アリストテレスは今から約2,300年前にこう書いている。
「信じられないけども可能であることがらよりも、ありそうでありながらな実際には不可能であることがらのほうを選ぶべきである」(アリストテレス 『詩学』 岩波文庫)
そこで思い出されるのはホルヘ・ルイス・ボルヘスだ。
ボルヘスに『伝奇集』(岩波文庫)に収めれた「南部」と題された短編がある。
アルゼンチンの町中に住むフアン・ダールマンという図書館員が、自宅アパートメントの階段で誰かが閉め忘れた窓枠のふちが原因で額に傷を負う。明け方、眠りから覚めると味覚が失せ、高熱に悩まされるようになる。一週間後、彼は病院に運ばれ、敗血症の手術を受ける。幸い病状は回復し、予後のために彼が所有する南部の農場に行くこととなる。しかし、乗った列車の車掌は何故か途中の見知らぬ駅で彼を降すこととなると告げる。彼は降りた駅で馬車を待つ間、唯一ある居酒屋で食事をする。店の亭主は何故か病院の事務員とそっくりだ。その店で彼は思いもかけない展開で一人のよた者に決闘を挑まれる。
「亭主が震える声で、ダールマンは武器を持っていない、といって反対した。このとき、思いがけないことが起こった。ダールマンが南部 ― 彼の南部 ― の権化だと思った、あの酔いつぶれたガウチョの年寄りが、隅から抜き身のナイフを投げてよこしたのだ。ナイフは足許に落ちた。決闘を承知せよ、と南部がダールマンに迫っているかのようだった」
ラストシーンはこうだ。
「「さあ出ようぜ」と相手がいった。二人は外へ出た。ダールマンは希望もいだかなかったが、恐怖も感じなかった。ナイフの決闘で、野外で、相手を攻めながら死ぬのも、針を指された病院の最初の夜だったら、かれにとっては救い、喜び、祝いごとになっただろうな、と敷居をまたぎながら思った。あのとき自分の死を選ぶか夢みることが可能だったら、これこそ自分がえらぶか夢みた死だったにちがいない、と思った。ダールマンは扱い方もろくに知らないナイフをしっかりにぎって、平原へ出ていった」
はたしてこの思いがけない展開で決闘に赴く瞬間は、南部に向かう途中の病み上がりのダールマンに起こった現実の出来事なのか?
ダールマンは、駅で列車を待つ間に入ったカフェで大きな猫を撫でながらこう考える。
「猫の黒い毛並みを撫でながら、この接触も幻想であり、人間は時間のなかに、連続のなかに生きているが、魔性の動物は現在に、瞬間の永遠性のなかに生きているのだから、彼らはいわばガラスでへだてられているのだ、と考えた」
また、列車のなかでまどろみながらダールマンはこうも思う。
「窓の外では、動く客車の影が地平線ぬ向かって伸びていた。集落その他の人間のしるしに大地はわずらわされていなかった。すべてが大きく、しかし同時に親密で、なんとなく秘密めいていた。広びろとした野原に、時には牛一頭しか目につかなかった。孤独は完全で、何やら敵意にみちており、ダールマンは南部ではなく過去へ向けた旅をしているような気がした」
決闘に赴くダールマンは現実のダールマンなのか、それとも南部へ向かう途中の列車のなかで見た夢のなかのダールマンなのか、それとも手術台の上で死を迎えつつあるダールマンがみた夢のなかの姿なのか?決闘による死だけではない。カフェで猫を撫でている瞬間、南部へ向かう列車のなかのまどろみの瞬間、そもそもこの事件の発端のいささか不自然な原因で額に傷を負ったことや病院に運ばれて手術を受けることとなったこと自体がはたして現実のことなのだろうか、それともそれらも夢なのだろうか?
こうした現実と夢の境目が曖昧にされた世界からゆっくりと浮かび上がってくるのはまぎれもないアルゼンチン南部の濃密な時間と空間だ。
南部へと向かう列車からみる白熱の太陽と平原の広がり、名残の光に照らされた闇に沈む前の静かな平原、居酒屋の窓から忍び込む平原の闇の匂いとざわめき、イワシとアサド(焼肉)と赤ワインの食事、罵りの言葉と長いナイフを巧みに操るよた者、時間の外で永遠のなかで生きているかのような酔いつぶれた老ガウチョ、老ガウチョが身につけたフランネルのポンチョや子馬の皮の長靴、そして老ガウチョが突然投げてよこす抜き身のナイフ。
フアン・ダールマンが向かおうとした南部の農場とは、彼が信奉する、インディオの槍に貫かれて死んだ軍人だった母方の祖父の家を買い戻したものだ、という設定がなされている。
ホルヘ・ルイス・ボルヘスの母方の家系も南アメリカの独立運動で勇名をはせた軍人を輩出した家系であり、図書館の事務員で『千夜一夜物語』を手放さないナイーブで繊細なダールマンの南部への憧憬は、<文の人>ボルヘスその人のあこがれでもあったのだ。
ダールマン、そしてボルヘスの「南部」とは詩的存在の別名であり、言い換えれば不可能性のことだ。案の定、ダールマンの所有する南部の農場は、買い取ったきりで使われておらず、そしてダールマンは最後までそこへは辿り着けない。
ボルヘスは別のところでこう書いている。
「音楽、幸福の諸状態、神話、時間の刻まれた顔、ある黄昏とある土地 ― これら全てはわれわれに何かを語ろうとし、われわれが見落としてはならなかった何かをすでに語り、あるいは何かをまさに語ろうとしている。いまだ生みだされないこの啓示の緊迫性こそ、美的事実というものであろう」(「城壁と書物」 『続審判』 岩波文庫)
「ある黄昏とある土地」による啓示!
まったくそうなのだ!それは21世紀の今でも、極東の島国でも、2011年の東京でも、8月2日の今日の黄昏のなかでも、ポエジーは啓示されているのだ。
老ガウチョの投げてよこした抜き身ナイフは、「南部」という「美的事実」の緊迫した啓示の象徴にほかならない。
なれないナイフを手に取って決闘に向かう瞬間、ダールマンは不可能性を超越し、永遠の詩的世界へと踏み込んでゆく幸福に満ち足りていたに違いない。
「不合理なこともときには不合理でないことがある、と答えることもできる。なぜなら、起こりそうもないのに起こるということも、起こりそうなことであるから」(アリストテレス 『詩学』 岩波文庫)
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