"DEBUT IVES SAINT LAURANT 1962” の中にフランソワーズ・サガンが写っている写真がある。
1935年生まれのフランソワーズ・サガンはイヴ・サンローランの1歳年上。写真の時は27歳、すでに5冊の著作がある「大作家」だ。
フランソワーズ・サガンは、いわゆる美人というタイプではなかったが、育ちが良く、頭の回転が速く、それでいて気取ったところのない知的な魅力を持った女性だったと、当時会った人々は口をそろえる。
フランソワーズ・サガンが『悲しみよこんにちは』(1954年)を書いたのが18歳の時。世界的なベストセラーとなり、サガンは一躍スターになった。
18歳が書いたとは思えない間然としたところがない見事な構成の小説だ。それと瞬間の思考や感覚を辿っていくような文体が新鮮だ。
「わたしは明け方から海に行き、ひんやり透きとおった水にもぐって、荒っぽい泳ぎで体を疲れさせ、パリでのあらゆる埃と暗い影を流そうとした。砂浜に寝ころび、砂をつかんで、指にあいだから黄色っぽくやさしいひとすじがこぼれいくにまかせ、<砂は時間みたいににげていく>と思ったり、<それは安易な考えだ>と思ったり、<安易な考えは楽しい>と思ったりした。なんといっても夏だった」
「アンヌが姿勢を正した。その顔がゆがんでいた。泣いていたのだ。不意にわたしは理解した。わたしは、観念的な存在などではなく、感受性の強い生身の人間を、侵してしまったのだ、と。この人にも小さなこども時代があったのだ。きっと少し内気だっただろう。それから少女になり、女になった。四十になり、まだひとりで生きてきたところで、ある男を愛した。その人と、あと十年、もしかしたら二十年、幸せでいたいと願った。それをわたしは・・・・・・・この顔は、わたしが作りあげてしまったものなのだ。私は動くこともできなくなり、ドアに体を押しつけたまま、全身で震えていた」
18歳で億万長者となったフランソワーズ・サガン。『悲しみよこんにちは』の印税は5億フランにも上った。40冊以上の著書。少なからずベストセラーになり、かつてはそのほとんどが新潮文庫に入っていた。一方で住むところにも困窮した晩年。サガンの著作権は今もってその残した負債とともにフランス国税庁の管理下にあるという。
「フランソワーズ・サガン、安らかならず、ここに眠る」。2004年69歳で没したサガンの墓碑銘だ。生前から本人が考えていたものだそうだ。
フランソワーズ・サガンは日本では伝記などがほとんど翻訳されておらず、『悲しみよこんにちは』の早熟で聡明な作家、おしゃれで個性的な時代の寵児、「女子供向け」の恋愛小説作家という流布しているイメージが強すぎたせいか、あまり知られていないが「存在論的な薬物中毒者」といわれるほどの薬物常用者でありかつその人生は破天荒なほどの過剰さに満ちている。
それにしてもサガンの生の過剰さは異常だ。
22歳の時、時速180キロのアストン・マーチンDB2/4・マーク2・カブリオレで大事故を起こし、危うく死にかけている。頭骸骨、胸郭、骨盤、手首、鎖骨を骨折する大怪我だ。
サガンは、スピードの陶酔感をこう表現している。「それが賭けや偶然に通じるように、スピードは生きる幸福(よろこび)に通じる。そしてそれゆえ、この生きる幸福(よろこび)の中につねに漂っている死への漠とした希望にも通じるのである。これが、結局のところ、私が真実と思うすべてだ」(『私自身ののための優しい回想』 1984年)
ギャンブルにものめりこんだ。フランス中のカジノから締め出しをくった後も、ロンドンまで遠征してバカラやルーレットのテーブルに陣取っている。
二度の結婚と離婚、そして一度の出産。一度目の結婚は20歳年上の編集者と二度目は陶芸家を自称するアメリカ人と。コンサバで責任感のあるサガンらしく二度目は妊娠がその理由だった。
大量のアルコールの摂取。クールとウイスキーとナイトクラビングはサガンのトレードマークだった。40歳で膵臓炎を引き起こし、以来アルコールは禁止された。
そして薬物中毒。サガンは『悲しみよこんにちは』のころからアンフェタミン製剤(いわゆる覚せい剤)を服用していた。ちなみにフランスではサルトルが愛用していて有名だったコリドランなどのアンフェタミン製剤は1971年までは合法だったらしい。サガンは1957年の車での事故以来、モルヒネ依存症にも陥っていた。
「目覚めるためにアンフェタミン製剤、眠るためにモルヒネというのが、当時のサガンの驚くべき習慣だった」(『サガン 疾走する生』 マリー=ドミニク・ルリエーヴル 阪急コミュニケーションズ)。
