失われつつある東京の坂と路地を訪ね歩く「東京坂路地散人」シリーズ。
江戸には4箇所の処刑場があった。その中でも北の小塚原と南の鈴が森が有名だ。
一方、牢獄はというと、伝馬町牢屋敷(現在の日本橋小伝馬町の十思公園を含む一画に当たるところ)たった1箇所しかなかった。明治初期の東京都心には丸の内と石川島と市ヶ谷に3箇所に監獄があったのとは対照的だ。
その理由は簡単だ。江戸時代には今の懲役に当たるような自由刑がほとんどなく、牢獄は刑罰を受けるまでの一時的に留め置かれる場所でしかなく、さらに刑罰のなかでも死刑の割合が飛躍的に高かったことがその理由だ。
江戸の町および江戸城は、その鬼門に当たる東北の方角を守る位置に神田明神と寛永寺を設け、その反対の裏鬼門にあたる南西の方角に山王社と増上寺を配するという呪術上のセキュリティ構造を基本にしている。
そして、寛永寺と増上寺の外側には、北の吉原遊郭と南の品川遊里が置かれていた。田中優子によると「遊女はこの場合、観音菩薩である」(『江戸を歩く』 集英社新書)という位置づけだという。
さらに、吉原の外側に千住小塚原があるように、品川の遊里の外側には鈴が森の刑場があった。
旧東海道が第一京浜に飲み込まれるように合流する、ちょうどそのあたりに鈴が森刑場跡はあった。
よく育った樹木のせいで敷地に足を踏み入れると第一京浜の車の騒音はフッと消える。
磔台や火焙台や首洗井戸などがそのまま残されている。
風雨に晒され摩滅したなかになんとも言えない表情を湛えて佇む石地蔵たち。死者たちの魂を鎮魂し続けてどのくらいになるのか。その表情が訴えるものは微笑みと呼んでいいのであろうか。優しくもあり同時に恐ろしくもあるような壮絶さ。
こうした都市の要所に、聖(寺社)と併せて俗(性)や賤(浅草や品川には穢多頭や非人頭がいた)や死(刑場)をも配することで計画された江戸の町。
網野善彦は、十四世紀ごろの日本において、社会が「文明化」することによって、人間と自然との関係に大きな変化が生じ、「ケガレ」に対する眼差しがそれまでの「畏怖」から「賤視」へと変化したと言っている。
しかしながらこうした江戸の都市構造を見ると、やはりそこには、性や賤や死や罪などの「ケガレ」を江戸の内部からは排除する一方で、鬼門を守護する際のパワーとして巧みに利用するという、「ケガレ」の持つ大きなエネルギーに対する両義的な認識が通奏していたことが分かる。
当時、ここ鈴が森の目の前には太平洋の海が広がっていたそうだ。今は既に海は遠く、品川区民公園、大井競馬場、京浜運河、大井埠頭、そしてやっとその先が東京湾だ。
「鈴が森で絶たれて命は太平洋に解放されてゆくのであろう」(田中優子 前掲書)
遠くなった海を思いながら、そうであって欲しいと思った。
東京に江戸を見るということは、空間を時間の一種として見ていることに他ならない、そんな思いも去来する。
旧東海道を北上する。
旧東海道と直行して立会川が流れている。立会川に架かる浜川橋は、別名涙橋と呼ばれている。裸馬に乗せられて江戸府内から連れられてきた罪人とその家族がこのあたりで密かに最後の別れを交わしたことから名付けられたものだ。
この立会川だが、京急の線路を越えてしばらく西に遡るとそこから上流はすべて暗渠になってしまう。水面が見られるのはこの付近の数百メートルだけなのだ。
さらにその上流を辿ってみると、暗渠になっているとはいえ蛇行した川筋がはっきりと地図に刻印されている。それは、JRの大井町の駅の下を潜り、大きく蛇行しながら西に向かい横須賀線の西大井駅の下を通る。この立会道路と名付けられた立会川の流路は、さらに大井町線の荏原町の駅をかすめ、池上線の旗の台駅のやや北側を抜け、北上しながら目黒線の西小山駅の北側を通り、住所でいうと目黒区碑文谷あたりに辿りつく。
後に調べて分かったのだが、立会川の源流は、清水池(清水池公園)と碑文谷池(碑文谷公園)なのだそうだ。なんだ、住んでいるすぐ近くの馴染みの場所じゃないか。
渋谷川、古川、目黒川、立会川、呑川、そして多摩川。東京城南の内陸部もこうした河川によって意外にも海とつながりを有しているのだ。そう言えば、ここ目黒においても時折、潮の香りがする時がある。
急に立会川が身近に感じられ始める。いつかその源流から河口まで流れを辿ってみよう。
商店街や密集した住宅のすぐ裏手を流れる立会川。いつもは隠されて見えない都市の裏側が垣間見られる新鮮さ。ケンコーハムの看板が泣かせる。
夜の部のお目当ては、もつ焼きの「お山の大将」。暖簾に書かれたホルモン焼きという言い方が昔風だ。
豚レバ刺し。どうして牛レバがダメで豚レバはOKなのだろう。とやかく詮索する気もなく平らげる。
煮込み。
のどガシラとハラミの串焼き。
コブクロ。
もつ焼き一串100円、煮込み350円、酎ハイ300円。墨東に比べれば少し値段は張るが、それでも充分ありがたい価格だ。そしてもつが新鮮かつヴォリュームたっぷりだ。この店は近くの品川の食肉市場(芝浦屠場)で仕入れる新鮮なもつが名物の店なのだ。立会川沿いにある「鳥勝」ももつ焼きで有名な店だ。
芝浦屠場の存在を背景に、海沿いや運河沿いに集積する工場の労働者たち、大井競馬場や平和島競艇場の常連たち、こうした人々に支えられてきた、これもひとつの地域に根ざした食文化なのだ。
墨東に加え、ここ東京湾岸沿いも俄然気になり出してしまった東京坂路地散人であった。
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