杉山登志は70年代に活躍した伝説のCMディレクターである。作曲家のいずみたくは杉山登志のことを「CF界の黒澤明」と称賛した。
オーバーオール姿の鈴木ヒロミツがガス欠の車を押している映像に「のんびりゆこうよ、俺達は」で始まるマイク真木が歌うテーマソングがかぶさるモービル石油のCM(1971年)は代表作の1つだ。
図書館という空間を象徴的に使って、少年と年上の美女との視線をめぐっての一瞬をドラマに仕立にした資生堂シフォネットのCM(1973年)も忘れがたい作品だ。
杉山登志は1973年12月12日、赤坂7丁目のライオンズマンション赤坂の自室で自殺する。享年37歳。世間の目には数々の受賞を重ねている花形CM作家の絶頂期での突然の死と映った。
自室には短い詩句が遺されていた。
リッチでないのに
リッチな世界などわかりません
ハッピーでないのに
ハッピーな世界などわかりません
「夢」がないのに
「夢」をうることなど・・・・・とても
嘘をついてもばれるものです
このずしりとした感触の最後の言葉は、業界はもちろん、消費の拡大にひた走る当時の社会に波紋を投げかけた。
『伝説のCM作家 杉山登志』川村蘭太(河出書房新社)は、花形CM作家によるCM否定、自己否定ともいえる最後の言葉を手がかりに、杉山登志の生涯とその死に迫った書である。
驚異の集中力と緻密さと仕事量を誇る仕事の鬼、完全主義者でかつ完璧主義者のアルティザン、部下の信頼・尊敬をかちえるカリスマ性、クライアントと対立も持さない批評精神、シャイで無口でメランコリー気質、ぶっきらぼうな態度とサービス精神の奇妙な並存、CM至上主義とも取れる発言の一方で企業の走狗と自嘲しうなだれる姿、ろくに食事もせずにアルコールに頼る日々、CMの中とは正反対に、女性とは自虐的で攻撃的な関係しか結べなかったプライベート、何度も書かれた退職願い、失われることがなかった絵画への願望。
並みはずれた才能と強さ、そしてそれらと共存する底なしの弱さと孤独。当時の関係者の証言から浮かび上がってくる杉山登志という人間の姿に思わず魅せられずにはいられない。
冒頭のモービル石油のCMに関して、ユックリズムを描きガソリン節約をうたうぐらいなら思い切って車放棄まで持っていってほしかった、との質問に杉山登志はこう答えている。「いまの時点でCMを作るという職業を続けている限り、高度経済成長の否定は許されない。否定したいが一歩手前で押さえた作品 ―― これが限界なんですよ(中略)しかし、器用じゃないし、悩みを乗り越えて制作を続けていかなければならないんですね」
酷で無理難題とも思える質問に、真正直に答える杉山登志。その場において徹底的に批評的でありながら、あくまでその場に存在しつづけるという持続力、これは相当にきついことだったはずだ。
突然の自殺と遺されたCM否定ともとれる詩句のせいもあり、杉山登志の死の原因は、当時から様々に取りざたされていた。曰く、CMという商業主義の世界に疲弊しその犠牲になった、望まない管理職として会社と板ばさみになり苦しんでいた、クリエイティビティの枯渇と将来への不安などなど。
著者の見方は、杉山登志の自殺の背景にあったのは、仕事における達成感とは正反対に一人の人間として幸せを感じられない私生活であり、その直接の原因は、もともとの自閉的性格に鬱病を併発していたことにある、とするものである。
そして、精神科医木村敏の言葉を借りて、自身の仕事と存在を全否定的しているかのような詩句の謎を読み解く。
「鬱病者は、自らの過去のすべてをポスト・フェストゥム的な失敗であったと体験するのみならず、本来可能性として開かれているはずの将来さえもポスト・フェストゥム的な確定性においてしか見ようとしない」(『躁鬱病と文化/ポスト・フェストゥム論 木村敏著作集第三巻』 弘文堂)
ポスト・フェストゥムとは、文字通り「あとの祭り」、「祭りのあと」を指す言葉だ。
リッチでないのは、ハッピーでないのは、「夢」がないのは、一体誰のことを指していたのだろうか?
当然、それは、一人の人間として幸せを実感できなかったCMの帝王 杉山登志を指している。
また、それは個人を越えて杉山登志を含むその当時のCM制作に携わる人々を暗示しているのだろう。消費を信じ、消費を牽引しながら、いつの間にか行くつくところのない観念のゲームに自身を失いかけている人々。
さらには、こういう見方もできるのではないか。リッチでないのは、ハッピーでないのは、「夢」がないのは、その当時の日本人、ひいては消費社会に生きる今の我々全員を指しているのだ、と。
幸福のための消費が、消費による幸福となり、いつの間にか、消費のための幸福のイメージが創り上げられ、ついには、幸福が消費されるようになる。
ジャン・ボードリヤールは、1970年、世界的に勃興しつつある消費という現象を前に、消費社会において消費されるのは物自体ではなく物に関する観念や意味だ、と喝破した。(『消費社会の神話と構造』 紀ノ国屋書店)
観念や意味の消費には際限がなく、幸せのイメージをいくら消費しても幸せの実感は得られない。
3.11をきっかけにすべてのCMが姿を消した世界を垣間見た日本。CMの先にはハッピーはあるのか?消費の先には「夢」はあるのか?
杉山登志の遺した言葉が問いかけるものに、今もまだ答えは出ていない。
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