アンフェタミンが販売禁止になるとコカインを常用するようになり、薬物中毒による入退院を繰り返す。1985年にはミッテラン大統領と同行したコロンビアのホテルでオーバードーズで卒倒。政府専用機でフランス陸軍病院に運ばれ一命を取り留めた。文化相のジャック・ラングは、サガンは高山病で倒れた、と苦し紛れの発表をした。1995年にはコカインの使用・所持で有罪判決を受けている。晩年はコカイン入手のための金策で四苦八苦していた。
サガンの稼ぐ印税に寄ってくる有象無象の人々。気前が良くて金銭に無頓着なサガン。こうしてサガンの莫大な印税はすべて消え去った。最後は、ミッテランへのウズベキスタンの石油開発に関する口利き料を巡る詐欺まがいの事件に巻き込まれ400万フランの脱税容疑で起訴され、資産をすべて差押えられている。
この他にも、バイセクシュアル、整形手術、錯乱した行動、うつや精神疾患による入退院の繰り返しなどサガンの過剰な生に関する話題は事欠かない。この過剰さは一体なんなのだろうか。
サガンの一連の行動には、何かから必死で逃れようとしながら、自らが進んで破滅をおびきよせてしまう破滅願望のようなものが感じられる。
そういえば『悲しみよこんにちは』の主人公にも、結末をどこかで予感しながら知らず知らずのうちに破局を呼び寄せているような、そんな雰囲気が漂ってはいまいか。
繊細なガラス細工を手にし、それが壊れそうな予感に恐怖と不安を覚え、それが壊れるという現実を見る前にいっそ自らの手で粉々に破壊してしまいたくなるような心持とでもいえば良いだろうか。
サガンの繊細な神経と明晰な頭脳は、目の前の現実の崩壊の予感を無視するにはナイーブすぎ、その崩壊を待つほど忍耐強くはなかったのだろう。
過剰な生により時の流れを加速して自らその崩壊を早めているかのようなサガンの生き方。スピードもギャンブルもアルコールも夜遊びも麻薬も現実の時の流れの実感から逃避する手段だったのだ。
サガンの高校時代からの友人のフロランス・マルロー(父親はアンドレ・マルロー)が証言している。「サガンは多食症みたいなところがあった。薬も、アルコールも、車で飛ばすことも、友人と過ごすことも。もう少し、もう少しだけと求めつづけて、寝る時間になっても、1人になるのがいやで、ベッドまでついてきちゃうような人なのよ」(前掲書)
時が夜を終わらせることに耐えられないような繊細な神経。もしそうだとしたらサガンの孤独は著しく際立っていたはずだ。
映画『イヴ・サンローラン』では、ピエール・ベルジェが、1968年の5月革命の騒動の中、マラケシュの別荘に逃れるに際して、サガンがベルギーまで車に乗せてくれたとの思い出を語っている。
サンローランとベルジェのアパルトマンがあったバビロンヌ通りとサガンが住むシェルシュ=ミディ通りはすぐ近くだ。
薬物によるものなのかサガンのしばしばの奇行、例えば画廊の絵をすべて買い占めるなど、をピエール・ベルジュはよく面度をみて後始末をしていた。サガンにとってもベルジェは親代わりのような存在だったのか。ベルジェはサガンの葬儀にも参列している。編集者は一人も来ていなかった。
<フランソワーズ・サガンとピエール・ベルジェ 1958>
イヴ・サンローランとフランソワーズ・サガン。
陰画のような2人。コレクションという魔界の重圧のなかのサンンローランの孤独。なにかに憑かれたかのように破滅を求めるサガンの孤独。
2人はマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』を生涯愛読していた。
サンローランの書斎の本棚にはさりげなくプルーストの写真が置かれ、ノルマンディの別荘の部屋は『失われた時を求めて』の登場人物にちなんだ名前がつけられ、その人物をイメージしたインテリアで飾られていた。サンローランのお気に入りの登場人物はスワンだった。
サガンというペンネームは『失われた時を求めて』でプルーストが言及しているサガン大公から取られている。
サガンは先の回想録のなかで愛読書の1冊としてプルーストの『失われた時を求めて』を挙げてこう記している。
「私は限界、底、がないということ、真実、むろん人間的真実という意味だが、真実はいたるところに在る、いたるところに差し出されており、真実こそ唯一の望ましいものであると同時に唯一の到達不可能なものである、ということを発見した」
時の過酷さを独り予感してしまった明晰なサガンの意識そのものを表しているような言葉ではないか。
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