ボブ・ウェルチ 2012年6月7日 テネシー州ナッシュビルの自宅で銃で自らの胸を撃って自殺。
最近はこんな話ばっかりだ。加藤和彦、ジョー山中、ロックは喪失の時代を迎えつつあるのか。
大学に入った最初の年、今で言うシェア・ハウスのようなところに暮らしていた。学生専用なのだが、学生といっても、大学生もいれば、浪人生、はたまた高校生もいるなど、入居率を上げるためか入居の基準ははなはだいい加減だった。
ハタチ前後のやつらが20人も集まると、当然ながら音楽の趣味を同じくするやつが、一人や二人必ずいるものだ。実際には三人や四人もいたのだったが。
隣の部屋の大阪出身のI君もその一人で、彼は、ブリティッシュ系ロックにめっぽう詳しい人物で、ハードロックやプログレはもちろん、テクニカルで実験色の強いブランドXやはたまたフリートウッド・マックのようなポップロックあたりまで幅広くカヴァーしていた。I君は実家にあるLP盤をカセットテープに録音して、東京の部屋に持ち込んでいた。念のため書いておくと、当時は未だCDが存在せず、ましてやituneなどは影もカタチもない時代だった。そういう時代だったのだ、つい最近までは。
ボブ・ウェルチの『フレンチ・キッス』(1977)を初めて聞いたのはそのI君のカセットでだ。
70年代初頭のダンヒル・サウンドのヒットナンバーに惹かれ、その後はグラム・ロックの怪しい雰囲気にのめり込み、サディスティック・ミカ・バンドのお茶目さを好んだ、音楽少年は一発で魅了された。
思わず口ずさむメロディと秀逸なアレンジの冒頭曲 "Sentimental Lady"。フリートウッド・マック時代には全く注目を集めなかったこの曲が雪辱の大ヒットを記録した。
"Hot Love, Cold World" における自在なギター・サウンドを指して、「ドゥービーのリズムにロリー・ギャラガーのリード」と形容した人がいた。
出だしのギターリフが何度聴いても新鮮な極めつけの名曲 "Ebony Eyes"。CとEとAmとDmの4つのコードだけで書かれているとはとても思えない。
キャッチーでヘヴィーなギターリフ、多彩なギターサウンド、ストレートでポップなメロディ、キッチュなヴィジュアル。一曲一曲の水準の高さに加え、アルバム全体としての隙のない構成も見事だった。
一方、このアルバムには、どこか、完成度の高さゆえの嘘っぽさのようなものを感じさせるところがあった。
それは、白々しい嘘っぽさというよりは、どこか切羽詰まったような虚構性という感じのものだ。多彩なギターサウンドには確信犯的なマニエリスムの匂いがしたし、ポップなノリの良さの背後には醒めた眼差しの存在を感じた。
そして、ある時期からこのアルバムの醸し出すむしろ、こうした危うい雰囲気の方に強く惹かれていった。
当時、渋谷陽一がDJをしていたNHK-FMの番組(「こんばんは、ヤング・ジョッキーの渋谷陽一です」という始まりの台詞、なんとも懐かしい)では、ボブ・ウェルチが率いるパリスの曲が良くオンエアされていた。
もしかしてと思って渋谷陽一のブログを覗くとやはりボブ・ウェルチの自死のことが書かれていた。「今日は一日、どんな追悼文を書いたらいいのか考えていた。自分の誕生日が、そうやって過ぎていくのに不思議な感慨を覚えた。(中略)何故か僕はこうしたアーティストを好きになる。結局、気の効いた追悼文は書けなかった」というくだりが彼の喪失感を感じさせる。
渋谷陽一はボブ・ウェルチを「フリートウッド・マック時代からソロまで、いつも仮住居な感じがついて回った不思議な人だった」と評している。
渋谷陽一のいうボブ・ウェルチについて回った「仮住居」的な感じ、あるいは、『フレンチ・キッス』のどこか虚構じみた印象というのは、一体どこからきているのだろうか。
フランスの精神分析家ジャック・ラカンは、人間の幼児は鏡に映った自らの姿を見て初めて自己を認識するようになるが、その鏡に映った姿とは、決して自己ではなく、自己の像に過ぎず、人間における「私」や主体性の危うさはここに由来している、といっている。鏡像段階理論と呼ばれるものである。
ボブ・ウェルチの「仮住居」的などことない居心地の悪さとは、ボブ・ウェルチが自身の作品とは鏡に映ったボブ・ウェルチによる作品であることに気づいていたことからきているのではないか。
自己の作品は自己の鏡像による作品であると自覚しながら自己を表出するということは、作品はすべからく一種の自己批評となり、また、完璧であればあるほど虚構性が高まってくることになる。
『フレンチ・キッス』はボブ・ウェルチのポップロックのスターとしての自己が創りだした作品であり、そのことに自覚的な彼は、ポップロックのスターとしての自己像を冷静に認識しながら、そのイメージ通りの完璧なポップロックアルバムを創り出したのだ。
今、あらためて見ると、露悪的な演技性を感じるキッチュなアルバムジャケットは、彼のそうした「自己という虚構」を見事に象徴するヴィジュアルだった。
自己の寄る辺なさ、自己の不確かさ、自己の虚構性を自覚した内省的な感性。どこに居ようと常にどこかしら居心地の悪さを感じてしまう厄介な心性。
自殺の原因は健康問題だということだが、多くの人があの『フレンチ・キッス』のボブ・ウェルチが自殺を選んだことへの驚きを隠せないようだ。
彼らしくない。一言でいうとそういうことになるのだが、しかしながら、ポップロックのスターとしての姿の陰に「自己という虚構」を常に自覚していた感性があったとしたらどうだろうか。
考えすぎなのだろうか。そうかもしれない。
ボブ・ウェルチを教えてくれたI君とは、その後30年間以上音信不通の状態が続いていた。ところが、つい最近、本ブログをきっかけに約30年ぶりに連絡がついたのだ。
30年という時間は長い。お互いを取り巻く環境や境遇は、当時漠然と予想していたものとは大きく異なっていた。とはいえ、受話器から伝わってくる声と雰囲気は相変わらず30年前の感じだった。
I君とはお互いの都合が合わず未だ直接には会っていない。再開した折にぜひ聞いてみたい。『フレンチ・キッス』が放っている虚構性とは一体なんだったのかと。30年後のI君は一体どんな答えを出すだろうか。
ボブ・ウェルチ 享年66歳 R.I.P.
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