あなたは今、退屈しているだろうか、あるいは暇をもてあましているだろうか?
忙しくて暇どころじゃあないよ、退屈する暇が欲しいくらいだ、という声が聞こえてきそうだ。
あなたが忙しいのは、きっと今、佳境にある仕事だろうし、ここ最近熱心に打ち込んでいる趣味だろうし、あるいは単に日々の雑事に追いまくられているということかもしれない。
本書は、それらすべての忙しさは、実は退屈から逃れるための気晴らしであり、それは取りも直さずあなたが退屈している証拠だという。
それは一体どういうことなのだろうか?
國分功一郎 『暇と退屈の倫理学』 (朝日出版社)は、「社会総体の変革」を目指して消費の先を見据えた論考の書である。
ブレーズ・パスカルは、人間の不幸は部屋にじっとしていられないことにある、といった。つまり人間は退屈に耐えられないのだ。
著者によれば人間の退屈の起源は定住革命にあり、人間は定住以降、それ以前の遊動生活のなかで身につけた高い能力を持て余すようになり、その結果、退屈を覚えるようになった。定住以降に発達した文化や芸術はその持て余した人間の能力の所産なのだという。
マルティン・ハイデッガーによる3つの形式の退屈が取り上げられる。
退屈の第一形式とは、「何かによって退屈させられること」。例えば、駅で列車を待つ間にすることがなくて退屈してしまうことなどを指している。
退屈の第二形形式とは、「何かに際して退屈すること」。例えば、パーティーに行って知らず知らずのうちに退屈を覚えてしまうことなど。
退屈の第三形式とは、「なんとなく退屈だ」と感じること。そしてそれは最高度に「深い」退屈だという。
実は第一形式と第三形式は通底しているのだと、著者はいう。
何故、駅で待つ時間に退屈するのか。それは時間を無駄にしたくないから。何故、無駄にしたくないのか?時間を有効に仕事に使いたいから。つまり、第一形式の退屈とは、日々の仕事に縛られているから感じる退屈なのだ。では、何故仕事に縛れているのか?
「ハイデッガーが言っていた通り、日々の仕事の奴隷になっているからこそ、私たちは第一形式の退屈を感じるのである。もしそこから自由であったなら、列車の到着まで待たなければならないぐらいでそんなに焦ったり、退屈を感じたりしないはずだ。しかし更に問うてみよう。なぜ私たちはわざわざ仕事の奴隷になるのだろうか?なぜ忙しいくしようとするのか?奴隷になるとは恐ろしいことだはないだろうか?いや、そうではないのだ。本当に恐ろしいのは、「なんとなく退屈だ」という声を聞き続けることなのである。私たちが日常の仕事の奴隷になるのは、「なんとなく退屈だ」という深い退屈から逃れるためだ。私たちの最も深いところから立ち昇ってくる「なんとなく退屈だ」という声に耳を傾けたくない、そこから目を背けたい・・・・・。故に人は仕事の奴隷になり、忙しくすることで、「なんとなく退屈だ」から逃れようとするのである。第一形式の退屈をもたらすのは、第三形式の退屈なのである。「なんとなく退屈だ」という声から何とか逃れようとして、私たちは仕事の奴隷となり、その結果、第一形式の退屈を感じるのに至るのだ」
我々は何故「なんとなく退屈だ」と感じてしまうのだろうか?ハイデッガーによれば、それは私たちが自由であるから。退屈するということは、自由であるということなのだ。
そして、ハイデッガーは、その自由を発揮して決断することが退屈から逃れる道だと結論する。
著者は、このハイデッガーの結論に異を唱える。ハイデッガーの結論には決断したあとの人間の姿が一向に見えない。あることを決断するとは決断したことにとらわれること、つまりあることの奴隷になることではないのか。第三形式から逃れるための決断は、結局は第一形式に至ってしまうのだと主張する。
その上でむしろハイデッガーのいう退屈の第二形式こそが人間の生そのものであり、「人間であるということは、概ね退屈の第二形式を生きること、つまり、退屈と気晴らしとが独特の仕方で絡み合ったものを生きること」であり、「退屈の第二形式のなかの気晴らしを存分に享受すること」は「人間であることを楽しむことである」という。
ジャン・ボードリヤールによると消費とは物ではなくて、物に付与された観念や意味を消費することである。
グルメブームとは、食そのものを享受しているのではなく、雑誌やテレビや有名人やタレントが「この店がおいしい」といっている店に付与された情報を消費しているのだ。車やパソコンや携帯電話のモデルチェンジとは実際にチェンジした物ではなく「チェンジした」という情報を消費しているのだ。
情報の消費には限界はなく、いくら消費を続けても満足は得られない。「消費者は自分で自分たちを追い詰めるサイクルを必死で回し続けている」
企業によって差異のための差異が作られ、消費者はその差異を消費し続ける。資本の「利潤とは創造された差異に対する報酬」(岩井克人 『資本主義を語る』 講談社)なのだ。
著者はいう、「消費社会とは、退屈の第二形式の構造を悪用し、気晴らしと退屈の悪循環を激化させる社会だということができる。(中略)人類は気晴らしという楽しみを創造する知恵をもっている。そこから文化や文明と呼ばれる営みも現れた。だからその営みは退屈の第二形式と切り離せない。ところが消費社会はこれを悪用して、気晴らしをすればするほど退屈が増すという構造を作り出した。消費社会のために人類の知恵は危機に瀕している」
この危機から抜け出す方法として、著者は、消費ではなくて浪費(!)すること、贅沢(!)を取り戻すことだという、刺激的な結論を提示する。
消費の否定=節約・倹約・清貧というクリシェに陥っていないコペルニクス的転回がなんとも画期的で小気味良い。
浪費・贅沢とは「物を受け取ること」、つまり物を楽しむことである。衣食住を楽しむ。芸術、芸能、娯楽を楽しむ。そして物を楽しむには訓練が必要だ。
