失われつつある東京の坂と路地を訪ね歩く「東京坂路地散人」シリーズ。
都電荒川線に乗る機会があり、ふと思い立って終点の三ノ輪まで乗り、浄閑寺を訪れてみた。
塀や本堂は改築されているようで、以前訪ねた時の薄暗い面影は薄れているように感じられる。もしかしたら周りの道路や区画なども変わっているのかもしれない。しかしながら山門は昔のままだ。江戸時代に建立されたもので、当初は赤く塗られていたそうだ。
塀や本堂が改築されて新しくなったとはいえ、裏手の新吉原総霊塔があるあたりは以前と変わらず、手向けられた香華のそこはかとない香りとともに独特の重い空気が流れている。
吉原遊郭(1657年の明暦の大火を機に日本橋葭町から移ってきたことから新吉原と呼ばれていた)へと続く日本堤のはじまりにある浄閑寺は、引き取り手のない吉原遊郭の遊女が葬られてきた浄土宗のお寺だ。別名投げ込み寺ともいわれている。安政の大地震(1855年10月2日)の際に死亡した遊女の遺体をまとめて大穴に埋葬したこと、あるいは身寄りのな遊女の遺体が菰に包まれて投げ込まれるようにして担ぎ込まれたことに由来しているといわれる。
身売りされ戸籍が剥奪された遊女は、引き取り手がなければ無縁仏とならざるを得なかった。吉原遊郭の歴史は300年以上続き、新吉原総霊塔に供養されている遊女は二万五千ともいわれている。
新吉原総霊塔に対座する本堂側の場所に永井荷風の詩文を彫った碑と筆塚がある。昭和38年(1963)谷崎潤一郎や鴎外の長男於菟らによって建てられたもので、筆塚の背後を見ると設計は谷口吉郎と刻んである。
碑文には荷風の戦後の詩集『偏奇館吟草』の中の「震災」という詩が彫られている。関東大震災で灰燼に帰した明治という時代への哀惜を詠った詩文だ。
荷風は、昭和12年(1937)6月、小説の取材と称してたびたび吉原に登楼している。朝6時7時には楼を出て、浅草や日本堤や竜泉や今戸あたりを歩いて、写真を撮ったり、主人公の住宅を想定するために路地をあちこちと探索するなど、熱心に取材している。荷風59歳の年だ。
そして6月22日、荷風は30年ぶりに浄閑寺を訪れる。
「六月以来、毎夜吉原にとまり、後朝(きぬぎぬ)のわかれも惜しまず、帰り道にこのあたりの町のさまを見歩くことを怠りざりしが、今日の朝三十年ぶりにて浄閑寺を訪ひし時ほど心嬉しき事はなかりし。近隣のさまは変わりたれど寺の門と堂宇との震災に焼けざりしはかさねがさね嬉しきかぎりなり」(『断腸亭日乗』同日)
『たけくらべ』や『今戸心中』に触れながら吉原のことを綴った荷風の随筆「里の今昔」に、明治三十年、三十一年ごろ初めて浄閑寺を訪れた際のことが記されている。「三十年ぶり」とはそれ以来という意味なのだろう。
荷風は思いのほか感銘を受けているようにみえる。
詩碑にあるように荷風にとって明治とは、文明開化の時代ではなく、かろうじてまだ江戸の文化と風物が残っていた時代を意味していた。それが関東大震災をきっかけに瓦解した。荷風は震災にあわずに残った浄閑寺の門と堂宇に失われたはずのものを思いがけず発見したように思い感激しているのだ。
失われたはずのものとは何か。それは明治によって虐げられた江戸であり、近代化の中で時代に翻弄され運命のまま消え去ってゆく者と物のことだ。
理知に長ける荷風は、近代化は不可避のことだと思っていたはずだ。問題なのはその近代化によってもたらされる日本がおよそ荷風の価値観とは合致しないことだった。
取りうる態度は近代化に抗うのではなく、近代化から「降りる」ことだった。それは、近代化によって消え去ってゆく江戸文化の残り香に沈潜すること、そして近代化によって敗れ去ってゆく運命にあるものと寄り添って生きることを意味していた。
荷風が浄閑寺を再訪した昭和12年は、陸軍の反発により陸軍大臣が任命できずに組閣が流産する事態が生ずるなど軍部の政治的影響力がいよいよ高まり、7月にはその後の日中戦争の発端となった盧溝橋事件が起きている。
そんな情勢の中、吉原を舞台にした小説を構想し、取材に赴くのも、荷風なりの近代化から「降りる」実践だったのだろう。
しかしながら、と思う。取材と称して吉原の廓に一夜を過ごし、その朝には投げ込み寺で遊女の霊に手を合わせる。一貫した倫理というものに欠けたすこぶる身勝手な態度ではないか。遊女も投げ込み寺も、高みからのいい気な敗残趣味に過ぎないのではないか。
世間的な倫理感からすれば絶対にそうだ。
ところがこうした世間の倫理とはまったく無縁のところに荷風の倫理は存在した。世間的な善悪とは無縁に、あくまで滅びゆくものと最後まで寄り添うというのが荷風の倫理だった。
震災にあわずに残った浄閑寺の門と堂宇への感銘を綴った文に続いて荷風は、以下の一節を書く。
「余死する時、後人もし余が墓など建てむと思わば、この浄閑寺の塋域(えいいき。墓所の意)娼妓の墓乱れたる間を選びて一片の石を建てよ。石の高さ五尺を超ゆるべからず、名は荷風散人墓の五字を以って足れりとすべし」(『断腸亭日乗』同日)
この有名な一節は、吉原に遊ぶ自分の倫理とは、過酷な運命のままに身寄りもなく、投げ込まれるようにして土に帰っていった孤独な遊女たちと寄り添うことだ、滅びゆくものと最後までつきあうことだ、そして自らも敗残のあげくに一人孤独に死んでゆくのだ、との荷風の倫理宣言だったのだと思う。
荷風が構想していた吉原を舞台にした小説は進まなかった。
「今年梅雨のころ起稿せし小説『冬扇記』は筆すすまず。その後戦争おこりて見ること聞くこと不愉快ならざるはなく感興もいつのまにか消散したり。新たに別種のものを書かむと思へどこれも覚束なし」(『断腸亭日乗』 昭和12年(1937)11月16日)
戦争という現実を前に、荷風は「降りる」という態度そのものに無力感を覚えてしまう。「降りる」ことに意味を見出せたのは、「降りる」ことができる余裕があったからだ。
この言葉が暗示するよう、荷風の文学は、前年の昭和11年(1936)に執筆された『濹東綺譚』をピークに下降線を辿る。
しかしながらこうした文学的な衰退とは無関係に、荷風はこの敗残の倫理とも呼ぶべき、遊女と遊び遊女とともに葬られることを望んだ態度を死ぬまで崩さなかった。
さびれた吉原の廓は、場末の趣が漂い始めた浅草のストリップ小屋に代わり、不幸な遊女は、同じように薄幸な踊り子に代わった。
昭和34年(1959)4月30日午前3時、荷風は戦後移り住んだ市川の自宅で息を引き取る。享年79歳。
投げ込み寺に憧れた荷風らしく、荒れ放題の家で誰にも見取られない孤独死だった。けだし幸福だったというべきだろう。
荷風の墓は、浄閑寺でもなく荷風散人の銘でもなく、雑司が谷の永井家の墓所に建てられている。
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