3年かかってやっと半分とは。いやはや、長すぎて呆れかえる話だ。
レイモンド・チャンドラー Raymond ChandlerのTHE LONG GOOD-BYE を読もうとしたきっかけは2007年に出た村上春樹訳の『ロング・グッドバイ』(早川書房)だった。
それまで親しまれてきたのは、清水俊二訳の『長いお別れ』(ハヤカワ・ミステリ文庫1958年初訳)だ。長年チャンドラーといえば清水俊二の簡潔に刈り込まれたイメージの日本語訳が定番だった。
一方、村上春樹もあとがきで指摘しているように、この清水訳では結構な分量の原文が省略されて訳されていることで有名だった。
それに対して村上春樹訳の方は、「「完訳版」というべきか、いちおう細かいところまでくまなく訳され、現代の感覚(に近いもの)で洗い直された『ロング・グッドバイ』」を目指したというように、原文がほとんど省略されることなく丁寧に訳出されており、表現も現代的だ。
清水訳における原文の省略ということはあるにしても、それぞれはそれぞれに魅力的な日本語のチャンドラーといえる。
村上訳を読んで以来、時折、この翻訳本2冊と原文をパラパラと眺めていたのだが、ある時ふと気がついた。3冊に出てくるフィリップ・マーロウやテリー・レノックは、やっぱり3冊それぞれで微妙に違うのだと。
THE LONG GOOD-BYE は、フィリップ・マーロウとテリー・レノックスという2人の孤独な存在同士の友情とギリギリのプライドとその結末の物語である。この小説の最大の魅力は、チャンドラーの手による2人の人物の精緻な造形とその緊張を孕んだ関係の展開にあると言って良いだろう。
チャンドラーは抑制された1人称の話法を基本に、選び抜かれた単語、周到な会話のやりとり、簡潔な状況の描写、独白における独特の語り口、筋とは無関係な凝ったエピソード、そしてため息が出るような比喩などを駆使して、2人の人生を展開させる。THE LONG GOOD-BYEを読む醍醐味とは、紛れもなくこうしたチャンドラーのひとつひとつの言葉にやどる息遣いのようなものを丁寧に読み込んでいくことにある。
当り前といえば当り前だが、「完訳版」を謳う村上訳も、それはやはり村上春樹が読んだ、そして日本語に訳した『ロング・グッドバイ』なのだ。
他人の言葉を介さずにレイモンド・チャンドラーの言葉が創造したフィリップ・マーロウとテリー・レノックと対峙してみたい、これがTHE LONG GOOD-BYE を読んでみようと思った理由だ。
どうせ読むのならば徹底的にslow & intensiveで行こうと決めて、リーダーズ英和辞典第2版を傍らに、ネット検索を武器に、清水訳と村上訳に助けを求めながら、一字一句納得できるまで読解に努めた。
読み始めてみると、これが想像を遥かに超えた困難な道のりであることが分かった。
初刊が1953年とすでに60年前であることに加えて、口語やスラングのオンパレード、警察用語などの頻出、そしてなによりもチャンドラー特有の持ってまわった言い回しや極限まで省略された構文など、予想はしていたものの、ドメスティックな教育と生活オンリーのおぼつかない英語力の人間にとって、チャンドラーの原文は思った以上に難解でちょっとやそっとでは手に負えない代物なのだ。
雑事と怠慢と気が多く飽きっぽく根気のない性格がそれに輪をかけた。半年間ページを開かずに終わってしまった時期もあり、あるいは2時間かけても1行の内容が理解できずに立ち往生してしまったこともある。その結果が、冒頭の3年間で半分の進捗という訳である。
しかしながら、青息吐息で全53章のうちなんとか26章までたどり着けたのは、その読書がはなはだ困難を極めながらも、一方ですこぶる面白い体験だったからに他ならない。
ゆっくりと徹底的に読み進むうちに、チャンドラーが精緻な言葉で作り込んだフィリップ・マーロウとテリー・レノックが紙面から少しずつ立ち現れてくるような、そんな体験だ。
無謀な企てもハーフ・タイムを過ぎれば、安易な楽観に取って変わる。
残り半分の読了に向けた道をゆっくりと進みながら、次回からTHE LONG GOOD-BYE のスロー・リーディングの記録を綴っていくことにしよう。
チャンドラー渾身の比喩や表現を味わい、聞いたこともない単語や熟語の意味を発見し、闇夜を歩くような構文に四苦八苦し、お手上げの文章には潔く白旗を掲げる、そんな記録だ。
いつ終わることやら分からない最も長い『長いお別れ』、ザ・ロンゲスト・ロング・グッドバイというわけだ。
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