江戸東京博物館で『大浮世絵展』を観てきました。
お目当ては鈴木春信の「雪中相合傘」。展示されるのは大英博物館所蔵のものだ。
簡素に描かれた雪景色のなか同じ番傘に納まる男女を描いた1767(明和4)年頃の作品。錦絵の創始者鈴木春信の傑作といわれている。
想像していたより小さい。中板とよばれるA4サイズを少し小さくした縦26.7cm×横20.0cmの大きさだ。
白を基調にした雪景色と白と黒の着物の人物。錦絵といいながら極めて抑制された表現だ。着物には薄紅色や亜麻色のような微妙な色合いが施されている。
抑制された表現ながら、良くみると着物の柄や傘に積もった雪が色を乗せない空摺と呼ばれる立体的な手法で表現されている。型押の際の圧力に耐えられるように奉書紙と呼ばれる厚手の高価な和紙が使われているそうだ。
画像では分からないが黒の着物にも空摺が施されており、着物の柄が光の陰影で浮かび上がる仕掛けになっている。おそらく当時は直接手に持って表面を撫でるなどしながら、その立体的な感触も含めて鑑賞・愛玩されていたのだろうと推測される。巧に計算されているのか、手に取って愛でるにはちょうど良い大きさだ。
一般に当時の浮世絵は一度に200枚ほど摺り、当時の相場は1枚16文、かけそば一杯程度の値段だったそうだ。今でいうと4~500円程度という感じだろうか。ただし鈴木春信の作品は高価でその10倍の値段で取引されていたそうだ。(artscape 鈴木春信《雪中相合傘》 カラリストの白と紙 ― 「田辺昌子」)
描かれている若い人物は2人とも同じ顔立ちをしている。物憂げ表情をした現実感が希薄な若く中性的な存在として描かれている。
2人の足さばきを見ると雪の中を前へと歩いているのが分かる。黒の着物の人物はわずかに振り向き、白の着物の人物はかすかにうつむいている。降り積む雪のなか共に傘を携えながら歩む、その瞬間を捉えている。意外に動的なモチーフが描かれているのだ。
当時、男女が相合傘に納まる習慣は一般的な光景ではなく、歌舞伎では心中の場へと向かう男女の演出として相合傘の道行(みちゆき)が定番になっていたそうだ(前掲のサイト)。
この作品には、春信の錦絵の特徴といわれている、どこか夢幻的な世界を感じさせるところが良く現れている。夢の途中を垣間見ているような、そんな感じだ。
描かれた若い男女が放っているフラジャイルでどこか危うい感じが現実離れした存在をイメージさせるからだろう。
心中への道行きという見立てによって運命の途上の瞬間を暗喩しているということも大きい。現実の出来事なのか、芝居のなかのワンシーンなのか、はたまた、かなわぬ恋を抱く男女の夢か幻か、この作品にはこうした多重的なイメージが重なりあっている。
さらに背景となっている雪の景色が、外界から閉ざされ時間の流れに妙に敏感になってしまう、雪の日独特の感覚を思い起こさせることなども関係しているのかもしれない。
この物憂げ表情の現実感が希薄な中性的存在として描かれてた人物が不思議と現代的な印象を残す。
こうした今っぽい印象を残す男女を描いた浮世絵師は鈴木春信以外にはいないといって良い。ほかの浮世絵師の描く男女はどう見ても江戸時代の男女にしか見えない。むしろその方が当然のことだ。
こうした印象を持ってしまうこと自体、見る側が日本の漫画やアニメを見慣れてしまっており、そうした特徴をもったものに現代性を見出してしまいがちだ、ということが原因なのかもしれない。
日本の漫画やアニメは中性的存在がその特徴のひとつといわれている。『エヴァンゲリオン』や『スカイクロラ』など中性的に描かれた主人公や男女が同じ顔のキャラクターが登場する事例は枚挙にいとまがない。
本来はその逆で、今の日本の漫画やアニメの表現形式やその根底にある美意識のルーツに浮世絵がある、という歴史なわけだが。
永井荷風は鈴木春信の描く男女をしてこう記している。
「春信の男女は單に其の當時の衣服を着するのみにして其の感情に於いては永遠の女性と男性とに過ぎざるなり。さるが故に今日の吾人に対してもなほ永久なる恋愛の詩美を表現する好個の象徴として映ずる事を妨げざるなり」(『江戸藝術論』「鈴木春信の錦繪」)
永井荷風が生きた時代は鈴木春信が生きた時代から約150年後だ。荷風も春信の描く男女に通時的な日本の男女の姿を見出している。鈴木春信の描く男女に現代性を見てしまうのは一概に漫画やアニメを見慣れたバイアスのせいばかりとはいえない。
春信から現代まで約250年。我々もまた鈴木春信によって描かれた男女に今に通低する普遍的な自身の姿や情感を見てとってしまう。それは何故なのだろうか?
手に余る詳しい分析をあらかじめ放棄しているという言い訳を前提で書くのだが、それは鈴木春信によって描かれた男女に見られる、なにかに想いを馳せているような、それでいて同時に、もはやそれらを諦めているような、そんな両義的な表情が訴えかけてくるなにかに関係があるような気がする。
写実や性差の表現を離れた独特の描写が獲得した、人や人生のはかなさに対する抽象化された表現とでも言おうか、あるいは無常観の普遍化されたイメージとでも言おうか。
ところでこの「雪中相合傘」に描かれた2人の人物、一般には黒の着物は<男>で白の着物は<女>となっているが、はたして本当にこの2人をそのように断定してしまって良いのだろうか?そんな疑問もわき上がてくる。
2人とも頭巾をかぶっており、当時、最も象徴的に男女差を表現していた髪形が巧妙に隠蔽されている。なるほど白い着物は振袖だが、黒の衣装の人物の着物の裏地が朱に染められていたり、履物の鼻緒も<女>と同じ朱色だったりする。
黒の着物の人物の頭巾の下の高い髷の様子や鈴木春信が男女を書き分ける際の微妙な眉の調子や目の切れ長具合などを仔細に観察すると、なるほど黒は<男>で白は<女>の表現と思われるが、一方で鼻や口のバランスはその逆のようにも見える。
見れば見るほどその判断に自信がなくなる。
白拍子とよばれる高貴な遊女が男装で舞う平安時代以来の歌舞の伝統や浮世絵には本来は男性である女形がごく自然に美人画に描かれていたこと(『江戸の美男子』太田記念美術館2013)などを考えると、この2人は、男と女ではなく、男と男、あるいは、女と女という組み合わせであったと見立てることも許されるかもしれない。
夢の途上の<男>と<女>。「雪中相合傘」を前にしてその魅力は尽きない。
copyrights (c) 2014 tokyo culture addiction all rights reserved. 無断転載禁止。