「食を例にとろう。食を楽しむためには明らかに訓練が必要である。複雑な味わいを口のなかで選り分け、それをさまざまな感覚と部位で受け取ることは、訓練を経てはじめてできるようになることだ。こうした訓練を経ていなければ、人は特定の成分にしかうまみを感じなくなる。たしかに私たちは毎日食べている。しかし、実は食べてはいないかもしれない」
ファスト・フードがすばやく食べられるのはそこに含まれる情報量が少ないからであり、逆に、味わうに値する食事は大量の情報量を含んでおり、それを身体で処理するのに時間を要するが故にゆっくり食べられることになるのだ。スロー・フードは正確にはインフォ・プア・フードであり、スロー・フードはインフォ・リッチ・フードと定義されるべきだ、と著者においては脱線話も目の覚めるような鮮やかさだ。
著者の<物を受け取る>ということは、例えばこういうことではないかと考えた。
それは、物を素材や構築のプロセスや出来上がりのレベルにおいて考え、想像し、味わうことではないか。
例えば、衣でいえばビスポーク、食でいえば料理、住でいえば普請。
物を楽しむには訓練が必要とされる。その訓練に最適なのが、自らの衣服を誂え、料理を作り、空間を作ってみることだ。なにもすべてを実践する必要はない。そうした立場を想像しながら目の前の物と真剣に向き合ってみるということが重要なのだ。
いずれにおいても単なる商品の入手に終わらない、マテリアルの評価と吟味、ある意味性を有した物へと組み立ててゆく格闘、出来映え(エクスキューションexecution)という厳しい現実などを通じた物との対峙が実践される。
こうした態度が、単なる商品の消費(それは著者がいうように往々にして商品にまつわる情報の消費だ)に終わらない、消費の主体性の奪還という消費社会における唯一の倫理的態度につながるのではないのだろうか。さらにそうした態度こそが、永遠の差異の消費を強いるかたちで利潤を創造する資本の運動自体を変革する可能性を有した唯一の行為であるように思える。
また、著者の主張に深き肯きながら次のようなことも思った。
著者がハイデッガーの退屈の第二形式こそ人間の生そのものであり、「人間であるということは、概ね退屈の第二形式を生きること、つまり、退屈と気晴らしとが独特の仕方で絡み合った」生を生きることであるということは、意外にも著者が批判しているアクレサンドル・コジェーブのいう「日本的スノビズム」に相通ずる生の在りようではないのか。
コジェーブはヘーゲルのいう「歴史が終わった」世界で人間に残された生の在りようは、与えられた環境(現実)を受け入れて生きる「動物」(動物は環境に疑問を抱いたり否定したりしない存在)としての生と形式的な価値を信じることにより与えられた環境(現実)に満足せずに(動物化せずに)生きる「スノビズム」の2つであり、前者の代表としてアメリカ的生活様式を挙げた。
そして、後者を実現した社会として日本を挙げ、日本は、政治・革命・戦争・宗教などの歴史的な価値とは無縁の形式的な価値(例えば、能楽、茶道、華道などや切腹などの規範)に基づき動物化ぜずに人間的な生が営まれている唯一の社会であると主張した。さらに、世界は今後、「スノビズム」が席巻するかたちで日本化するとまで断言した。
著者のいうように「バケツのような容器に入ったポップコーンやコーラを飲み食いしながらドライブインシアターで映画を観ることも、まったく形式化された作法でお茶をたてることも、第二形式の退屈において描かれた生」であるとは確かである。
しかしながら、<物を受け取る>とはファスト・フード(インフォ・プア・フード)で満足するのではなくスロー・フード(インフォ・リッチ・フード)を味わうことであり、著者のいう浪費や費沢とは、ポップコーンやコーラによる幸せではなく、茶室空間に身を置くことではないのか。
同じ物や気晴らしという行為に相対しながら、楽しむ、楽しめる態度とは、みずぼらしい狭小空間に「わび」という独自の価値感を見出し、一輪の花に自然を見立て、単なる喫茶という行為を芸術にまで高めた態度に相通ずるのではないのか。
コジェーブの主張には、「究極的にはどの日本人も原理的には、純粋なスノビズムにより、まったく「無償」の自殺を行うことができる(古典的な武士の刀は飛行機や魚雷に取り替えることができる)」(アレクサンドル・コジェーブ 『ヘーゲル読解入門』 国文社)など、切腹と特攻を一緒くたにしているなど笑止を通り越して著者がいうように「些か滑稽」な感も否めないのだが、いいたいのは、決断に走らずに物を楽しむとは、コジェーブが「日本的スノビズム」と呼んだ態度が体現していた価値観に通じるものがあるのではないか、そして「日本的スノビズム」といわれるものに「物を楽しむ」ための可能性を見出せないのか、ということである。
退屈の第二形式が生そのものである地平からみるとき、歴史的生=決断的生という観点からはスノビズムにみえた態度も、もはやスノビズムではなくなるということになるわけであるが。
閑話休題。
奇しくも Tokyo Culture addiction は、「物と言葉をめぐって」なるテーマを標榜し、日頃から物との対峙を言葉にしているブログ。
本ブログにとって、本書を読むことは、深く肯く、思わず膝を打つ、目から鱗、腕組みして考えるが連続する実に楽しくかつ刺激的な体験でありました。
本書は、好むと好まざるとに関わらず、労働者=消費者という奇妙な立場で今の消費社会を生きている私たちにとって、深い知見とさまざまな示唆を与えてくれる必読の書である。
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