失われつつある東京の坂と路地を訪ね歩く「東京坂路地散人」シリーズ。
前回のvol.20に続いて羽田周辺を訪ねてみよう。
歌川広重の《名所江戸百景》に「はねたのわたし辧天の社」という一枚がある。
フレームを無視して手前に配された極端な近景ごしに遠くに風景を望む広重ならではの構図の一枚。
船頭の脚と櫓の間に描かれている松林のなかの弁天が羽田弁天(現在の玉川弁天)であり、その先の画面中央の常夜灯の付近には穴守稲荷の源になったといわれる小さな祠があったといわれている。
同じような構図からの今の風景はこんな感じだ。
架かっている橋は弁天橋と呼ばれている。右側の赤い鳥居は、もともと穴守稲荷のものだが、本殿の強制退去の際も移転されずに、空港内のもとの位置にぽつんと残されていたといういわく付きの鳥居だ。なんでも撤去しようとすると、その作業員が事故にあったり、飛行機の整備に支障が出たりしたのだといわれている。空港の沖合拡張に伴いようやく1999年になって現在の弁天橋の袂に移設された。
多摩川河口。茫漠とした風景が広がる。
弁天橋に来たのは川本三郎が『私の東京町歩き』(ちくま文庫)のなかの「空港行きの電車に乗って」と題された一節のなかで弁天橋を訪れたていたからだ。
「この小さな私鉄(注:京浜急行空港線のこと)は60年代世代にとっては痛みなしには考えられない、重い記憶のなかにある。(略)京大生山崎博昭が死んだ弁天橋が京浜急行線の終点、羽田空港駅(注:現在の天空橋駅のこと)の目の前にある。だからあの時代に青春をおくった人間にとってはここに来ることは、ある感慨なしにはできない」
「ここに来るのははじめてである。当時はデモなどにめったに参加しない、いわゆる一般学生で大学の授業にも出ず、毎日、新宿で映画を見たり、アルバイトをしたりしていた。そんな人間だからこそ、自分と同世代の人間がデモで死んだことに衝撃を受けたのである。いわゆる"十・八(ジュッパチ)ショック"である」
「十・八(ジッパチあるいはジュッパチ)闘争」とは、1967年10月8日に起こった佐藤栄作首相南ベトナム訪問阻止を狙った第一次羽田闘争のことである。弁天橋の橋の上で学生と機動隊が衝突して京大の学生が一人死んでいる。学生側の死者は60年安保闘争の時の樺美智子の死以来のことだった。その後の新左翼系学生によるヘルメットとゲバ棒(角材)による武装闘争の始まりとなった事件といわれている。
「ホテルをでた。ようやく夜明けが始まろうとしていてまだ薄暗かった。ホテルの前の海老取川にかかる弁天橋に行ってみた。二十年前、ここで学生たちが機動隊と衝突して学生が一人死んだとは思えないほど静まりかえっていた」
ここでの川本の筆は、あくまで冷静だ。
後で調べて分かったのだが、この弁天橋を大田南畝(蜀山人)も渡ったそうなのだ。
「蝦取橋といふを渡りて、羽田の弁天の前なる棚橋をわたり、社にいる、玉川弁財天という額を掲ぐ、こゝは要島をいふ所なり」
狂歌師であり幕府の官吏でもあった南畝が文化5年(1808)に多摩川周辺の治水状況を調査する旅を綴った『調布日記』に上の様な記録が残されているのだそうだ(「多摩川の汽水域」というサイトより)。
散歩の折、現在の京成西船駅の近くで偶然にも敬愛する蜀山人の筆によりその由来が刻まれた古碑を発見して大いに喜んだのは永井荷風だ。(『断腸亭日乗』昭和22年(1947)年1月26日)
その発見は、戦後の随筆『葛飾土産』になかでも語られている。穏かな諦観が滲み出すような名品だ。
そしてその荷風を敬愛し、『断腸亭日乗』私註とサブタイトルがつけられた『荷風と東京』(都市出版1996)を書いたのが川本三郎だ。
思いもかけない連鎖に驚く。
当の荷風散人も書いている。「偶然のよろこびは期待した喜びにまさることは、わたくしばかりではなく誰も皆さうであらう」(『元八まん』)と。
多摩川と海老取川が分流するところに川に突き出したように小さな稲荷が設けられている。この辺では知られたところらしく、常連らしき人が何とはなしに集まってきいる。海のような広々とした河口の風景に惹かれるのか、そこに突き出た社の存在に惹かれるのか、実際にここに立てみると、その気持ちが何となく分かる。
浅瀬になっているところに人がいるので行ってみると、なんと潮干狩りをしているのだ。東京とは思えないどこか現実ばなれしたような光景。蜆もとれれば蟹もいる。ここは多摩川というよりはすでに海だ。海の町羽田は意外にも今も健在なのだ。
フェンスの向こうの空港。
本羽田あたりで見つけた倉庫。手書きで書かれた会社名が実にいい味だ。
夕暮れも近い京浜蒲田界隈、柳通りを抜けようとするが、6月からすでに解体が始まっていたのだ。あの傑作の店名の店たちやラビリンスのような路地は消えつつあった。
「昔」は取り残されることもままならず消滅するのみだ。
柳通りという名称も消えてしまったのか、と思いきや、JR寄りの界隈はまだ健在だった。明かりが灯った「京急蒲田柳通り」の原色の看板が夕暮れの路地に映える。再開発はここまで及ぶのだろうか。
