柄谷行人『世界史の構造』(岩波書店)を読んで世界資本主義について考えた。
本書は、社会変動を「生産様式」からではなく「交換様式」から構造論的に解明することを目指したものである。
その意味で、本書は「マルクス主義的」ではなく、「マルクス的」な書であるといえるだろう。
本書の論旨は以下の通りだ。
交換様式は、互酬(贈与と返礼)、略奪と再配分(支配と保護)、商品交換(貨幣と商品)、「X」の4つのタイプに大別されるとし、それに対応した近代の社会体制は、それぞれ、ネーション、国家、資本、「X」である。「X」とは交換様式でいうと「互酬を高次で回復するもの」、社会体制でいうと、柄谷のいう「アソシエーショニズム」ということになる。
今の我々の社会は、商品交換という交換様式(産業資本主義)を主流としながら、ネーション、国家、資本の3つがボロメオの輪のように結合した社会構成体として存在しており、それは例えば、「国家」が「資本」の増殖のためにグローバリゼーションを後押しする仕組みとして機能する一方で、「ネーション」は「資本」のもたらす(あるいは「国家」の再配分によって実現されない)対立や諸矛盾を越える共同性(ベネディクト・アンダーソンのいう「想像の共同体」)を創造的に実現しているという、ネーション=国家=資本が相互補完的に結びついた社会であるという。
産業資本の自己増殖には以下の3つの前提、1)市場外部の「自然」(いわゆる自然環境のこと)の存在、2)市場の内部の「人間的自然」(いわゆる安価な労働力を提供し続ける労働者と資本が生み出し商品を購入し続ける消費者)の存在、3)技術革新(いわゆる労働生産性の持続的な上昇)の永続が必要とされるが、しかしながらこの3つの前提はいまや急速に失われつつあり、その結果、いずれは資本の自己増殖が不可能な事態が到来する。こうした事態の帰結は、資本の増殖の前提を奪い合う国家間の闘争、いわゆる戦争である。
「資本」を乗り越えるには同時に「国家」も揚棄する必要があり、下部構造を変革すれば上部構造も変わると認識したことが、これまでのすべてのマルクス主義的社会主義革命が最後には国家主義に転換し失敗に終わっている原因であると喝破する。
その上でネーション=国家=資本を同時に乗り越えるものが、上記で「X」と記述された「互酬原理に基づく世界システム(世界共和国)」の実現であり、そのために国連を軸とした各国のネーションと国家と資本への対抗運動による漸進的な「世界同時革命」がその道であるとされる。
現在の国連がはなはだ無力で目指すべき「世界システム」にはほど遠い現実についてはこう述べられる。
「国連への批判はいつもカントに対するヘーゲルの批判に帰着する。すなわち、国連によって国際紛争を解決しようとする考えは、「カント的理想主義」にすぎないといわれるのである。もちろん、国際連合は無力である。だからといって、それを嘲笑して無視しつづけるならば、どういうことになるか。世界戦争である。しかし、それは新たな国際連合を形成することに帰結するだろう。したがって、カントの見方には、ヘーゲルのリアリズムよりも、もっと残酷なリアリズムがひそんでいる」
ロバート・ケーガンは2003年の『ネオコンの論理』(光文社)で、ヨーロッパが諸国間協調(カント主義)の「楽園」に安住していられるのはアメリカの軍事力と「力」による闘争の意思(ヘーゲル主義)のおかげであり、その差は持てる「力」の差からくる世界観の違いであり、もはやその溝は埋め難いものがある、と主張した。
いま世界で起こりつつあることはアメリカのヘゲモニーの維持というよりは、長期的なアメリカのヘゲモニーの衰退、複数のパワーの台頭という方が現実の事態に合致しているように思われるが、短期的な意味では、アメリカの「力」の論理はある種の説得性と現実性を有していると認めざるを得ない。
柄谷行人『世界史の構造』は、こうしたパワー・ポリティクスの持つリアルではあるが袋小路的な閉塞感に対峙し得る明快な論理性を提供してくれる。それが実現までに長い射程を要する理想的論理であったとしても。
閑話休題。
今回考えてみたいのは、こうした資本と国家の揚棄を目指した道筋のことではなく、交換様式という視点からみた産業資本主義のことだ。
「産業資本の特質は、それが特殊な商品、すなわち「労働力商品」をもつことにある。すなわち、産業資本は、労働者から労働力商品を買って、彼らに労働させるとともに、彼らにその生産物を買わせる、その差額から剰余価値を得るのである。このような蓄積は、労働者を消費者にしなければ成立しない」
「労働者が同時に、彼らが生産した物を買いもどす消費者としてあらわれるときに、産業資本主義ははじめて、自己再生的システムとして自律性を獲得するのである」
普段はすっかり忘れているが我々は、労働者=消費者という存在、つまり、労働力という商品を売ってその対価で生活に必要な商品を購入して生きている存在なのだ。
我々は資本に労働力という商品を売っている一方で、資本は消費者にいわゆる商品を売っている。我々は資本が労働力を買ってくれなければ収入を得られないが、一方で資本も消費者が商品を買ってくれなければ利潤を得られない。
関係性は対等、のようにみえる。
とはいえ、我々の日々の実感は、「神様」としての消費者よりも自らの唯一の売りものが労働力商品しかないという労働者(労働者という表現に抵抗があるとすると、サラリーマンやビジネスマンや取締役でも同じことだ)としての自己だろう。そうでなければ、毎朝、疲労困憊しうんざりするような満員電車を我慢しているハズがないでないか。
関係性は対等ではないのである。何故か?
