失われつつある東京の坂と路地を訪ね歩く「東京坂路地散人」シリーズ。
今回は永井荷風『断腸亭日乗』に頻繁に登場する中洲病院跡を訪れてみる。
中洲病院があったのは現在の中央区日本橋中洲6-4、今は日本橋グリーンハイツというマンションが建っている。この辺は文字通り江戸時代には墨田川河口の中洲だった土地だ。
中洲から対岸の清澄へと渡る清洲橋が架かっている。清洲橋は昭和3(1928)年3月開橋の「震災復興の華」と呼ばれた橋。その優美なフォルムが有名だ。
中洲病院はまさに清洲橋の袂、目の前が隅田川という場所に建っていた。
<写真左の白っぽい建物が中洲病院跡地に建つ日本橋グリーンハイツ>
中洲病院の院長の大石貞夫は俳号不鳴庵をもつ文人肌の医師で荷風お気に入りの主治医のような存在だった。大久保余丁町の自らの書院を断腸亭と命名したごとく、腹痛が持病だった荷風は、中洲病院に頻繁に通っており、一時は診察の便のためにと木挽町(現在の銀座8丁目)に部屋まで借りていた。
荷風は中洲病院に通うついでに、診察の後は新大橋から汽船に乗って隅田川を上り浅草や吾妻橋を渡って向島あたりに出たり、隅田川沿いを下って河岸を歩いてみたり、清洲橋を渡って深川方面へ足を伸ばしてみたりなど、中洲病院は荷風の下町散歩の拠点にもなっていた。
そしてここは、お歌こと関根歌が入院していたところでもあった。関根歌とはvol.10でも触れたが、荷風が足掛け5年間に渡り最も長く付き合った愛人で、荷風はお歌のことを、最近では「かくの如き妾気質(めかけかたぎ)も珍らしき(中略)かくの如き可憐なる女に行会いしは誠に老後の幸福といふべし」と、荷風らしい言い方で最上級の賛辞を与えている。(『断腸亭日乗』 昭和3(1928)年2月5日)
お歌は昭和6(1931)年6月24日、タクシーの中で突然、具合が悪くなる。
「車上遽(にわか)に発病、苦悶のあまり昏眩絶倒す」(同 同日)
その後も一向に回復しないお歌を荷風は6月26日に中洲病院に入院させる。院長の大石は「一時はやや快方に赴く事もあるべけれど(中略)行々は遂に発狂するに至るべし」と診断する。
お歌が中洲病院に入院している間、荷風は毎日お歌を見舞っている。
荷風はお歌が退院して三番町の幾代(荷風がお歌にやらせていた待合)で臥している時も頻繁に見舞っている。
「夜番街の病婦を訪ふ。言語挙止全く狂人に類す。憫(あわれ)むべきなり。(同 7月29日)
「過日大石国手(註 国主とは医者のこと)の忠告によれば病婦は遠からず発狂すべき虞(おそれ)あれば今より心して見舞ひにもなるたけ行かぬやうにせよとの事なり。されどこの年月の事を思返せば思慕哀憐の情禁ずべくもあらず。病婦やがて発狂するに至らばその愛狗ポチが行末もいかに成行くにやと哀れいや増すばかりなり。去年今夜の如く暑かりし夜にはしばしばポチを伴い招魂社の樹陰を歩みたりしに、その人は生きながらにして既に他界のものに異ならず、言葉を交ゆるもいしを疎通する事さへかなはぬ病者となり果てたり。悲痛の情むしろ悼亡の思よりも深しというべし。終夜眠ること能はず。忽(たちまち)暁に至る」(同 8月26日)
「悼亡」(「とうぼう」とは妻の死を悲しむこと)という言葉が荷風のお歌への思いを表している。
ところがこのお歌の病気はなんと仮病だったのだ。
そもそも、大石貞夫は産婦人科の医師であり、そこにお歌を入院させた荷風も荷風だが、「行々は遂に発狂するに至るべし」という診断をしている大石も大石だ。
しかしながら2人のいい加減さを凌駕してすごいと思われるのが2ヶ月近くも病を装って、医師や50男をすっかり騙し切ったお歌の異常なる意志の方だ。
「そんなことがあってから、私は仮病を使って日本橋中洲の病院に二ヶ月ほど入院しました。(中略)私が気ちがいになってしまったと先生(註 荷風のこと)はほんとうに信じこんでいたようです。私自身としては、そうでもしなければどうしようもなかったのです」(関根歌が『婦人公論』昭和34年7月号に寄稿した「日陰の女の五年間」という記事より)