JR蒲田駅前に続く中央通り。こちらは現役のキャバレー、ピンサロ、居酒屋、焼肉などが今日も元気に頑張っている。なんでもあり、ないのは洗練という名の柔弱さだけというパワーがすごい。
川本三郎も先ほどの一節で、京急蒲田駅とJR蒲田駅との間の歓楽街を歩きながら、当時の記憶を辿っている。
「当時「週間朝日」の記者だった。入社したてだった。気分は圧倒的に新左翼の学生たちに傾いていた。(略)記者仲間とたちと蒲田駅の近くの安宿に前日から泊まり込んだ。ザコ寝だった。そして翌11月16日、早朝から蒲田の町に飛び出していった。羽田空港に向かう道路のあちこちでヘルメット姿のデモ隊と機動隊が衝突した。そして学生が機動隊の圧倒的な力の前で押し切られた。佐藤首相は羽田空港から南ベトナムに飛びたった(★1)。冷たい雨の降る晩秋の寒い日だった。学生、労働者そしてジャーナリストも雨に打たれドブネズミみたいになって町に散っていった。その日の逮捕者約二千名」(★1:これは川本の勘違いだろう。この時の佐藤首相の渡航先はアメリカだった)
「十・八闘争」から2年後の1969年11月16日・17日、蒲田周辺で佐藤首相訪米阻止闘争と呼ばれている新左翼による武装闘争が行われる。弁天橋の時に比べ新左翼側の完全な敗北に終わり、60年代の学生運動の転換点にもなったといわれている。
「二十年前のことである。それがオンリー・イエスタデイ、つい昨日のことのように思い出され、キャバレー街を一人歩いていても気持ちが自然に高ぶってくる。酒を飲みたくなる。しかしながら、この町では飲みたくない。絶対に飲みたくない。飲んだら荒れそうな気がする」
川本にしては珍しく感情がストレートにしかも強く吐露されている。
川本三郎は、朝日ジャーナルの記者だった27歳(1972年)の時、「新左翼」の起こした殺人事件の取材に関連して逮捕。その後、有罪判決を受け、朝日新聞社を懲戒免職になっている。川本はこの自らの過去のことを『マイ・バック・ページ』(河出書房新社1988)という作品で書いているが、それ以外では得意とする町歩きエッセイなどでは、当時にまつわる記憶や感慨を記すことを慎重に避けてきた感が強いように思う。
ところが蒲田界隈をぶらつく箇所には当時をめぐる想いが書き込まれいる。何故だろうか。弁天橋に来ようと思い立った理由も、正確にいうとこの文章が気にかかっていたからだ。
『マイ・バック・ページ』をパラパラと読み返していて、そのヒントを見つけた。
「ついこの前までデモ隊側にいた自分が今は「記者」という特権でデモの現場にて、学生と警察の衝突という”決定的瞬間”を”見物”していられる。なおかつ自分はベトナム反戦デモを取材しているという”良心”の満足感も得られる。権力の側からの特権を保証されながら、気持ちだけは反権力の側にいる。その矛盾が自分のなかでいっこうに解決されなかった」
川本は、その日同行していた、日本の左翼運動を取材しに来日していたアメリカ人のニューレフト系雑誌のジャーナリストが何人かの男に囲まれ殴られているのを発見する。
「この野郎、アメ公のくせに!」「テメエ、三里塚にもいただろう!」
私服刑事に逮捕されそうになっていたのだ。川本は「報道腕章」を振りまわしてその輪に飛び込む。
「その時、刑事の一人が私たちをにらみつけていった。「テメエら新聞記者のくせに学生の見方をしやがって!いつかしょっぴてやるからな!」私たちはどうにかその場をを切り抜けたが、二人ともショックで青ざめていた。私は、刑事たちがずっとスティーブ(注:アメリカ人記者のこと)に目をつけていたことをはじめて知ってその執念に驚愕していた。自分の判断の甘さが歯がゆかったし、最終的に「報道腕章」の特権を使ってその場を切り抜けたことにも無力感を感じていた」
新左翼へのシンパシー、新米記者としての野心、一方で普段から抱えていた記者という立場の矛盾、機動隊とデモ隊の衝突、圧倒的な力の前で雨の中を敗走するデモ隊、不意打ちのように目の当たりにする権力の力、襲い掛かる暴力とその恐怖、結局は権力から付与された特権を利用せざるを得なかったという現実、そしてまるでその後を暗示するかのように思える刑事の罵り声。
その日の蒲田での出来事は事件と呼ぶほどではなかったにせよ、その後自身が巻き込まれてゆく事件を強く予感させるような出来事として記憶の底にはりついていたのではなかったか。
蒲田の街を歩きながらかつての記憶が蘇ってくる。記憶の中のその日の蒲田の街が立ち上がってくる。
街が喚起する記憶と記憶の中の街。それは時に現在よりも生々しい当時として、あるいは現実の街よりも生き生きとした時空として蘇ってくるのだ。
"Ah, but I was so much older then, I'm younger than that now" (My bake pages by Bob Dylan)
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