消費者が消費を行使するには先立つものが必要だからだ。つまり最初のステップにおいて消費者は労働者からスタートするしかないからだ。さらにサイクルが回り出して労働者=消費者となったn期においても、n+1期時点の収入に不安が残る場合はやはり我々の立場は消費者よりも労働者のそれが優先される。消費しないという選択枝(ボイコット)には収入は必要ない。しかしながら、商品Aをボイコットすることはできるがすべての商品をボイコットすることはできない。死んでしまうから。したがって総資本と総消費という視点からは、我々は常に消費者である前に労働者であらざるを得ない立場に陥っているのだ。
したがって原理的な意味で真の対等な関係性を実現するには柄谷がいうように、「非資本主義的な経済圏」の存在が不可欠となる。
しかしながら、こうした現実を踏まえた後も、我々は労働者=消費者という構図の持っている意味を忘れてはならないと思う。
それは、自らの消費を通じて自己の主体性をいかに回復していくか、自らの消費者としての立場を賭して商品を選択していくことを通じて関係の対等性をいかに実現していくかという可能性を意味するからである。
そのためには、先ず自らの消費の根拠を省みることが必要だ。
資本主義を推し進める根源にあるのは人間の欲望だ。しかしながら、自分の欲望は他人の欲望であるということが厄介なのだ。人間はみな他人の認証を必要とするという人間の心性に由来しているからだ。自分の欲望だと思っていることの大半は他人の欲望をトレースしているだけのことが多いのが現実だ。
その結果、商品を売るための欲望の操作と演出が幅を効かせることとなり、今の商品開発とマーケティングと広告のほとんどはこうした欲望の操作技術に堕しているようにみえる。
欲望を刺激するための差異化のための差異化を求める無限の運動で成りたっている商品市場。それをどこかで断ち切るには、困難と孤独と孤立を恐れずに自らが自らの欲望を取り戻すしかないのである。
そして、自らの消費する商品の中身を知ろうとすることが大切だ。
例えば、至近の例では、電気料金設定に際しての総括原価方式という根拠について我々ははたしてどれだけ知っているのだろうか。
電気料金は、電力会社の支出したコストに一定の利益率を掛けて算出される、というのが総括原価方式である。これは、設備投資や人件費や広告費などコストをかければかけるほど電気料金=売上は増加し、利潤も自動的に増加するという仕組みだ。我々は電気料金が高いからといって、残念ながら他のお店で電気を買うようなわけにいかないのである。
消費者に選択の余地がない無競争の組織の売上がこうした仕組みで保証されており、なおかつ一般の民間会社と同様に株式会社として経営されているというのが今の我々の購入している電力という商品の中身というわけだ。ひょっとしたらやらせメールは彼らにとっては通常のマーケティングや営業行為の一環にすぎないのかもしれない。
さらにはこの総括原価方式で計上されているコストの内訳は現状では開示されていない。それでは、例えば、原発による発電コストは一体どうやって算出しているのだろうか?コストには再処理施設や高速増殖炉もんじゅの投資や経費をどうやって計上しているのだろうか?地元への財政支出は含まれているのか?モデル試算ではない実績値としての数字はないのか?などなど素朴な疑問は尽きない。これらに関して管見ではオフィシャルな見解を未だ聞いたことはない。
「脱原発」にしても「縮原発」(しかし「縮原発」とはいかにも腰の引けた物言いだネ)にしても、こうした場合、コスト構造の把握は判断の基本ではないのか。
さらに、自らの消費の背景にある世界に思いいたること。
産業資本主義が作り上げた労働者=消費者という構図は、プロレタリア階層の賃金上昇を実現したのは事実だ。
「賃金を上げ福祉を向上させることは。個別資本にとっては損失であるが、総資本にとっては好ましいことである。それは消費を拡大し、資本の蓄積を増加させる。このような変化が資本主義経済を変容させた。その結果、労働者階級の多くがもはや貧困ではなく、中産階級的な消費者としてあらわれた」
しかしながらこの恩恵にあずかっているのは消費者としての労働者、すなわち商品を買える労働者だけだ。商品購入とは無縁の国々や商品購入が困難な所得水準の労働者は、一方的に労働力を売るだけだ。資本が一方的に労働力を買い上げる際は、安ければ安いほうが良い。何も資本だけが非情なわけでない。消費者も商品は安ければ安い方が良いといって値下がりを大いに歓迎するではないか。
この結果、貧困は固定化される。労働者=消費者という仕組みは、こうした背景のなか貧困の固定化を招いている仕組みでもあるのだ。
自らの何気ない毎日が産業資本主義が確立した構図を通じて貧困の固定化に加担していることを忘れてはならない。
我々は、世界資本主義のなか、労働者=消費者という構図を再認識し、自らの消費の主体性を回復するための想像力を求められているのだ。
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