「そんなことがあって」とは、荷風が同じ時期に別の女性を身請けして囲っていたことが発覚したことやある待合でのその女性を含めた荷風の「変態的しぐさ」(どんな?)に腹を据えかねて、ということらしいが、お歌の手記と荷風の日記の前後の内容から読み取ると、お歌のこの異常に強固な意思の背景には、若いお歌に他に好きな人ができて、幾代をたたんでその人といっしょになりたいという明快な目的があったようだ。
浮気心は出すものの相変わらず深い情をかけてくれる荷風という存在の影響下から、円満にかつ荷風を傷つけずに脱するには、事実上の囲われ者のお歌としては、こうした方法を取るしかなかったことは肯けなくもない。
発狂に至る病を完全に信じ込んでいた荷風はお歌が倒れてから2ヶ月後にお歌と手切ることにする。
「細雨烟(けむり)の如し。終日困臥す。夕餉の後番街へ往く。図らずお歌の両親に逢ふ。お歌との関係今夕にて一まず一段落を告ぐ。悲しいかな」(同 8月31日)
看病の際の献身的な態度に比べると急に冷酷になったような感じもするし、お歌とは妾が前提の関係、という荷風の認識からすると、やむを得ないと感じもする。さらに前述したように仮病を使ってでも荷風の方から手切れを言い出させたいというお歌の思惑もあったとすると、この辺はなんとも言えず複雑なところだ。
さらにこの2人の関係が興味深いのは、別れた後もお歌が荷風をしばしば訪ね、旧交を温めていることだ。
ある時は幾代の悪徳家主から二重払いの家賃分を取り返してきたと現金を持参し荷風を訪ねている。これに対して「この金は病気見舞としてそのままお歌に贈りぬ」(同 昭和7(1932)年3月5日)と情のこもった態度で応じている。
また、ある時は「午後お歌夜具蒲団を仕立て自動車に載せて来る。真情感謝すべし。(中略)お歌が縫ひたる新しき夜具の上に横たはりしが、さまざまの事心に浮び着たりて眠ること能はず。いつか鶏の声をききぬ」(同 昭和7(1932)年11月30日)と心底感激している様子だ。
戦中に一人不安に暮らしている時も、あるいは空襲で偏奇館が焼失して市川に移り住んで孤独の影が益々濃くなっている戦後にも、お歌は何回か荷風を訪ねている。
荷風の数多い愛人のなかでこうした交情が続いたのは関根歌ただ一人だ。
「昭和の年の初めの頃数年間三番町に待合を開かせて置きたるお歌といふもの今は石川県七尾市の旅館にて女中になりをれりとて突然新年の賀状を寄せ来れリ。往時を思いて悵然たり」(同昭和30(1955)年1月4日)
お歌からの賀状への感慨を記す荷風。死の4年前のことだ。
「今日も雨なり。暮方銀座にて夕餉をなし中洲病院にお歌の病を問ふ。暗夜中州より永代橋にいたる川筋のものさびしく一種の情趣あり。深川の低き家並みやさつき空」(同 昭和6(1931)年7月14日)
昭和6(1931)年、52歳の荷風と23歳のお歌が中洲病院の窓から眺めたであろうのもこの同じ橋だ。しかしながら、今、対岸に見えるのは表情のない倉庫群であり、永大橋方面にはタワーマンションが何本もそびえ建っている。「深川の低き家並み」や「ものさびし」い川筋はもうとっくに昔に失われてしまっている。
それでもこの眺めに「一種の情趣」を感得して止まないのは、変わることのない隅田川の水の流れのせいなのか、それとも、かつてはこの同じ川と橋の風景を眺めていた男と女の、はなはだしく自分勝手な、ある意味で理解を超えた、それでいてどこか羨ましいような不思議な愛憎への想いを禁じえないからなのだろうか。
copyrights (c) 2011 tokyo culture addiction all rights reserved. 無断転載禁止。