンローランがディオールを解任された後、ピエール・ベルジェとIVES SAINT LAURANTを設立し、最初のオートクチュールのコレクションを発表する時の準備からの模様を捕らえた写真集である。 ライフの写真家ピール・ブーラPierre Boulat の写真にル・モンドのファッションジャーナリスト ローランス・ベナイムLaurence Benaim が文章を添えている。 映画にもこの本の中からかなりの枚数の写真が登場していた。 朝日のような若々しさ、少年の無垢なシャイネス、折れてしまいそうな繊細さ、いかにも才気ばしった表情、溢れ出るアイディア、絶えず襲ってくるプレッシャー、熟考する真剣な眼差し、大胆で独創的なデザイン、布地を這う職人の手つき、拭い切れない不安、成功の後に溢れ出る涙etc. 当時のサンローランと彼が置かれていた世界を垣間見せてくれる。 写真にはピエール・ベルジェの手になるキャプションが付されている。ちなみに上の写真のキャプションは"A single eye to see everything"というもの。 この最初のコレクションは大成功し、サンローランによるオートクチュールメゾンがスタートする。それ以降、革新的で高度に洗練されたコレクションを立て続けに発表し、サンローランは「モードの帝王」と呼ばれるようになった。 「イヴは火を掲げる人でした。最初に火を掲げる者がいなかったら我々は火を使うことも見ることもできないのです」 映画にはかつてのサンローランのミューズだったベティ・カトルーとルル・ドゥ・ラ・ファレーズも登場し当時を回想している。 下の写真は1966年にスタートしたプレタポルテ サンローラン・リブゴーシュの前で撮られたサファリスーツに身を包んだ3人。今見ても色あせないカッコよさ。 タキシード、パンツスーツ、サファリスーツ、トレンチコート、ピーコートなど、いまや働く女性にとって当たり前のこうしたアイテムのすべてはサンローランが創り出したものだ。 「シャネルは女性に自由を与えましたが、イヴは女性に権力を与えました。彼は女性の肩に男性の服を置くことによって女性に権力を与えたのです。ココ・シャネルは彼を唯一の後継者とみなしていました」 最後のコレクションの様子が登場する。フィナーレでピエール・ベルジェに肩を押されてやっとのことでランウェイに出てきて、どこかぎこちなく無気力な様子で会釈する濁った表情のサンローラン。 サンローランは既に70年代からアルコールとコカインを常用しており、生来のうつ気質と相まってまさに薬に頼りながらの創作だったらしい。引退してからの数年はマラケシュの別荘にこもり、薬漬けの生活だった。 「イヴがリラックスできたのはコレクションが終わった夜だけでした。翌日からは再び次のコレクションに向けた重圧と孤独が襲ってきたのです」 三島由紀夫は『肉体の学校』(1963年)のなかで同年に初来日したサンローランの帝国ホテルでのショーの場面を登場させ、ショーの直前に倒れてしまったサンローランを「なにしろ針金みたいな神経の人物だから」と表現した。 それほどまでにして前に進まざるを得ないということはどういうことか。才能なのかプライドなのかビジネスなのか。 サンローランにとってコレクションとは、打ち込めば打ち込むほどいつの間にか自己自身がその虜になって抜けられなくなってしまうような世界だったのではないか。 嫌だとからいって疲れたからといって離れられず、むしろそれがないと生きていけない世界。憎みながらも恐れながらもそれを求めずにはいられない世界。 そうした魔界に住む者にとって、一時でも逃避の夢をみせてくれるのがアルコールでありコカインへの耽溺だったのだろう。 狂気と見紛うばかりのアートへの惑溺もたぶんそうなのだ。 若きサンローランがあるインタヴューに答えて言う、「責任を逃れて若さを味わってみたかった」と。 「名声はどんなに輝かしくてもそれは葬列なのです」 名声とはそうした魔界に住む者が失った若さと自由と自己の代償のことだったのだ。 to be continued *「 」内のピエール・ベルジェの言葉は発言の主旨。出典は本映画の他にインタヴューや著書『サンローランへの手紙』(中央公論社)。 copyrights (c) 2011 tokyo culture addiction all rights reserved. 無断転載禁止。
鍋に白ワイン、白ワインヴィネガー、赤唐辛子、砂糖、粒黒胡椒、レモンの薄切り、ローリエを入れひと煮立ちさせマリネ液を作る。キビナゴを流水で洗い水気を拭き取って塩胡椒を振る。小麦粉をいったん白くなるぐらいにまぶし、良くはたく。キビナゴを油でカリッと揚げ、熱いうちにボウルに入れ、やや太目の千切りにしたニンジン、玉ネギの薄切りを加え、塩を振り、マリネ液を注ぎ良く馴染ませる。魚はワカサギや小アジでもOK。次の日の方が旨いネ。Bon appetit ! Plat du Jour vol.6 copyrights (c) 2011 tokyo culture addiction all rights reserved. 無断転載禁止。
イカを捌いて、胴は輪切り、エンペラ、足も適当に切る。ワタと墨は搾り出し白ワインに溶かす。フライパンに潰したニンニク、みじん切りにした玉ネギを入れオリーブオイルで炒め、ワタ、墨、市販のイカ墨ペースト、白ワイン、トマト水煮を入れ、少し煮詰めてイカ墨ソースを作る。別のフライパンにオリーブオイル、赤唐辛子を入れ、イカをサッと炒め、イカ墨ソースをからめ、イタリアンパセリを入れ、塩胡椒で味を調える。イカ墨ソースでパスタやリゾットも。白い服はご用心!Bon appetit ! Plat du Jour vol.5 copyrights (c) 2011 tokyo culture addiction all rights reserved. 無断転載禁止。
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