失われつつある東京の坂と路地を訪ね歩く「東京坂路地散人」シリーズ。
新旧の呑川に挟まれた、現在の大田区大森南という住所のあたりは、かつては森ヶ崎と称されており、戦前までは海浜の保養地、行楽地として知られたところだ。明治34(1901)年に鉱泉が発見されたことが二業地として賑わうきっかけだった。
永井荷風の『腕くらべ』(1916年 大正5年連載開始)に、吉岡という旦那が新橋芸者の駒代を連れて木挽町の待合が所有する森ヶ崎にある連れ込み用の別荘「三春園」に泊まるシーンが出てくる。
「誰もいないと思うと広い家の中は一際寂(ひときわしん)としたように思われ、廊下の窓から見える裏庭一面、激しく照りつける残暑の日の光に、構内(かまえうち)は勿論垣根の外の往来まで何の物音もなく、ただ耳に入るのは蝉の声と虫の音ばかりである。」
熱海や伊東よりも近くて手頃、それでいて海に近いひなびた感じが残る興趣が当時の粋筋を引きつけたのだろう。
今はその面影は全くなく、往時を偲ばせるような狭斜の街の雰囲気も皆無だ。中小工場と住宅が混在するなか、商店がまばらに点在するバス通りがあるだけだ。海側は森ヶ崎水処理センターの巨大な施設によって占められている。
その落差の大きさが都市の無常さを物語っているようで人を惹きつけるのか、種村季弘(『江戸東京《奇想》徘徊記』 2003)や川本三郎(『いまむかし東京町歩き』 2012)が、この殺風景な森ヶ崎に足を向けている。
しばらく前までは料亭や待合の末裔のような蕎麦屋や料理屋などがかろうじて残っていたとのことだが現在はそうして店もなくなっている。何もかもがなくなっているなか、唯一残っているのが大森寺境内にある鉱泉の碑だ。
最後の文字は「朝鮮陸鍾充書」と読める。陸鍾充という朝鮮の人が揮毫している。どういう人物なのか?いかにもいわくありげだが、どういう背景と経緯があるのか少し調べてだけでは皆目わからない。
vol.20で対岸からは近づけなかった呑川の河口が見られるところまで行ってみる。
途中に現れる解体業者のストックヤード。懐かしいシトロエンDSを見つける。原型を留めないほど傷んでいても、独特の後ろ姿ですぐわかる。
呑川河口。やっと見ることができた。
水は意外にきれいだ。
浄水場と海老取川の間は細長い公園になっており、珍しい旋回方式の羽田可動橋が見られる、知る人ぞ知るスポットとなっている。かつて高速1号羽田線の渋滞の回避を目的に作られたが今は使用されていない。巨大な鉄のオブジェ。
旧呑川の元の河口には呑川水門が設けられている。旧呑川のほとんどは埋め立てられて遊歩道の呑川緑地となっているが、水門の手前の100メートルぐらいは水面が残っており、船だまりが設けられている。以前、vol.20で訪れた北前掘水門と同じだ。
普通の家並みのなかに唐突に喰い込むように水面が存在し、そして突然終わる。海でもなく川でもない、他では決して見られない非日常的な風景はいつ見ても見飽きない。
ささやかな船だまりとはいえ、かつての呑川を船が行き来していた時代の名残だ。陸は川で海と繋がっていたのだ。この辺は海苔の養殖が盛んで、板海苔の元祖である浅草海苔の原料はこのあたりの海で生産されていた。今でもこの近辺には海苔を商う問屋が数多く残っている。江戸時代、大森の海で採れた海苔や海産物は呑川や何本も走る掘割を上って陸揚げされ、羽田道を通って江戸の中心に運ばれていたのだろう。この船だまりはかつて東京湾が立派な漁場だった名残なのだ。
大田区にはこの呑川水門のほかに、南前掘水門、北前掘水門、貴船水門の4箇所の水門があるが、東京都は港湾設備の耐震性強化を目指して、順次取り壊して防潮堤に切り替えていく方針を提示している。
こうした船だまりや水門もそのうち消えてなくなるのだろう。海苔養殖などの漁業権は既に昭和37年に放棄されている。船だまりがなくなっても支障はないということなのだろう。海はますます遠ざかるばかりである。
貴船水門はこの約300メートルほど北にある。海苔船係留用の運河であったかつての貴船掘の河口である。こちらにも船だまりがあり、やはり独特の風景を目にすることができる。
かもめ。海はますます遠ざかる一方だがやはりここは海辺だ。
貴船水門の先は「大森ふるさと海浜公園」として砂浜が再生されている。造られた砂浜でも、目の前が工場でも、微かな波しかこなくても、そこは立派な海なのだ。「ふるさと」にしてはちょっと切ない光景がむしろ東京らしいかもしれない。
橋の欄干にこの地にちなんだ浮世絵のパネルが飾られている。これは小林清親の「大森朝の海」(1880(明治13))と題された海苔の収穫の模様を描いた作品。傾く舟の具合や2人の女性の動作など見事にその動きを捉えている。女性による海苔採りという題材もどこか艶っぽい情趣を漂わせて惹かれものがある。
森ヶ崎の方に戻ると前の浦商店会という商店街が現れる。
どの駅からも遠いこの辺では、町工場の集積と軌を一にしてできたであろう戦後からの商店街がそこここに点在している。海の存在は遠ざかる一方だが、昭和の雰囲気は健在だ。
商店街の途中に羽田道の道標があった。
マンションなどの侵食で既に邪魔物扱いされているということか、わざわざ「準工業地域」との看板を掲げた工場。
漁師村に鉱泉が湧き、ひなびた味わいの二業地が生まれ、戦後は町工場が集まってきて、住宅が増え、商店街が誕生し、マンションに変わり・・・・・。街は何層もの見えない時のレイヤーで成り立っているのである。
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