大友克洋GENGA展を観てきました。
『AKIRA』の全原画2,300点を含む大友克洋の原画約3,000点を展示するというかつて類を見ない展覧会です。
1980年に漫画アクションで連載が始まった『気分はもう戦争』(原作 矢作俊彦)に魅せられて以来、それ以降の『童夢』、『AKIRA』などの新作を同時代でフォローしながら、それ以前の70年代の作品が載った単行本を買い求め、可能な限り全作品を追いかけてきました。
大友克洋は、広大な市街地、崩壊するビル群、大規模な戦闘シーン、細密なメカなど、その得意とする描写のほとんどをアシスタントを使わないで自ら描いていることで有名です。
大友ファンとしては、その一筆一筆の痕跡やひとつの造形が生み出される瞬間の息遣いやそこにかけられた膨大な時間などをも想像させてくれる肉筆原画、しかも3,000点にものぼる数の原画を目の当たりにできるということは、たたもうそれだけで嬉しくなってしまうわけです。
なかには、『饅頭こわい』(単行本未収録)の鉄腕アトムのお尻のマシンガンの機構や足先のジェット噴射の構造を解説した詳細な断面パース(!)など、初めて見る絵も出展されており、まじまじと見入ってしまいました。
大友克洋の絵は、漫画としては当然のことながら、ざら紙に印刷される連載誌上においても、圧倒的な描写力、自在で大胆なアングル設定と切れの良いコマ割りによる動きやスピード感、さまざまな手法を駆使した印象的な光と影の表現など、その持てる魅力を如何なく発揮しているわけですが、とはいうものの、一コマ一コマ手作業で描き進められ原画のもつ無二の存在感は、それとはまた別の魅力を放っていました。
それは上質紙に印刷された大判の単行本やさらには今回のB4版の展覧会カタログ(デカい!)ですら再現できない、肉筆の持つアウラとでも呼ぶべきものでした。
印刷というプロセスを経た作品を通じるなかで、ともすると見過ごしてしまいがちな、リアルな線の背景にある正確な観察眼とそこで得られた認識を具体的な線を通じてモノの形として表現していく驚くべき画力に改めて驚かされます。
原画を見るということは、モノの形や立体感を構成する一つ一つの線、一筆一筆のタッチを意識的に見ることであり、さらにはそうした一つ一つの線が集合してあるモノの形となって人間の目に見えてくるプロセスを反芻するという、描き手における線と形の弁証法を追体験する行為といえるかもしれません。
大友克洋は、中条省平によるインタヴューのなかで「大友さんといえば建物崩壊シーンがとにかく印象的ですが」との問いに対して次のように答えています。
「団地やビルを一生懸命描いていくとね、壊れていくのが見えるんです。それで僕は、見えるものは全部描きたいと思ってしまうので。(略)何かを描くときは対象をじっと見るんですけど、たまに頭の中で、そういう映像が見える時があるんです。形のあるものは壊れるので、そこまで見通したいということなのかもしれません。(略)僕はそういう(注:モンス・デジテリオやピラネージが描いたような廃墟のこと)捨てられた風景よりも、今まさに壊れていく風景を描きたい」(『芸術新潮』 2012年4月号)
大友克洋の目は、創造という行為に既に内包されている破壊の胎動を見通しているのだ。
創造とは所与の現実の裂け目を見せてくれるある種の破壊を起源としており、破壊とは現実崩壊の瞬間の創造に他ならない。現実破壊的な創造と現実の創造的破壊。
改めて思うと、大友克洋におけるこの認識は、屹立する団地群がまるで一つの生命体のような印象を与える『童夢』や新型爆弾で破壊された後のネオ東京という都市が主役といっても過言ではない『AKIRA』などの作品に限ったものではなく、リアルな描写と乾いた感じの白い画面でありふれた日常に内包するさまざまな裂け目を垣間見せてくれた70年代前半の作品(川本三郎は「充実した空白」と表現した)においても既に前提となっていたといえる。
大友克洋の絵の持つリアリティの根底にあるものは、創造と破壊は表裏一体のものであるという現実認識だったのだ。
GENGA展のカタログのプロフィールを記載したページに瓦礫と化した街の上にきれいな虹がかかった小さな写真が載っている。南三陸町を訪れた大友克洋が撮った写真である。
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